『キム・ヘスンの言葉』 「文学と政治」P217~  超粗々訳

ファン・インチャン

私は文学を志してからほんの十数年しか経っていません。先生の詩歴に比べれば本当に何ということもない時間を過ごしただにすぎないのですが、あの頃と今を比較してみると文学に対する私の考えも、文学として為そうとすることも大きく変わったという気がします。お伺いします。先生が文学の道に足を踏み入れた頃、先生にとって文学は何であったのか、また今は何であるのでしょうか。

 

キム・ヘスン

ひとりの人間の文学の姿は、その人が書きつづけた期間とは何の関係もありません。李箱を見てもそうですし、ランボーを見てもそうです。とはいえ、私は彼らより長い期間文学に対面しているのですから、何か変わったことがあるといえば、あることでしょう。とにかく文学を始める頃は、文学は私にとってとても面白かったのです。言葉とは本来的に穴が開いたものだという……。

 

だから詩は、何か言い表されていないことを言い表すようになるという自意識もなく、空っぽの中心が詩の言葉を掴んでいるという虚無の意識もありませんでしたが、文学をする時にはある状態の中に入るような感覚がありました。独裁政権の中での無風地帯のような空間に入る感覚です。そこには私が夢を抱くときに灯される光のように、私だけの光があったようにも思います。あらゆる記憶の喚起は嘘が付け加えられるものですから、私のこの答えも嘘かもしれません。しかし、私はそのとき、私の夢の中を照らす光の下で、夢の中の人のように何か「して」いました。今は私の体が砕けて燃やされた残骸で作られた砂漠、現在という何も無い状態、休みなく中立地帯に逃げる今を捕まえて彷徨っているような感じです。現在はいつもあると思えばなくて、なのに実存する神の顔です。そこがすなわち砂漠なんです。

 

まだ『地球が死んだら月は誰を回る?』の三部の状況から抜け出せずにいます。こういう砂漠での彷徨が「詩」だと思いもするし、ここから抜け出さなければならないと思いもします。最近は不眠症や心拍数異常、神経症が長く続いているため、不眠について多くのことを考えていますが、眠るのでもなく、はっきり目覚めているのでもない彷徨の中で、横になったまま、なんというかおぼろな昼間を漂うような感じにとらわれている時間が多いのです。この彷徨には指標もなく、方向もなく、中心もなく、イデオロギーもありません。この不眠の中で、私は実体が不在のイメージのように起居しています。多くの時間を横になって過ごしているのですが、私が彷徨しているこの砂漠の中をなんらかの声で打ち震わせたい衝動はあります。もちろん、この砂漠を根本的な時間の形態だと言うことはできません。この砂漠は、カレンダーの日付を平らに広げたような、私の一生の時間を平らに水平化したような場所ならぬ場所、非場所てきなものです。

 

私が新型コロナのオミクロン株に感染して苦しんでいたとき、息を吸ったり吐いたりしていると、喉なのか鼻なのか分からないところでアイリッシュの笛の音がしました。息を止めることはできず、音はずっと出ていて、どうしたらよいのかわかりませんでした。その笛の音のために私は物を言えず、意味のない音だけをずっと出していたのですが、そのとき私は私の中に正体不明の他者が住んでいることを、本当に体で知ることになりました。そのように私は私の砂漠の中で、まだ私が併合できていない自我の残余が生きていて、それがどんな音を出しているのかを知っています。それの声は私のものではないでしょう。だれか私ではない存在者の音声のようなものでしょう。私は実のところ、砂漠が存在するということだけを知っているだけ、砂漠の本当の姿はわかりません。にもかかわらず、私の不在性というか、空白というか、それを私の詩に曝け出さねばと考えることもあります。その砂漠の道ならぬ道 に或る声が住んでいるということを忘れずにいます。それは、追われたものたち、棄てられたものたち、名づけられる前のものたち、生まれて死んだが誰も覚えていない者たちが発する声です。その聞こえない声を聞きたいのが、私が最近向き合っている文学の姿です。ところで、こう言ってみると、このような考えが今の考えではなく、いつもそう考えてきたと感じられます。この彷徨の中で、私が生まれたときに失われたオンマの子宮をいつも探し歩いていたとも思われます。

 

