道具論(栄久庵憲司) 序章 ヒロシマの夕景 抜き書き  

二十世紀を駆けぬけて

 敗戦後も間もない日、焼けなかった京都から故郷へ立ち戻った私は、広島の町を一望に見おろす比治山に登って、国見におよんだ。

 焼き尽くされて灰燼と化し、七つの河だけが陰刻となった町の後は荒涼として奇妙に静謐、鬼気迫る惨景であった。

 広島という七つの河の河原の町に生きた人たちは、逝去すると周辺の山々に移って、朝な夕なに河原にうごめく生者たちの姿を見守る。比治山は亡者たちの山居である。

 その比治山に登って国見をする私自身、亡者たちにうち混じっているような気がした。亡者たちはこの光景を何とみているのだろうか。

 生者同士の戦いが都市炎上を招いて終わった、その結末を愚かなことよ、と見ているにちがいない。

 いたいけな幼児やその母たち、余命を惜しんで生の愉しみを求めていた老父を、そして志を得たばかりの有為な青年を、この亡者の山に送って不気味な静謐をもたらした第二次大戦の争い。

 亡者たちはその愚かさを生者になりかわって悲しんでくれているように思った。

 都市消失、一切合財灰燼と化する文化炎上。それはいったいどんなことだったのだろう。

 当時の人びとは私を含めて、その日その日を生きぬけるのに精一杯であった。その延長で二〇世紀末にきてしまった。二一世紀もその勢いで走りつけていって、いいのだろうか。いまいちど、比治山に登って国見をしてみたい。あの敗戦後間もない日々、亡者たちが私たち生者をどう見ていたのかを、いまいちど問い返してみたい。

 

(中略)

 

道具世界も地獄だった

 万物の焼き尽くされた原爆罹災都市を彷徨する日々のなかで、ひときわ深く刻印されて今も残る印象のひとつは、焼けただれて横転している市電の残骸だった。

 それは何か大きな生き物の死骸のように見えた。ずいぶん長い間扶持されていた遺骸も、いつしか解体されて視野から消されていったが、仏門にあった私には、それを生き物として弔ってやらなくてはならない気がした。

 まばらな人影もどこかへ消えてしまった廃墟の闇の中にころがっている市電の遺骸は、想像するだに凄惨である。漆黒の闇に、地獄絵が浮かびあがる。

 市民の足で会った都市の道具は、人を満載して走っているときは嬉々とし、活きいきとしていた。それは道具の生の姿だ。これと対比すると、横倒しによこたわる焼けた電車は、亀が甲羅を下に、仰向けになってもがきながら死を迎える姿に似ている。そこに声にならない声が、うめきの声が、聞こえてくる。焼けただれて死のふちにある道具が、町全体に、実はひしめいていた。それらの道具の断末魔のうめき声が聞こえてくる。そこなるヒトよ、助けてよ、とそこここから声を発している。あなたさまのお慈悲を、お助けを……。焼けたトラック、朽ちた自動車が、地獄に苦しむ亡者の様相を呈している。虚空をつかんで助けを乞うている。

 戦時のもの不足に苦しんだのは人間の方で、限られた道具たちは、精一杯働いてくれた。なんとか助けてやりたいものだ、なんとかせねば、と心をうたれる。

 私にできることは、ただ掌をあわせて、供養せむ、という気持を託すのが精一杯だった。目の前によこたわる市電に掌をあわせ、その背後に数百万の道具の亡者を想いうかべる。

 

道具世界 荘厳浄土

 たくさんの市電の死があった。トラックやバス、乗用車の死もあった。おびただしい自転車の死もあった。家々の中では、無数の家財道具の死があり、身辺の小物たちの死があった。

 原爆記念館には、それらの焼死した道具たちの、極くごく一部だが、保存され展示されている。

 そのひとつに、ピカドンの時を針が示している懐中時計がある。

 その、時計の焼死体は、米国製ウォルサムの懐中時計である。これを懐中に入れていた人はどうなったのだろうか。金属の時計が海中で熔変してしまったほどだから、これを抱いていた人は即死であっただろう。

 この懐中時計は大正時代の初期に一世を風靡したものの面影を宿している。ならば父親の洋行帰りの記念品を、形見として息子が懐中にしていたものかもしれない。母は健在だったのか、妻はいたのか。当時は家宝に近かったウォルサムをめぐって、二~三世代の生活のドラマが浮かび上がってくる。そうした、たくさんの人間の生活のうつし身としての時計の、一瞬の死。この時計は、まだちゃんとした供養をうけることなく死骸をさらしつづけている。

