2018-01-01から1年間の記事一覧
抜き書きしながら、自分の声も書きとめながら、これだけ読んでは意味をとりがたいであろう言葉の群れ。 もう崩壊しそうになっていて、崩壊が進んでいる。体が叫んでいる。体は一人で勝手に叫んでいて、こちらを向いても知らん顔した。 日誌にはなにか記録さ…
野にあるものは野でしかない。それで充分である。ここには太陽があり土がある。水があり森がある。風が流れている。大きそうな幸福と小さそうな幸福とを比較して、それが同じ幸福であるからには小さな幸福を肯しとする、慎ましい意識がここにはある。宮沢賢…
これは宮沢賢治『春と修羅 第2集』 「産業組合青年会」からの言葉だ。 同じ言葉が、「作品三一二番」にも現われる。 - 作品三一二番 正しく強く生きるといふことは みんなが銀河全体を めいめいとして感ずることだ ……蜜蜂のふるひのなかに 滝の青い霧を降ら…
ここに書かれているのは、自我の外部へと出てゆくということ。 【問い】 いかにして「野の道」をゆくのか?「野の道を歩くということは、野の道を歩くという憧れや幻想が消えてしまって、その後にくる淋しさや苦さをともになおも歩きつづけることなのだと思…
親愛なる日本の読者のみなさん、私は小説や散文を書きますが、私が文を書く“母体”はタオ語で、文字は漢字です。漢人(漢民族)の読者は、最初、私の作品を読むと、みんな私が書く漢字は“可笑しい”と感じるようです。その後、友人が私の作品の漢字や文法を直…
ヤミ族の勇士の基準は、舟を造り、家を建て、トビウオを捕り、シイラを釣り、物語を上手に話し、詩を吟じる、これらのことがすべてできる、ということだ。
シャマン・ラポガンの描くタオ族の美しいシイラ漁の情景を読む。 それはシャマンがシイラを釣り上げたあとのこの描写。わたしはシイラの、閉じたり開いたりするえらをずっと見ていた。櫂を漕ぐ手は止めていた。はるか遠くからの歌声が鼓膜を打った。歌声はこ…
●「冷海深情」より「海は、歌い終わらない詩だ」と、シャマン・ラポガンの父は言う。 父と伯父は、詩で語りかけ、詩でこたえる。 ●「海の神霊を畏敬する」より。 「伯父が言うように、潜水漁の名手になるほど、漁獲は少なくなる。なぜなら、ほしい魚だけを選…
●亡くなった子のための祈り「子どもよ、気を付けておまえの道を歩いて行くのだよ」「願わくば我らの膝から生まれた長女をお受け取りください この娘のお蔭で我らは祖父母となりました 娘を導いて白い島へお連れください 願わくば我らをシロカモメのような善…
鳥獣虫魚草木石水風 アニミズムの神々を単に素朴な善良な神々なのだとは、石牟礼道子は思っていない。 『神々の村』P279 日々の暮らしとともにどこにでもいたあの在野の神々は、もとをただせば、人びとの災いを身に負うていた身替り仏であったり、災厄の神な…
1910〜1918 「土地調査事業」(これは台湾でも) 1920 「産米増殖計画」(もちろんこれも台湾でも)。 P69 一九一〇年の「併合」の「土地調査事業」以降、土地を追い出された小農民層は満州・シベリア・日本へと流れていたが、一九二〇年のコ…
P36 一九一九年の三一独立運動は都市部よりも農村部で盛んであったことはよく知られている。零細な小農民たちは役場を襲い土地の登記簿や強制的な作付け台帳を焼き払い、抵抗したのである。さらに関東大震災の犠牲になった朝鮮人たちとは、そのような小農…
と、村井さんは言うわけです。『後狩詞記』『石神問答』『遠野物語』三部作は、1909年〜1910年の著作。 この時期柳田は法制局参事官、内閣書記官記録課長として「日韓併合」に関与。植民地統治、その嚆矢としての「土地調査事業」に農政官僚として関わった柳…
朝はたとえば、なまことりの話から始まるのです。 ひとりの漁師が、まださめやらぬ夢の中からいうように語りはじめます。 「いや、よんべは、えらいしこ、なまこのとれた。ああいうことは、近年になかったばい」 チッソ社長室に近い応接室の床にごろ寝をつづ…