ファン・インチャン

先生の言葉から、文学に対する実感のようなものを垣間見ることができるようです。思うに、先生にとって文学とは体の感覚に従う自然なことではなかったのでしょうか。体の感覚に従いつつ、同時に言語の虚しさを共に運用することですから、先生がおっしゃったように、それは砂漠を彷徨うようなことになるのではないのでしょうか。実体で非実体を構成し、非実感を取り込んで実感に転換することが、私が理解する先生の文学でもありますから。その過程の中で、先生が「生まれたときに失われたオンマ」と表現された、私の中の他者を発見することかもしれません。

 

キム・へスン

私たちは誰もがオンマを墓の殻のようにあとに残して生まれます。黒い鉛のように暗い胎から天然色の胎へと生まれます。夜から昼に生まれます。私たちが小さな点として孕まれ、成長している間、私たちは全的に母親の体で生きていました。私たちはそのときオンマでした。しかし、生まれた瞬間、私たちはオンマの墓になってしまうんです。オンマは私たちにオンマを残して去ってしまいました。この事件によって、私たちは全的に互いの墓になります。私たちはオンマの墓になり、オンマは私たちの墓になりました。墓同士の連なり合う孕みというわけです。しかし、オンマは去ったにもかかわらず、相も変わらず私たちの中に生きています。

 

私の根源であったオンマが消えてくれることで、私たちは猛烈な命の跳躍が可能になります。しかし、私たちは母親の体という穴、母親の体という出立、母親の体という死と共に成長します。私たちはオンマの死で「私」になりましたが、その死ゆえに死に向かって走ってゆくことになります。だから死と対面することなくしては生きているという実感を知りえない、いつも死を前にした「書く」が可能になるのでしょう。私たちが生まれるときに経験したお母さんを「失う」という事件のために、生きていくなかで「失う」が発生するたびに、私たちの「書く」が創りだされるのでしょう。「失う」は点滅し、その穴の太陽の下で私たちは詩を得るのでしょう。哀悼から一歩も進むことのできぬまま。私が死を書くことが、「生の真実」ということに触れようとしているように見えるのは、その「失う」が先行していたからこそ可能だったのではないでしょうか。  

 

 

ある映画を観て。

認知症の時間感覚は「線」なのではなく、「点」なのだという。
確かにそうだ。それを私は認知症の母をとおして体験している。
戸惑いながら、時には苛立ちながら、また時には諦めながら。
 
それに対して一般的には時間感覚は「線」になっているらしいが、
いま現在、この世界の一都市に生きている自分自身の感覚としては、認知症ならずとも「点」の時間しか「いま、ここ」にはないように感じられる。
 
映画の中では、この世界の「構造」に即して(あるいは、囚われて)創られた「組織」の中で、「構造」を超えた「組織」に変革したいともがく女がひとり。
余命宣告を受けている女がひとり。
 
女たちのひそやかな対話。
 
資本主義は構造的に「now/here」でしかないものなのだという。
そして、「now/herr」の外部(周縁)をどんどん創り出すことによって「now/here」を豊かにする永遠の運動なのだという。
 
外部:旧植民帝国以外の世界、第三世界、世界の南グローバルサウス、マイノリティ、役立たずと目される人々、自然、つまり、世界を非対称な関係で構成した非力なほうのすべて
 
内と外の断絶・分断しつづけること、果てしなく踏みにじり搾り取ることのできる外部(=周縁)を作りつづけること、過去現在未来の時間の流れと物事の文脈の切断しつづけること、どうやらそれこそが資本主義の核心らしい。つまり「now/here」とは「no/where」ですね。
この「now/here=no/where」がいつまで続くか知らないけれど。
(外部が枯渇すれば、永遠もおしまいだけどね)
 
 
この「now/here」、あるいは本当はどこにも命の居場所などない「nowhere」の構造をどう変える?
この構造の中に囚われながら、この構造を変えることは不可能?
 
