覚えているのは「自分の場所を見つける」ことくらいだった。
①大事なのは「世界を止める」こと。
「わしらは自分のなかのおしゃべりでわしらの世界を守っておるのだ。わしらはそれを新生させ、生命でもえたたせ、心のなかのおしゃべりで支えているんだ。それだけじゃない。自分におしゃべりしながら道を選んどるのさ。こうして死ぬ日まで同じ選択を何度もくりかえしてしとるんだ。死ぬ日まで同じ心のおしゃべりをくりかえしとるんだからな」
そのおしゃべりを止めろ! というわけだ。
喩えて言うなら、
われわれの意識(内的言語)のはたらきが判断するいっさいのことをとりあえず「カッコにいれる」(=フッサールの現象学的判断中止)のような
われわれの生きる世界(商品-貨幣世界)の「自明の」諸前提をカッコに入れる。
(いわば、マルクスの経済学的判断中止)のような
世界を止める。つまり、自己の生きる世界の自明性を解体せよ。ということである。
② そして、「明晰」とはひとつの盲信である。
それは自分の現在もっている特定の説明体系(近代合理主義、等々)の普遍性への盲信である。(中略)
人間は<統合された意味づけ、位置づけの体系への要求>という固有の欲求につきうごかされて、この「明晰」の罠にとらえられる。
以下、真木悠介による<明晰>と「明晰」の整理
「明晰」を克服したものがゆくべきところは、「不明席」ではなく、「世界を止め」て見る力をもった真の<明晰>である。
「明晰」は「世界」に内没し、<明晰>は世界を超える。
「明晰」はひとつの耽溺=自足であり、<明晰>はひとつの<意志>である。
<明晰>は自己の「明晰」が、「目の前の一点にすぎないこと」を明晰に自覚している。
<明晰>とは、明晰さ自体の限界を知る明晰さ、対自化された明晰さである。
③ 焦点を合わせないで観ること。
以下も、真木悠介による整理。
<焦点を合わせる見方>においては、あらかじめ手持ちの枠組みにあるものだけが見える。「自分の知っていること」だけが見える。<焦点を合わせない見方>とは、予期せぬものへの自由な構えだ。
(唐突だが、石牟礼さんの焦点を合わさずに物事を観ているかのようだった眼差しを思い出す……)
この項、つづく。