「さあ、出発です」 @2024.08.02 ピースマーチ (関西ガザ緊急アクション&KYMCの共催)

 

 

ピースマーチには参加できなかったのだけど、

メッセージを実行委員の方が代読してくださった。

 

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<さあ、出発です>

 

いま、パレスチナでは、一般市民の大量虐殺、ジェノサイドが日々繰り広げられています。イスラエルによって、世界中の人々が見ているなかで。ジェノサイドがこれほどまでに堂々と恥知らずに行われているのは、歴史上初めてのことではないでしょうか。

 

とはいえ、ジェノサイド自体は、西欧列強によって未開の民と名づけられた人々に対して、ずっと行われてきたことです。なにより、ジェノサイドは、常に植民地主義と共にあったことを忘れてはなりません。

 

植民地主義は、つねに人間を文明と未開に切り分けます。

 

植民地主義は、未開の側に分類された者たちを野蛮な獣として扱います。やつらは獣なのだから、奴隷にしてもよい、殺してもよいのだと。

 

植民地主義は、優生思想とも結びついています。野蛮な劣等人種は遅かれ早かれ滅びる運命にある、だから、さっさと殺してやるのは恩恵であり、文明の権利であり、文明の利益になることなのだと。

 

さらにもう一つ、忘れてはならない重要なことがあります。当然の権利のようにジェノサイドを繰り広げているイスラエルの側に立つ国々は、世界の富をほとんど独占してきたいわゆる先進国であり、そのどの国もかつては植民地帝国であったということ。その国々こそが、ユダヤシオニストたちが武力でパレスチナを占領し、そこに生きる民を獣を追い払うようにして追放し、イスラエルという国家を建国することを承認したのだということ。

 

イスラエル植民地主義によって生まれ、建国以来変わることなくパレスチナを不法に占領し、無法な虐殺を続けている、いわば、この世の植民地主義の純粋なる結晶です。イスラエルがオリンピックに堂々と出場もすれば、広島の平和記念式典や大阪万博に参加するのも、いわゆる先進国がそれを恥ずかしげもなく受け入れるのも、そもそもこの世界自体が、植民地支配と戦争で富を蓄積してきた西欧列強によって、西欧中心の文明観、世界観、人間観で形づくられてきたからにほかなりません。

 

植民地主義に侵され、理不尽な死がすみずみまで染みわたっている、あまりに無惨な私たちの世界。一方的な基準で人間が殺す側と殺される側に分類される、あまりに非対称な私たちの世界。

 

イスラエルの所業を問い、パレスチナの解放を願う私たちは、同時に、この世界の成り立ちそのものを問わねばなりません。殺されずに生きている私たち自身が、実は、知らず知らず殺す側に身を置いていることの恥を知らねばなりません。とりわけ、この日本に生きる私たちにとって、日本と植民地主義の関わりについて知らねばならぬことも数多くあります。

 

パレスチナの闘う知識人エドワード・サイードは、イスラエルによるパレスチナの占領は、20世紀以降の世界でもっとも長い軍事占領であり、その次に長かったのは、1910年から1945年にかけての日本による朝鮮半島占領だと語っています。

 

イスラエルの建国は1948年。同じ年、朝鮮半島に二つの分断国家が誕生しています。日本と入れ替わりに、1945年9月に南朝鮮の次なる支配者としてやってきたアメリカは、日本による植民地支配のシステムを廃棄することなく、そのまま活用しました。支配者にとっては、まことに好都合なシステムだったからです。この支配システムを受け継いだ韓国において、権力によるジェノサイドが繰り返されたことを、けっして忘れてはなりません。

 

1948年にアメリカを後ろ盾に建国された韓国と、同じくアメリカにとって有益な者たちが権力の座に据えられた日本が、アメリカの同盟国として、実のところは属国として、植民地主義清算など全くなされないまま、アメリカの傘の下に置かれてきたことも忘れてはなりません。

 

イスラエルの最大の同盟国であるアメリカの、つまりは、この非対称の世界で堂々と殺す側の真ん中に立って、殺される側の抵抗をテロと呼ぶ恥知らずの大国の、傘の下に、私たちはずっと置かれてきたのです。ここ日本で、パレスチナ解放の声をあげるとき、この歴史をきちんと踏まえることはとても大事なことです。

 

恥知らずな国家権力の言うがままの恥知らずな人間にならないために、命の価値を権力者の都合で勝手に決められないために、この非対称の世界を引っくり返すために、私たちがやらねばならないことは無数にあることでしょう。

 

世界の変化は、ひとりの人間のささやかな変化からはじまります。大きな声にのまれることなく、自分の生きている場所で、自分のできることは何かと問いつづける者たち一人一人の小さな歩みは、きっと、すべての命が尊ばれる新しい世界への大きな歩みになるはず。

 

それぞれの歩み方で、新しい世界へと共に歩んでいく私たちでありますように。

 

挫けず、諦めず、さあ、出発です。