不可能なことは不可能です。(now/ hereの精神ではね)
でも、不可能を可能にすることはできるでしょう。
不可能が可能になったときに、初めて人はそれに気づくでしょう。という声を聴いた。
 
希望。
 
「now/here」の限界を知る者ならば、人間の限界を知るものならば、命の限界を知るものならば、そして限界を知る者同士がつながり合うことで、開かれ合って、そこに希望を見いだす者たちがいるならば、そういう者たちがどんどん増殖するならば、その希望を力にかえて、内側から構造を揺るがして、分断されていた外部ともつながり合って、そうして世界が変容してゆくことを、私たちはついには感じとるのでしょう。

希望。
 
「点」の時間を生きる認知症の人々もまた、ある意味「now/here」の人々であるけれど、この人々の「点」の時間を豊かにすることは資本主義とは全く折り合わない。
 
けれど、だからこそ、人が人であることを、
命が命であることをとことん味わう豊かな「点/瞬間」をつくりだすこと、
それをどんどんつなげていくことには大きな意味があるはず。
 
もうひとつのとっても小さな「now/here」からはじまる、
巨大な「now/here=no/where」を超えるひそやかな胎動。
 
分断されている自分をとことん知る者たちが、
永遠の資本の増殖のからくりを知る者たちが、
真の意味での命の限界とを命の永遠を知る者たちがつながりあえばできるはず。
 
点と点が見つめ合い、語り合い、触れ合い、開き合い、通い合い、
ついには生も死も超えてつながり合う、

希望。
 
つい最近観た映画に突き動かされて、ずっとそういうことを考えている。
変革は「点」からはじまる。
「点」と「点」の出会いからはじまる。
 
希望。

『キム・へスンの言葉』P127~133 粗々訳

まだ、粗粗粗粗。

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「하기/する」 隠喩を越えて

 

 「詩を書くというのは、想像的空間、文学的空間で起こる<動き>です」

 

 ファン・インチャン

 比喩と象徴は、詩において長きにわたり使われてきた表現体系なのですが、それを古びた男性詩人たちのものだとおっしゃる所以をもう少しお尋ねしたいと思います。 アイデンティティ(詩的主体)が毀損されないこと(あるいは、そのように信じること)と関連が深いものだと理解すればよいでしょうか。

 

 キム・ヘスン

 1979年に『文学と知性』に登壇した詩人はパク・ナムチョル、チェ・スンジャ、そして私です。 酷く厳しい時代でしたが、この季刊誌は直接的に抵抗を語る詩の代わりに、この三人を詩人として選びました。 直接抵抗の声をあげるのでもなく、比喩で詩を書く伝統的な詩人たちとも異なる、否定性をそのまま露出する詩でした。今思うに、この三名の詩は、美学の政治性が新たにじっくりと見直されるべき詩であったと思います。これら三名の詩人は1979年に登壇し、1980年代から詩を発表しはじめました。もちろん、当時は文芸誌の数があまりに少なくて、他の陣営の詩を自陣営の文芸誌に載せることは好まれなかったので発表機会が少なかったのですが……。私は、その頃、私には女性詩人の先輩はいない、と思っていました。特に、その時代の評論家たちが、内容なのかテーマなのかということばかりを問題にして、スローガン、箴言のような詩ばかりを、なぜいわゆる抵抗詩と見るのか、それが疑問でした。ある有名な運動圏評論家が、私の詩集を読んで質問してきたことがあります。彼は早く世を去りましたが、今も尊敬されている評論家です。彼は私に「これを詩と呼んで書いて、ただ座しているのか」と言い、「もしかしたら『文学と知性』のどなたかひとりと恋愛関係ではないのか? でなければ、この詩集は刊行された理由がわからない」そう尋ねたのです。彼はいつも運動圏の文学の回顧談の中で偉大なる存在として登場しますが、女性の文人たちにだけは無知蒙昧な差別的な言辞を吐き出していたものです。酷く厳しい時代の運動圏の内部でも、女性は文学をするには全く値しないとか、煩わしい雑用でもさせておけばよいというような下層の存在であると認識されていました。そんなことが最近もあったんですよ。私が『花開け、豚』で5・18文学賞 本賞受賞者として指名された時、もちろん辞退したのせすが、そのとき地方新聞の記事に、私が審査委員の一人であるファン・ヒョンサン先生と「私的な関係を結んで」いたから受賞者として選ばれたと書かれていたんです。先生と『ポエジ』誌を一緒に作り、審査を何度も一緒にしたこと、そしてムン・ヘウォン評論家などとキム・ソウォル、ハン・ヨンウンからキム・スヨンまで韓国現代詩を読んで討論する会を続けたことが、私的な関係を作ったということなのでしょうか? 確かにどうしようもない記事でしたね。ファン・ヒョンサン先生もどこで聞いたのか、のちに会ったときに大笑いしていました。とにかく私はそのとき、私の詩が新しい話法として読まれることを望んでいましたが、そのようなことはその先しばらくはありませんでした。

