まずは余談から。佐渡と八王子を結ぶ線。
鉱山都市としての佐渡・相川の都市づくり(1603〜)に着手した大久保長安は、もとは甲州出身の猿楽師。家康により八王子に所領を与えられ、八王子千人同心を創設した人物でもある。
八王子も、佐渡も、幕府直轄領。八王子は幕府誕生当時は、甲州と武蔵も境目、国境警備の要所でもあった。
以下、『佐渡歴史散歩』より。
「鉱山の創業期に、相川にあらわれた商人や町人は、大坂、尾張、越前、堺、京都などの順で、とくに関西が多い。」
「おもしろいのは、労働者や町人のなかには越中や越前、能登からきたひとびとが多いことである。ここは一向宗徒たちの天国といわれたところで、天正の一向一揆から、兵乱に追われ、あたは乱世に疲れはてて、新しい暮らしの場を、佐渡にもとめた者が多い。」
「『佐渡風土記』という書物は、山形県から渡ってきた者を「庄内の駄賃持ち」と呼び、越前地方から渡ってくるひとたちを「越前の菰かぶり」と呼んでいる。どちらも、田畑や財産のない、下層階級の単純労働者で、このひとたちは、いちはやく相川に渡っている。」
「相川には真宗(一向宗)の寺院が多い。江戸の初めに十八ケ寺を数えた。越前、越中、加賀から渡った僧侶のひらいたものが大半をしめ、北陸との強いつながりをみせている。」
「俗に「流れ者」といわれた単純労働者たちは、信仰の基盤を多くは一向宗に持っていた。相川町の場合、商人が日蓮宗、武士が浄土宗をおおむね信仰していたのにくらべると、きわだった対照をみせている。
注)天明の大飢饉後の荒廃した福島の相馬藩への、真宗移民が想起される。
それは文化八年(一八一一)よりはじまり、真宗移民は相馬藩より厚遇された。
しかし、信仰や習俗を巡って地域との摩擦は消えず、移民門徒は真宗寺院や講を中心に結束し信仰を護り続けた。以降も移民は続き、各地の真宗寺院や門徒の支援を受け相馬を目指し、約三十年間で移民数約九千人、開墾地は約三万石に達したという。