第7章 みんなは天使に変身ね
「ユダヤ人問題に関しては、それが「美談」であれ「醜聞」であれ、国民的な記憶からことごとく排除してしまおうとする傾向が戦後のポーランドでは強」い。
ドイツ軍占領下のポーランド社会に蔓延していた「密告熱」は、後のポーランド社会がひた隠しに隠そうとした国民的記憶のなかの「恥部」のひとつであった。
ドイツ軍占領下のワルシャワが「沈没船」だとするなら、「沈んでゆく舟をすてて救命ボートに逃れる」ことに躍起なポーランド人のなかには(中略)だれもかれもが含まれてしまう。
ホロコーストを生きのびた、とくに「女性サバイバー」が総じて過去を話したがらないのは、彼女らがつねに「性暴力」や「性的搾取」の危険にさらされ、薄氷を踏むような日常を強いられていたからであり、彼女らがそれにどれだけ傷ついたか、そして傷つかないためにどのおうな心的機制をはたらかせたか、そのからくりまで彼女らに語らせることは、これもまた暴力である。
この事態に、非ユダヤ人作家はどう向き合ったのか?
「彼らの苦しみをすぐさま悲劇仕立てに変えるのは、礼を失すると思えた。」詩人ミウォシュ
このミウォシュの詩人的な構えと、作家アンジェイェフスキの構えは異なる。
「おまえたちも一人残らず犬ころのようにくたばるがいい!(中略)わたしたちのように焼き殺されるがいい……」(アンジェイェフスキ『聖週間』1945)
おそらく人間がなんらかの「モラル」を背負うには、それを背負わせる何者か(=他者)が発する「棘」のような合図やことばが必要なのだ。
(それは耳にやきついて死ぬまで離れない、死にゆく者の叫びであったりする)
ユダヤ系の作家であれば、もっと遠まわしに言語化するはずのポーランド人に対するアンビバレントな感情を、アンジェイェフスキは単刀直入なイレーナのことばのなかに凝縮させた。
第8章 なぜ彼らは羊のように
(この問いは、今の日本社会の従順な市民たちに投げかけられているような気がしてあらない。なぜあなたたちは羊のように……)
レイシズムでも性暴力でも、構造的な差別や暴力の被害者が二重三重に追い打ちをかけるような攻撃にさらされるという「被害者攻撃」の典型例としてまず思い浮かぶのは、古代から現代まで、しばしば死に向かわねばならなかったユダヤ人が自分らを「屠り場に向かう小羊」そして「毛を切る者の前に物を言わない羊」(「イザヤ書」五三・7)になぞらえるのを見て、それをからかい半分に「なぜ」と問い、その被害者性を毀損しようとする反ユダヤ主義者たちのふるまいだろう。 西
「復讐」の不可避性と「殺すなかれ」という戒めとのあいだの齟齬を、戦時下のユダヤ人たちは、どのようにわが身に引き受けようとしていたのか?
たとえば、プリーモ・レーヴィ
「ユダヤ文学」としての『今でなければいつ』の最大の特徴は、「モーセの十戒」のなかで「殺してはならない」と「姦淫してはならない」がふたつ並べて最初に書かれている(出エジプト二〇・13-14)ことの意味を「ホロコースト小説」という枠組みのなかであらためて問おうとしているところにある。
第9章 狩人に追われて逃げまどう
国家間であれ、国家と政体をもたない軍事組織であれ、あるいは武装した民間人であれ、暴力の連鎖と凍結のなかに身を置きながら、ひとがふるう暴力は、形はどうあれ「大きな力に組み敷かれ」てのことであり、その力をみずからの内にも外にもみいだす、開かれた「記憶の発掘と保存」と「予感の鈍磨との闘い」が各自に求められているのが現代である。
「大きな力」の圧迫のもとで、それでも生命を留保されていた人間が発した言葉のなかに、彼ら彼女らよりも先に死んでいった人びとの記憶はどのように刻みこまれているのか。
私たちがそれらの言葉のなかに読みとるべきは、そうした生者の脳裏に住みついていた数々の死者の気配であり、先に死んでいった者たちにその生者らがいだいた数々の感情の様態についてである。そしてその死者は同じ血族共同体、政治共同体(=「想像の共同体」)の構成員だけではないはずで、場合によってはみずから殺めることになってしまった、そんな身近な死者の記憶からも逃れられないのがサバイバーというものである。
※「ホロコースト文学」を読む私たちにとって、「サバイバー」とは誰なのか?
という問題。
※「ホロコースト文学」を読む私たちにとって、「当事者」とは誰なのか?
という問題。
※ 『苦海浄土』において、石牟礼道子に釜鶴松の魂魄が乗り移った瞬間を想起せよ。
※ 愛おしい死者たちが自身の心身の中に生きつづけているかぎり、書くことをやめられない金石範を想起せよ
※ ライを病んで一度は死んだ谺雄二が、二度目の死ぬに死ねない死を迎えた病友たちと常に共にあって詩を書きつづけたことを想起せよ。
「群れなす死者」たちは、それぞれのやり方で生きている人間にその気配を送り届けてくる。「ホロコースト文学」を読むとは、そうした「群れ」にとりかこまれて、わずらわされたり癒されたりする生を「残された生」として生きた人間のおごそかな誠実さや慄えに、こちらもまた居住まいを正して粘り強く向きあっていく作業にほかならない。
(西成彦による結語)