 

女性たちの詩は、一見、ひとり支離滅裂に語っているようにも、ひとり呟きながら彷徨っているかのようにも見えますが、これは換喩的な氾濫であり、自分の欲望を隠さないものでもあり、そして比喩的には小さく凝縮して表現しているものなのです。

 

私がデビューした当時、男性詩人たちが好む比喩は真理とし定まっていること、一定の概念に固定されていること、当然視されること、自明なことばかりでした。隠喩は、いくらその詩が抵抗を目的にしていようとも、俯瞰する単独者の視線を必要とします。まるで聖書に登場する神の比喩のように、ということです。隠喩を楽しむ男性たちの背後には、抽象的なもの、概念的なもの、性的なもの、象徴の領域が隠れています。彼らには、ファン詩人の言うとおり、彼ら自身の不動のアイデンティティがあるのでしょう。彼らには、自分を他者よりも高いところに置く視線の優位性があり、多数より単独者を、非同一のものよりも同一のものを強調する位階があります。そのような隠喩体系が目を向けはしない下位概念、不在のものを女性詩人たちが拾って、それらの隣接性を異なる感覚であらわにするのです。近頃も初めて詩集を出した女性詩人からそのようなものが読みとれます。そのようなものは、小さなこと、辺境から集めてきたこと、形態的なものより質料的なもの、感情的なもの、新しく生まれるもの、オンマをはじめとするもの、経験的な物事でしょう。私は、これを再現の意志を持つ男性詩人の隠喩とは異なる、女性詩人の換喩、あるいは詩人としての「行い」と考えてきました。女性詩の換喩を読み取ることは、女性詩が女性の主体をどのように生成してきたかを明らかにすることになるとも考えてきました。

 

私は男性的再現体系に対応する「詩を書くことのありよう」を「詩・する」とも言いました。私は「詩・する」に続いて「鳥・する」「獣・する」「死・する」まで「する」を付けてみましたが、それは私によって叙述された話者に、目的語なしで彼/それ自体の言語と行動をさせるためでした。詩テキストの中で彼/それの声が発音されるようにするためだったとも言うことができます。私は、これが父の法に違反するオンマとの生成のような「하기/する」だと考えました。私は、詩の中で他者との溶解、自/他の区分が消えた固定主体の曖昧化のようなことが、この「詩・する」を通じて可能ではないかと思ったのでしょう。

 

イメージの連鎖と無限の時間、空間的な隣接性の喚起、それによる現実の変形と屈折、それらを転がしてゆくリズムが「私」の欠乏そのものを召喚しうると考えました。二元対立項の中で一つの概念を採用する隠喩の同一者意識を捨てるために、です。隠喩は、根源に対する形而上学的欲望を基盤としているので、そのようなものを備えた「彼」の視線を受ける場に立った事物/女性は鳥肌が立つことでしょう。時に、詩を読んでそのような詩人の隠喩に出くわすと、私は「詩人」という名前を持つ者の、対象から命を奪って「意味」を与えた生産者の顔に直面したような恐ろしい気分にもなります。

 

「詩・する」はあなたと私の間、主観と客観の間、これとそれの間の空間で起こります。詩を書くことは、想像的空間、文学的空間で起こる「動き」です。この動きの中で、ある「空間」は新しい姿で開放され、新たな作用の場となるでしょう。だから足の置き場のない女性の話者が開放した「間の空間」での動きは、隠喩や象徴にはならないということです。なんらかの意味化作用を経ることなく、それを拒否するということです。このような詩作は、私をはじめとする女性詩人たちが同一性を避け、男性的中心を避ける方法であると言うことができます。私たちがいるところはここではなく、そこなので、むしろ隠喩や象徴より文学の空間をより遥か彼方へと開放することもできるでしょう。

『キム・へスンの言葉』 母の死、残された月 P91 ~104 粗々訳

母の死、残された月

 

「死とは、私たちが人生の中で限りなく経験していかなければならぬことであり、限りなく打ち勝たねばならぬことであり、生きわずらうことなのです」

 