 だが、時計の死の形相は、それにまつわった人びとの生活の遺影である。これを弔うことは、たくさんの人びとの生きた日々を弔うことになる。ああ――南無阿弥陀仏、なみあみだぶつ。

 人間世界、というものがあるとするなら、これをそっくり裏返しにした道具世界というものがあるのではないか。路面電車にしろウォルサムにしろ、人のうつし身としての壮大な道具世界の、亡者たちなのである。電車の魂も、ウォルサムの亡霊も、みんな比治山に登ってきていて、人間の起こした都市焼滅の愚行を見おろしているのではないか。

 比治山には人間を弔う寺がある。ならば道具を弔う寺も要るのではないか。そこにウォルサムを祀り、市電を祀ったならば、焼死した道具がうかばれよう。

 いや、そこに見えてくるのは、かえって人間の姿ではないだろうか。不慮の死を遂げた道具の遺影に、人の愚かさが見えてくる。心なく捨て去られて朽ちていった道具に、人の不甲斐なさが浮上してこよう。 

(中略)

 亡き人を供養する法要は、亡き人とあらためて対面することである。もし道具の法要をするとすれば、まずは道具と向きあうことであるが、道具を介して、人間と向きあうことにもなるのではないか。それをつくり、使い、喜怒哀楽し、そして傷め。見捨てた人間のありようと、向きあうことになるのではないか。

 

羅生門に夕陽が映える

 比治山はヒロシマの東山である。

 その東山に登って、さまざまな想いに茫然と立ち尽くすうち、陽が傾いてきた。

 足下に山蔭が濃くなってきて、山を下ろうかと思い、見おさめに灰燼の巷を見かえすと、さいぜんより美しく見えた。灰色の惨景に輝きが加わっているのである。夕焼けの、金色に色づいた光が、斜頸しながら広島の廃墟を立体的に浮き立たせているのであった。

 西陽をさえぎるものとてない廃墟の照射に、わずかに転々と残るビルの残骸が煌めいて、荒涼たるタブローにアクセントをちりばめる。瀬戸内の夕焼けは世界一ときめこんでいた幼き日の思い出がよみがえってきた。

 広島は壊滅してヒロシマとなったが、国破れて山河あり、大自然の一浪はびくとも変わらぬ夕焼けの金色の箭(や)をヒロシマに注ぐのであった。

 地獄の風景は一転して極楽の光彩を放ちはじめた。古人が西方に浄土ありと見たのは、夕陽に焼けた空に阿弥陀の光束を見てのことではなかったか。

 蜃気楼のように浮かびあがったヒロシマのシルエットに、光明遍照十方世界と、仏陀の徳をいう一語が私の口を突いてでた。

 応仁の乱に、地獄の沙汰となった羅生門も、夕焼けの金色の箭には美しく輝いたにちがいない。

 美に帰依しよう。

 聖戦に「勝つまでは」の生涯ターゲットが挫折して、途方にくれていた青年のひとり、であった私にはこれが新しいターゲットとなった。

 

 

抜き書きは、ここまで。

序章のここまでが『道具論』の白眉。

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栄久庵憲司は、「物心一如」と言う。

『道具論』の最後、「結語」の章で、こう語る。

「物心一如。これが道具世界発見であった。物心一如の境地は光に包まれる。阿弥陀の発する光の箭を追い求め、夢みていく――祈りをこめていけばそれが見えてくる。阿弥陀を南無と見つめていくと、なぜかおつきあいのしかたが見えてくる。道具世界を見つめていくと、つきあいかたが発見できる。」

とはいえ、それもまだまだなのだと言う。道具世界行脚の旅は続くと言う。

「行脚は祈りである。行脚の先をたどることが、祈りを拓いていく。祈りをよりたしかなものにしていく。祈りなくしてかたちをなすことが世に多い。だが、滅びることなく世に伝えられていくかたちは祈りをもって形をなしたものだけ、ではなかっただろうか」と語る。

 

そのとおりだ、祈りなくして、存在するものは、単なる魔だ、闇だ。

道具をリスペクトせよ、(命をリスペクトせよ)。