2020-03-01から1ヶ月間の記事一覧
認識を変える記述のランダムな抜き書き ◆宗教改革 十五世紀には、教会は地域によっては五分の四もの土地を所有しており、貴族をしのぐヨーロッパ最大の地主となっていた。教会の土地を取り上げることをもくろんでいた君主とその支持者は、小作人の間に拡がっ…
高知県旧物部村。いざなぎ流太夫のひとり計佐清太夫の言葉。 山の神を祭るときにとくに注意すべきは、これら眷属たちをきちんと祭ることにある。眷属たちにたいして「言葉をかけてやる」ことが必要なのだ。それを忘れると、山の神の祭りそのものがうまくいか…
高知県旧物部村。いざなぎ流太夫のひとり計佐清太夫の言葉。 山の神を祭るときにとくに注意すべきは、これら眷属たちをきちんと祭ることにある。眷属たちにたいして「言葉をかけてやる」ことが必要なのだ。それを忘れると、山の神の祭りそのものがうまくいか…
序章 いざなぎ流の「祭文」は、職業的な芸人=祭文語りに担われた歌祭文や山伏祭文、説経祭文、デロレン祭文などの近世的な祭文とはまったく異なる世界であったのだ。いざなぎ流の祭文は、太夫が執行する祈祷や神楽のなかで読誦される、まさしく宗教的詞章/…
車谷長吉の小説『赤目四十八滝心中未遂』を読んでから、いつかこの滝に来てみたいと思っていた。 もう小説の内容も忘れ果てたいまになって、室生寺の十一面観音を観に来て振られて(宝物館落成記念式典まで十一面観音は奥に仕舞い込まれていて拝観できなかっ…
安藤礼二『列島祝祭論』読了。 実に面白かった。 著者あとがきから。 いびつな近代を真に乗り越えていくためには一体何をなせば良いのか。 (中略) 現在を知り、現在を根本から変革していくためには政治の革命、現実の革命のみならず、宗教の革命、解釈の革…
omma.hatenablog.com web1.kcn.jp
ぼくが水を聴いているとき ぼくは 水であった ぼくが樹を聴いているとき ぼくは 樹であった ぼくがその人と話しているとき ぼくは その人であった それで 最上のものは いつでも 沈黙 であった ぼくが水を聴いているとき ぼくは 水であった (山尾三省「水」…
修二会の「悔過」の本尊は、小観音。これは「生身の観音」とされている。海の彼方からやってきた。 ※小観音は、「観音が住まう南海の果て、補陀落の山から「生身の観音」の訪れを希った」僧実忠の想いに応えるようにして、「初瀬川が何度も名前を変えて注ぎ…