 

ファン・インチャン

話をもう少し広げていきましょう。あるいは、より狭めるとも言えるかもしれません。先生の詩集『地球が死んだら月は誰を回るの?』は、母の死がその中心に置かれています。振り返れば、先生の詩においては最も初期の作品である「兜率歌」から既に「死せる母」が登場しますが、今回の詩集はそれとは違う脈絡にあるとも言えそうです。

 

キム・ヘスン

 2019年にオンマが逝きました。それ以来、いまでも私は眠りから目覚めると、オンマが過ごしていたホスピス病棟の階段を忙しくあがってゆく私自身を見ているのです。 『地球が死んだら月は誰を回るの?』の1部と3部は2019年、オンマが亡くなった年に書いていた詩です。私はオンマが病床にあったとき、オンマが亡くなる頃、そしてオンマの家を整理していた時期に至るまで、それらの詩を書いていました。そして、ほとんど読み返さずにいたそれらの詩を2022年にひっぱりだして、詩集として編んだのです。 1部には死の周囲をぐるぐるとまわっていたオンマと私のさまざまな出来事が書かれており、2部は災難の時代と封鎖の時代を、3部には死という事件を経てからの約束の地、カナンではなく今この瞬間という砂漠にたどりついたオンマと私の姿が書かれています。 1部では悲嘆の中に深く入ってみようとしました。3部では、時間でもなく場所でもない、何もまとわず剥き出しの姿で、砂漠をさまよう、人間が消えた場所、私が寝起きしていたかと思うともうすでに私がいない場所、つねに私の外部でありながら、私の今である場所、私に名を与えアイデンティティを与えてこそ脱け出すことのできる砂漠を描こうとしました。私の外部、私が一歩踏み出せばたどりつく、永遠にとどまることができない、生から離れることによってむしろ行きつく、死のような、なのに今現在の生という核でいっぱいの、私の人生の始まりからすでに存在していた、裸の、しかし砂のカウンセリングルームのように模型がいっぱいの、「私」が「私」を 眺めるように、消えた万物と消えた万物が互いにひそやかに見つめ合う砂漠に行き、私の娘である、私の後世、カウンセラーFからカウンセリングを受けようとしました。

 

私は『翼の幻想痛』を経て、私の両親が相次いで病床に就いて亡くなっていった日々の悲しみを書きました。オンマの葬儀場で、ある小説家が私に言いました。「先生のお母さんが亡くなって、今度は先生はお母さんの死を書くのでしょうね」。その後、私の詩の朗読会で、ある読者が私に言いました。「年老いた女性が悲しむ様子は醜いです」。私は朗読会で、年老いた女性を差別し白眼視する読者の言葉に反駁しましたが、オンマの死の周囲をぐるぐると回って心ゆくまで醜くなりました。私はこれらの詩を書きつつ、砂漠の雲のように耳が薄くなりました。砂漠の空のように私の鼓膜は大きくなりました。死者の飢えた耳のように、です。これらの詩を書くとき、悲しみは私に沈黙を求めもしましたが、証言を求めもしました。悲しみは、祈りよりも価値ある詩人の仕事だという思いに駆られもしました。ただ悲しみだけが苦痛の中にある存在との連帯であり、その苦痛に関わることなのだと思いもました。この時期の私にとって詩人とは、死へと踏み入って死を嘆く者でした。

 

また、詩を書くことで、書く行為それ自体が、私をこの悲しみの外へと向かわせました。このような私の考えを、詩の悲嘆によって開かれる一種の詩的展望と呼べるなら、とも思いました。とはいえ、悲しみの外に出てみれば、なんにもない不毛の砂漠、私の中で私が私を見る場所がありました。砂漠は、私たちが書き捨てた時間が向かうところ、死者たちが行く場所、しかし永遠に現在の場所、すべての事物が剥き出しの場所、権力と真理とすべての聖なる言葉が不在の場所です。しかし、永遠に意見を言わぬ台風の中のあの木々のように、あるいは与えられたアイデンティティと名前をすべて剥ぎ取った私の体のように中立、中間の場所です。 文学とは、この空っぽの砂漠、その猛烈でありながら無関心でもあるな中立性がおのれに近づいてきた瞬間の体験を形象化したものだと私は思っています。 にもかかわらず、これを書きつづけることは、むしろ死の能力を失わせることだと思うのです。