熊野川流域は古代から、鉄、銅、金、銀、水銀などの採掘がさかんだったから、キリクチ谷に最初に入ったのも鉱山師であったかも知れない。 だがこの谷ではじめて生業を営んで済んだ者はといえば、それは木地師ではなかろうか。木地師というのは、轆轤など特殊…
シカの目で、クマの目で、タヌキの目で、ノウサギの目で、山を歩けば、そこはあまりに生き難い荒廃した世界なのだという。山の人、宇江敏勝が書いているのは、十津川山峡での山の暮らしの今昔。 本書が書かれたのは、急激な産業の近代化によって、山における…
ゆき女の声は、石牟礼道子の声でもある、じょろり(浄瑠璃)を語って旅する六道御前の声でもある、数限りない死者たちの声でもある、石牟礼道子が言う「じょろり(浄瑠璃)」とは、「説経」をさすものと思ってもらっていい。文学が死者たちの声の賜物である…
2018年11月2日。奈良に移り住むための根拠地の立ち上げ。 あらたなはじまりへの第一歩。
場所は記憶をもっている。そして、場所は記憶することの痛みをもっている。場所は記憶をためる。そして、それは沈黙のモノガタリを語りつづける。いや、その語りは沈黙であるどころか、じつにはっきりとした声(サウンド)を放っている。それを聞く耳、その…
鎌田東二によって、石に神を感じ取って山中を渉猟する山岳修行者、修験者と同じ感覚を持つ者として賢治は語られる。 その文脈のなかで引用される「石っこ賢さ」の言葉の数々。 わたくしたちは、氷砂糖を欲しいくらゐもたないでも、きれいにすきとほつた風を…
オルレが流行って、市場も毎日オルレ市場と改名した西帰浦の町、そこで私は団体から一人離れて、交差点の角のスタバで山尾三省の『火を焚きなさい』を読んでいる。近代化に抗する道/オルレと言い切るのは、やや無邪気だろう、それでもなお自身のオルレを思…
歩いて生きること、風景はその外側から観るものではなく、その中で生きるものなのだということを、思い出させる済州の道、 徐明淑氏自身がその道にたどりつくまでの人生の長い時間を聴いた。 とりわけ成り行きで我知らず民主化運動の真ん中で活動し、拘束さ…
臥屹里→松堂里→金寧里→北村里→新興里→善屹里とまわっていく。 「松堂」 ここは済州島の「堂」の神々の親とされる。 「北村里の海辺の堂」 有名な臥屹里と松堂里のほかは、堂の場所がよくわからない。 タクシーの運転手さんが地元の老人たちに聞いては探す。 …
石文化公園に来たのは、四回目だと思う。 それは、この公園を創り出したひとりの男の狂気に引き寄せられてのこと。 男は、島の創世神ソルムンデハルマンと、その五百人の息子である五百将軍の神話を、自分自身の生の神話として、生きている。 男自身の母が「…
『現代説経集』(姜信子 ぷねうま舎)より。 ただし、京都では、京都の声で、本文どおりには語っておりませぬ。 - 実を言えば、わたくし、ここのところ、恥ずかしながら「水のアナーキスト」を名乗っております。どうか陳腐な名乗りだと笑わないでください、…
宗像から鹿児島の写真記録は ↓ にある。 宗像多禮の修験の跡をたどり、鹿児島ではハンセン病療養所の「死」をめぐる風景。 http://omma.hatenablog.com/entry/20181021/1540090780 敬愛園では、忘れがたい出来事。具体的な場所は言わない。その場所に入った…
それは「死者たちの声」とも言えるし、生きながら「死」を生きる者たちの声とも言えるし、いずれにせよ、私はますます死者たちとともにいるのだとつくづく感じたのが今回の旅。宗像には、「死」を特別なこととして受け止めない、草木がだんだんと枯れていく…
縁あって、宗像市多禮の公民館で、『あやとりの記』の世界、そして『西南役伝説』より「六道御前」を、祭文語り八太夫を語り手に、私は狂言回しの役割で、上演することとなったのです。ここ多禮には、人の死を、生からの地続きの自然の成り行きなのだと受け…
●ある沖縄人の声「戦場化を押しつけた者がいなければ、わたしは沖縄戦にこだわらなかったはずだ。しかし、沖縄人を殺した日本人がいた。沖縄人を殺した沖縄人がいた。朝鮮人を殺した沖縄人がいた。そして、沖縄人はわたしだ。わたしが日本人に殺され、沖縄人…