この2冊は、60年ほども前に、琉球大学国文科の学生で、文芸部に所属していた中里友豪さんの蔵書だったらしい。
中里さんは昨年4月17日に亡くなっている。
https://ryukyushimpo.jp/news/entry-1307449.html
山之口貘賞受賞詩人で、演劇集団「創造」の結成に参加した中里友豪(なかざと・ゆうごう)=本名・仲里朝豪(ともひで)=さんが17日午後11時25分、心不全のため南風原町の病院で死去した。84歳。那覇市出身。自宅は那覇市楚辺。告別式は21日午後2時から2時45分、那覇市泉崎2の103の30、サンレー那覇紫雲閣で執り行われる。喪主は妻敏子(としこ)さん。
中里さんは琉大国文学科卒業後、中学・高校教師になった。1961年、演劇集団「創造」の結成に参加し、「アンネの日記」などに出演。85年に詩誌「EKE」を設立。98年に詩集「遠い風」で第21回山之口貘賞を受けた。2000年に戯曲「越境者」で第4回沖縄市戯曲大賞を受賞した。代表作に「中里友豪詩集」「詩集 長いロスタイム」など。
ビボー叢書 『ニグロと河』(1958.2.15刊)
400部しか刊行されなかったうちの一冊。 琉大文芸部中里友豪の署名。
赤いラインを引いている詩、一編
ラングストン・ヒューズに最初に出会ったのは、ハンセン病療養所の詩人の書棚だった。
ビボー叢書『黒人街のシェイクスピア』(1962.2.10刊)
ラングストン・ヒューズの 詩に突き動かされて書き込んだショートショートを発見した。
[ショート・ショート・ショート]
オレ今、酒を飲んでいる
ト・アル・バー、とはいわぬ
「ア子」で確には「朝子」のバー
惚れた、ということは一度もなかったが、
オレ、ガッコのセンセーだもんだから
ここに来るもの皆んなしてオレと朝子ヒッツケて
楽しんでいたものだ
今、「ア子」はここにはいない
トーキョーにいる
トーキョーでベンキョーしている
そのことは問題ではなかった
―――――――――
ケンカしている
酔いつぶれた平良川の青年たちがたむろして、
おおよそ理由の理にもならないコトバにつまづいて
ケンカをおっぱじめたというわけだ
ガラにもなくオレが中に入る
入ってしまってシマッタと思ってもそこはそれ
なにせケンカだもんだから後に引くわけにはいかない
そこでいってやったのだ
――オマエラそんなにケンカしたいのか、そうか、なら外にあふれている極東の勇士マリンサマとやったらどうだ、その方が手ごたえがあるだろう
と.
するとこいつら急にシンとしていったのだ
――手ごたえがありすぎる.
テヤンデーいくじのない連中だ
こいつらもデレデレと出ていったのだが
出ていって後に隣の男、
そういえばこいつまるでオレみたいな顔をして
一ぶしじゅう
ことのなりゆきを見ていたっけ
その男がいうには
今出ていった男はC・I・Cらしいというのだ
オッ、こいつはウカツだったと思ってはみたが、
そこはそれ
こういうことにはなれっこになっているので別に気にならない
強いて気になることといえば
気にならないオレのシミだらけの倦怠が気になるのだ。
それにしてもくだんの男、
ミゴトな酔いっぷりではあった
1962.7.7
注)CIC
Counter Intelligence Corpsの略語で、米軍が占領している敵地で諜報活動をする陸軍部隊である。日本語では諜報部隊、防諜部隊、対敵諜報部隊、対諜報部隊などと訳され、訳語は一定しない。
敗戦後の日本を占領管理していた連合軍総司令部(GHQ)には4つの部からなる参謀部(General Staff Section)があり、参謀2部(G2)が情報関係を担当していた。1948年当時、G2の総勢は約3000人、そのうち約2000人が民間情報局に属し、その中に約900人のCIC第441部隊が含まれていた。CICは日本全土を6つの管区に分け、県単位で分散駐留していた。日本政府をはじめ日本各地の行政機関や警察から情報を得る一方、情報協力者の通報によって、住民の動向や重要人物についての情報収集と監視に当った。占領当初、GHQが日本の非軍事化と民主化の政策を実行していた時期には、主として旧軍人や政財界、学術・教育機関、民間諸団体の旧指導者が情報収集と監視の対象とされた。
http://www7b.biglobe.ne.jp/~whoyou/kokubakotaro.html#kokubakotaro2003