 

死とは、私たちが生の中で限りなく経験していかなければならぬことであり、かぎりなく打ち勝たねばならぬことであり、生きわずらうことなのです。 私の生と完璧に重なっている砂としての生にぴたりとくっついたままで。 この生を生きわずらうことをとおして、詩は人間存在を他の場所に、より良い場所に導きます。これらの詩は、肉親の病いと死というレンズをとおして、世界中に溢れかえる死を眺めやり、その一つ一つの死にどれほど大きな悲しみが潜んでいるのか、この悲しみを背負った地球が果たしてどこに向かっているのか、砂のような私たちの命と時間と日々が忘却の砂漠で何をしているのかを見つめる詩なのだと言ってみようと思います。あるいは、生と時間の復讐を受け入れて、根源へと向かう者の悲鳴とでも言いましょうか。 死ぬ日まで彷徨うよう運命を背負わされた、根源を侵犯した者の訴えとでも言いましょうか。こうして『死の自叙伝』を経て『翼の幻想痛』『地球が死んだら月は誰を回るの?』に至る死の三部作が生まれました。

 

ファン詩人が言われた「兜率歌」は、私を育てた母方の祖母の死後を書いたのです。 私の夢の中におばあちゃんが現れて、しきりに自分の持ち物を大切に取っておいてほしいと言ったんです。 この詩でも母はおばあちゃんのことです。オンマが亡くなってからは、おばあちゃんをおばあちゃんと呼ぶようになったのは、オンマが亡くなってからのことです。 私が小学生の頃、私の母親はおばあちゃんだったのです。なるほど、私は詩人として登壇したときから「死」の周囲をぐるぐる回りながら詩を書いていたのですね。

 

 

ファン・インチャン

限りなく無意味な領域である死を明らかにすることであり、同時に詩と対峙することが文学であるという意味で先生の言葉を理解しました。 死よりも個人的で私的な事件はないでしょうが、だからこそ私たちは自分の死を思惟し、他者の生をなんとか理解することができるのでしょう。 

私はその意味で先生にもう少し個人的な領域について質問をしたいと思います。 先生の詩に登場する母親のイメージは、ある種の古い詩が固守してきた「母性」イメージとは異なる階層にあります。もしかして、これは、先生が持っている個人的な母親のイメージと関連しているのではないかと思うのです。先生がご記憶の母親とは、どのような方だったのでしょうか?

 

 

キム・ヘスン

私のオンマは小学校の先生を長くしていました。 だから初めての子供である私を外祖母(おばあちゃん)に預けました。 おばあちゃんとおじいちゃんにとって、私の母が唯一の子供だったので、孫である私を育てる心積もりはできていました。 それで、おばあちゃんが私の養育者になったのです。 私はお母さんをいつも恋しがっていました。 私の隣で眠っているおばあちゃんとおじいちゃんを憎たらしい目つきで見た記憶がとてもたくさ残っています。そんなふうに気づかれないよう心の中で恋しく思っていたオンマが自分の実家を訪れて、私の名前を呼ぶと、私はそのまま気絶してしまったとおばあちゃんから聞いています。その頃から私の気絶が始まったんですよね。

私が両親と弟とみんなで暮らすようになったとき、お母さんは友達のようになりました。 オンマに大きな娘がやってきたのではなく、友達がやってきたのです。オンマは乱暴な言葉づかいをしたり怒ったりしたことが一度もなかったんですよね。 母性イデオロギーに忠実であろうとしてそのように穏やかだったというよりは、監理教人として、神様の尊い幼い娘と自分を考えていつも少女のような面がありました。それで次第に友達のようになったんです。 私はときには「オンマは本当のお母さんではないんだわ。他のお母さんたちと違うし」と思いました。そんなふうだったのが、父が亡くなってからはオンマは私の娘になりました。完全に役割が替わりました。オンマはミッションスクールの高校に通っていたのですが、その当時、背が高くてバレーボール選手になったと聞いています。オンマはいつもテレビのスポーツチャンネルだけを観ていました。種目を選ばずに。オリンピックや国際競技が好きで、おばあちゃんになってもサッカーの試合を観に行き、近くの総合大学のサッカー場に行くのも好きでした。サッカー選手の口汚い言葉や呻き声、叫びがグラウンドから観客席に聞こえてくるのを楽しんでいました。私がテレビを観ているオンマの隣に座ると、競技ルールや選手たちの名前と特技、身体条件などを教えてくれました。しかし、私は運動音痴でしたね。そして、病弱な子供で、いつも体育時間には同級生が運動するのを見ている階段が私の席でした。オンマは私の人生で初めての恋人で、やがて友達になり、ついには子供になったんです。私がオンマを詩に書くとき、オンマをファンタジーとして書きはしませんでした。比喩でもシンボルとしても書いていません。ただ「オンマ」でした。母性という制度の中のオンマというより、親密で哀れな存在、私の過去だったのが、いまは私の未来となった存在、死という場所があるなら、一緒にその外まで出てみたい存在と考えていました。

