岡野八代『ケアの倫理  ――フェミニズムの政治思想』 読後メモ

 たとえば、民主主義の発祥は古代ギリシャだと言われる。
 しかし、それは、身の回りのお世話を誰かにしてもらっている男たち(=市民)が担うもので、彼らのお世話をしている奴隷や女たちは市民ではない。
 奴隷や女たちの無償の労働の上に立って、自由だの、平等だの、正義だのを論じてきたのが、普遍を自称する西洋哲学であり、政治思想であり、世界観であり、人間観であるということ。
 植民地や奴隷労働あっての発展である西洋近代、そして資本主義のことにも当然思いは及ぶ。
 こういうことを考えるときに、いつも想い起こすのは川田順造が記していた、あるアフリカの村での出来事。
 近代西洋からやってきた者が、村長に村びとの数を尋ねる。村長は答えられない。その代わり、村びと全員の名前なら言える。
彼らのことを、論理的思考ができないとか、未開だとか、西洋の尺度で計って、簡単にそう片付ける人も多いだろうけど、これはそんなに簡単なことではないし、実のところ、普遍を称する論理や思想が切り捨ててきた重要なことが、ここにはある。
アフリカのある村の村長は、ひとりひとり異なる人間を、数という抽象で表現することをおのずと拒んだ。いのちを数量化するという発想を持たなかった。それを野蛮だとか未開だと笑うのが、自称西洋文明であり、そこで語られる正義とは命を数量化し、個性を捨象して扱うことに疑問を持たない正義であるということ。
 タイトルに「フェミニズムの政治思想」とあるけれど、要は、資本主義とその果実を謳歌する者たちが構築してきた、非対称の関係なんぞまるでこの世に存在しないかのような「正義」と「公正」の概念を、
それによって影の部分に追いやられ、踏みつけられ、搾取され、かえりみられることのない「いのち」の領域から、再構築していくこと。
 一言でいえば、
「おまえたち、いったい誰の世話になってこれまで生きてきたんだい? それをすっかり忘れて、正義だの、公正だのと偉そうに、全くどの口が言ってるのかしらね」
ということでしょうし、
「どの命もケアを受けることなく生まれて成長してゆくことはかなわず、ケアなくして、明日に向かって生きる力を再生産することもできないのだから、そこを人間社会を考える際の出発点にしましょうよ。
ケアによって結ばれて、広がってゆく命と命の、その一つ一つが唯一無二の具体的な関係性をしっかり見つめることから、新たな正義、新たな公正、新たな倫理、新たな社会のあり方を考えましょうよ」
ということなのでしょう。
(ちっとも一言ではないですね……)
 岡野八代はこう語りかける。
「共に生きるためのニーズに対する気づきから始まる、こうした一連のケア実践が<わたしたち>を構成し、その先に政治的共同体が存在していると考えれば、逆に次のような問いも成り立つはずだ。現在の日本社会のどこに、そのような<わたしたち>が存在しているのだろうか」
 さらに、日本社会で生きる私たちに与えられている「時間」について、こう語る。
日本社会は「男女ともに有償・無償をあわせた総労働時間が長く、時間的にはすでに限界まで労働している」
「家族と職場の往復だけで、もはや時間的には「限界」なのだ」
つまり、日本社会には、ケアに充てる時間も、その事をじっくりと考える時間すらも、決定的に欠けている。そのように社会は設計されている。
 そして、ケアをお金で解決したり、誰かに丸投げできる特権的な連中だけが、いわゆる政治を動かすという<構造的不正義>がある。
 これを、分かりやすく「家父長制」大好き特権オヤジたちによる根腐れ政治と呼びましょうかね。
(注:家父長制オヤジには性別はありません。杉田水脈のような輩もオヤジです)
 だから、
「時間に追われた<わたしたち>は、こうしたケアのあまりに偏った配分を不正義として捉え直し、今こそ声を、つまりケアを求める声を上げるべきであろう」
と岡野八代は言う。
 そして、こう問う。
「なぜここまで執拗に家父長制といった構造的不正義が持続しているのか、その倫理的抵抗の源泉はどこにあるのか」
 その問いへの一つの応答として、岡野八代は、キャロル・ギリガンのこの言葉を引いて、『ケアの倫理』を締めくくる。
「こうした疑問に対する探究を通じてわたしたちは、声と関係性に基礎を持つケアの倫理を、不正義と自分の沈黙の双方に対する抵抗の倫理としてみるようになった。ケアの倫理は、人間の倫理の一つであり、民主主義の実践とそして、グローバルな社会が機能するためには欠かせない倫理なのだ。もっと論争的なことをいうならば、それは、フェミニストの一つの倫理であり、家父長制から民主主義を解き放つための歴史的な闘争を率先する一つの倫理である」
 
さて、闘いますか。