2024年8月15日の読書。

日本の敗戦の日に読むのは、堀田善衛方丈記私記』。

1945年3月18日、東京大空襲直後の深川の様子を見に行った堀田善衛は、天皇の被災地視察に行き合い、後にも先にもないおどろきに襲われる。それを堀田善衛はこう書いている。

「あたりで焼け跡をほっくりかえしていた、まばらな人影がこそこそというふうに集って来て、それが集ってみると実は可成りな人数になり、それぞれがもっていた鳶口や円匙を前に置いて、しめった灰の中に土下座をした」「これらの人びとは本当に土下座をして、涙を流しながら、陛下、私たちの努力が足りませんでしたので、むざむざと焼いてしまいました。まことに申訳ない次第でございます、生命をささげまして、といったことを、口々に小声で呟いていたのだ」

堀田善衛は、この大空襲という未曽有の災厄を招いた最高責任者がピカピカの軍服に立派な勲章をぶらさげて、豪華な車に乗ってのこのこと被災地を視察にやってきたことに驚き、被災者が涙を流してその最高責任者に謝罪していることに驚く。そして湧きおこった、重い問い。

いったい何故にこのようなことが起こりうるのか?

この世の無常を説く「方丈記」をひもときつつ、堀田善衛が語るのは「無常観の政治化」。戦争の責任も戦災の痛みも「ああ、世は無常」という世界観の中に溶けてきえていく。
「私たちの存在自体の根源にまで(無常観に)食いこまれている」と堀田善衛は言う。

なるほど、そうかもしれない。などと、うっかり呟けば、「無常」の思うツボ。
ファンタージェンを侵食していく「無」と闘う少年の心を胸に、と思った8月15日。