 

 

ファン・インチャン

『地球が死んだら月は誰を回るの?』に収録された「空き家のアボカド」は、母親の死後に残されたことについて感覚し、その死を再び経験する詩です。この詩は死という無に戻ることですが、死後も物はまだ世の中に残るということ、ところが、死と共にある物は一緒に死にもするという点を示しています。詩集の題目の中で「月は誰を回るの?」は、そのように残されてしまった、死んでも生きてもいないある事物の苦境を描いているのではないかと思います。死後について、死後に残る物について、先生には考えることがありはしないかと思います。これについてお尋ねしたいです。

 

 

キム・ヘスン

「空き家のアボカド」では「触れる」という感覚が詩を導いていきます。この詩の話者「あなた」は死者です。その死者が自分の家に久しぶりに戻って、廃棄される前、あるいは廃棄される瞬間の、自分の家の物である事物に触れてみる記録です。触れるという触覚的な体験は、「見る」という視覚的体験よりも肉体的でエロティックです。触れられる事物が触れる人の体にくっつくような奇妙な経験をすることもありますよね。この詩で死者は、自分の家で事物性と感覚性の交流を試みます。触れる行為と触れられる事物を重ね合わせます。一生涯の最後に切なく触れるのですね。事物は誰も待っていなかったと言うこともできるでしょう。しかし、これらの事物は、死者が生者であった頃に、その人を立たせ、座らせ、横たわせた物たちです。しかし、死者が触れる瞬間、これらの物は、他の生きている人々によって廃棄されます。すでに使った物であるからとゴミにされます(おお! 世界中のゴミよ、団結せよ!)。この家の事物は単なる事物ではありません。何十年もの間、死者が見て触れることによって、甚だしくは物性を脱却した、それ自体が生きている、それ自体の「震え」を秘めた、甚だしくはあらゆる形に変奏することができる事物たちでした。この家は今、死者の訪問を受け、久しぶりに全体的に震えています。事物は体をぎゅっと縮めて、死者の手が触れるたびに外に広がってゆく最大限の遠心力で震えを放出します。流れて、広がり、震えながらすすり泣きます。甚だしくは、レコーダーがおのずとスイッチが入って死者の声を大放出ですよ。だけどすぐに遺品整理士がやってきます。彼らは死者と事物の触覚的なエロティシズムを余すところなく破壊しながら、その物の用途に応じた分類をドライに進めていきます。詩はこのように、事物の震え、その迷宮をイメージとエネルギーで表現するジャンルです。詩人の感覚で、です。この詩はすぐに死ぬことになる事物の肌と死者の手を追ってゆきますが、これらの最後の出会い、そのあとから「整理」という捕食者が凶暴に追ってきます。この詩は私の経験をそのまま書いたものです。私はオンマの家に行き、オンマの家の物を整理しました。オンマの物はみん用途にしたがって分類されました。オンマの物たちはすべて、オンマの感覚を持ったまま私の手の下で震えていました。私の体がオンマの事物の中に、事物がオンマの震えを大切に抱え込んだまま私の中へと食いこんできました。私たちは巨大な可触性可觸性という宇宙の中でむやみに震えて別れました。その日以来、本当に長い間病みました。オンマの体があの物たちの中に移っていき、私の手に乗って消えてしまいました。オンマおの物たちは「見えること」すらない存在になってしまいました。詩を引用すると、次のようになります。

 

