2018-05-01から1ヶ月間の記事一覧
●「君は「空っぽ」だな。」2010年.大阪・すかんぽにて。 東京で初めてお目にかかって、それからまたすぐに大阪で2回目の出会いのときのことでした。これは大変ショックな言葉だったのですが、なるほど、確かにそうだ、私は空っぽである、とそのとき私は珍し…
<以下、「政治と文学」からの抜き書き> 在日朝鮮人の私に即せば、私をくるむ日常そのものがすでに“政治”であり、十重二十重に私をくるみこんでいる“日常そのものだけが、私の確かな詩の糧となる私の“文学”なわけだ。したがって“政治”は、日常不断に私とと…
山形の祭文語りにまつわる記憶。 明治末年 越後頚城郡春日野村正善寺 北条時宗氏による。 「私は幼い頃、丈余の雪に閉ざされた旧正月に度々この村の長格の家に連れられて二、三日を過ごした。その村で雪の正月を楽しむ祭文語りを聞いた。大きな家で十畳二間…
近世寛永頃に上方において山伏祭文から派生した「歌祭文」、 江戸の山伏祭文とかかわりの深い「説経祭文」、 その成立を貝祭文から推測するというアプローチ。 <古代の祭文から貝祭文への流れ>1・そもそも祭文のはじまりは古代、「仏教・神道・陰陽道・儒…
幕末に薩摩若太夫系統の説経祭文が多摩や埼玉に広がるにあたって、神楽師(=陰陽師)ネットワークが大きな役割を果した。それはまずは、 1.薩摩若太夫門下になるということ ・5代目若太夫(板橋・諏訪仙之助)、6代目若太夫(多摩郡二宮・古谷平五郎)…
三田村鳶魚曰く、歌念仏の徒が説経本を使用したのが「歌説経」である。 語り物としての「説経」が、唄い物としての「説経」へと変じる。 「縁起因縁の法話が、和讃の節奏を借り、編木(びんささら)に和して、最初の説経が成立し、無文であったものが、祭文…
<年中尻切半天を着ていた三代目浜太夫>「名人と言われた三代目浜太夫の時には、説経は大道芸になった」浜太夫の前身は雲助(籠担ぎ)。 ★三田村鳶魚は、浜太夫の底辺に生きる庶民性に説経の本領を見いだしている。 「説経が忘れられたようで絶えないのは、…
初代薩摩若太夫 三味線で語る説経が評判となる。しかし、これはもともとの語りの形に戻っただけ。それもわからぬほど、説経はその当時衰退していた。★薩摩若太夫による「説経祭文」は、途絶えた伝統の再生であった。◆堺町 薩摩座で操興行へ。◆嵯峨御所(大覚…
そもそも、説経のはじまりは、 「もとは門説経とて、伊勢乞食ささらすりて、いひさまよいしを、大坂与七郎初て操にしたりしより、世に広まり玩びぬ」(『好色由来揃』より)★承応(1652〜55)・明暦(1655〜58) 大道から説経による人形芝居の成立へ。 「元…
説経:仏教の法談・唱導から生じ、寺院の周辺で成立したというのが通説である。仏教の比喩や因縁話を物語化し芸能化したのが出発点であったろうが、その転化・物語化の過程は全く明らかでない。 江戸以前:漂泊の芸能。寺社の境内や門前で語られるものだった…