『万物の黎明』(デヴィッド・グレーバー、デヴィッド・ウェングロウ 訳:酒井隆史)
人類史をくつがえす、分厚い本。2年近く手元に置いて、折にふれ、読みたいところを拾い読みしつつ、ようやく読了。
最初の頃に読んだことの詳細は忘れました……。
ただ、
◆西洋発の近代精神を根本から疑うべきこと。
ただ、
◆西洋発の近代精神を根本から疑うべきこと。
◆普遍を謳う西洋の思想・価値観で囲い込まれ、その外の世界への想像力をきれいに奪われている自身を知ること。
◆けっして西洋には起源のない「万物の黎明」に想いを馳せること。
せめて、このくらいは、身に沁みいってきたような気がする。
「人類史のなかで、なにかがひどくまちがっていたとしたら、――そして現在の世界の状況を考えるならば、そうでないとみなすのはむずかしいのだが――、おそらくそのまちがいは、人びとが異なる諸形態の社会のありようを想像したり実現したりする自由を失いはじめたときにはじまったのではないか」
◆二人のデヴィッド曰く――、
たとえば、コロンブス以前のアメリカ、そこに生きていた人々は「帝国」の言葉を使えば、「未開」でも「野蛮」でも「いわゆる「自然状態」でも「獣」でもない。既に、西洋からの侵入者を驚かせた洗練された「自由」の概念を持っていた。その概念は、西洋が称揚する「近代国家」という名の閉ざされた社会とは対極の開かれた社会を実現していた。
彼らの自由の基本形態は以下の3つ
① じぶんの環境から離れたり、移動したりする自由
① じぶんの環境から離れたり、移動したりする自由
② 他人の命令を無視したり、従わなかったりする自由
③ まったくあたらしい社会的現実を形成したり、異なる社会的現実のあいだを往来したりする自由
つまり、共同体の中で権威を持った人間がいやな奴なら、民はいつでもそいつを無視したり、どこかよそへと移ることができた。
そして、二人のデヴィッドは問う。
「わたしたちの大部分は、それらの自由に基盤をおく社会秩序のうちに暮らすことがどのようなものであるか、ほとんど理解できないところまできている。
なぜそうなったのか? わたしたちはどうして閉塞してしまったのか?」
★家父長制と暴力が結びついているのは、わかっている。
★「文明」が「未開」と呼んでいる、洗練された社会に生きていた人々に、「文明」がその良き社会システムを押し付けるには、凄まじい暴力が必要だったのもわかっている。
★「文明」には、文明が「未開」と呼ぶ社会の基盤にある「遊び」がないことも分かっている。
最終的な問題は、いまだにグローバルな「帝国」の想像力、「帝国」の話法の囚われの民である私たち自身。
私たちは「閉塞=帝国」を超えてゆく旅人になれるだろうか。