「空き家のアボカド」

 遺品整理士たちが来る前にもう一度行かねばならない。一年の間、一度も開かれることのなかった、あなたの家が緊張する。あなたの家はいまでは外からだけ開かれる家。あなたはあなたの経帷子に触れてみる。バザーの人たちが来る前にあなたはあなたの器たちを撫でさする。「植木鉢だけを持っていくはず、花は持って行かないわよ」、花屋の人たちが何か言う前に「植木鉢の花はみんな抜いてゴミ袋に入れてね」、あの人たちが何か言う前に。あなたはあなたの布団を撫でさする。あなたはあなたの洋服だんすの中をくまなく見る。遺品整理士たちの袋が口を開ける前に。あなたはあなたの下着、ブラジャー、コルセット、ストッキング、パンティストッキング、ガードル、寝間着に触れる。リサイクルセンターが来る前に、「写真は破って、額縁はリサイクル」と言う前に。あなたは写真の額をぐるりと手探る。あなたは手すりに手を添えて階段を降りてゆく。階段を降りたら階段が消える。あなたが育てたものなのに。あなたが好きだったものなのに。あなたが大切にしていたものなのに。あなたが作ったものなのに。テープをカセットプレーヤーに差し込むとあなたの声が聞こえる。あなたの最後の授業だ。あなたは天気からはじめる。今日は雲も天高く、空は澄んでいると言う。あなたは窓の外を見やる。雲は天高く、空は澄んでいる。あなたが言っていたまさにあの日。それからあなたの声が鍋の蓋みたいに裏返る。あなたは初めて聞く妖怪語で話している。声が渦巻きのように螺旋を描く。あなたはあなたの言葉を聞き取れない。そのうち部屋の扉を開けて、患者服を着たおばあさんがひとり、現れる。人間じゃないと思う。そのおばあさんの手首のリストバンドにはあなたの名前が書かれている。洗濯機の蓋を開けると、不意に津波が迫ってくる。数珠のついた黒衣が溢れでる。巨大な葬儀がはじまる。壁から水が湧きだして、弔問客の靴という靴がプカプカ浮かぶ。遺品整理士がその靴を袋に詰める。あなたが五十年ものの醤油だというと、遺品整理士たちは醤油を壜に入れる。「いい値段になりそう」、捨てない。なのに、植木鉢の土を払うように、あなたの仕草を捨てる。あなたの笑いを捨てる。涙に滲んだ川を運び出す。涙に滲んだ海を運び出す。あなたが捨てられなかったあなたまでをも捨てる。捨てる。捨てる。捨てる。捨てる。枕を捨てる。枕に置かれていた黄金の鍵を捨てる。鍋を捨てる。釜を捨てる。匙を捨てる。包丁を捨てる。アイロンを捨てる。あなたはあなたのハンカチを見つけて涙をぬぐう。流し台の蛇口を回せばあなたの指が溢れでる。セシュームが降り注いでいるわけでもなし、ただ死んだだけなのに、こんな目に遭うなんて。植木鉢からあなたをスッと抜いてゴミ箱に放る。「オルガンはどうしましょうか? ミシンは?」あなたの教職生活は博物館に行くことになる。オルガンが胸倉をつかまれて出ていくときにあなたを振り返る。あの人たちが突然あなたに命令する。「レコーダーを切りなさい」。あなたの夏のスカートがあなたの顔にひらりとまとわりつく。あの人たちはあなたを分類する。生活史博物館に行くあなたと、リサイクルセンターに行くあなた。バザーに出されるあなた、ゴミになるあなた。流しにぶちまけられるあなた、燃やされるあなた。破かれるあなた。奪われるあなた。埋められるあなた。与えられるあなた。片付けられるあなた。捨てられるあなた。椅子のように重ねられるあなた。寝室4、居室1,キッチン1,お手洗い2,部屋の角が56個、ぞうきんを握ったあなたの手が触れる56の角、沈黙する角、気になる角、口を尖らせる角、恥ずかしがる角、あなたにどこに行くの?と尋ねる角。あなたは今ではあなたの家の56か所の角を目を閉じて全部確かめないと眠れない。あなたはあなたのベッドを確かめる。冷蔵庫を確かめる。食卓を確かめる。あなたはこの家のすべてを確かめるとやっとのことで眠りにつける。あなたはこの家の家具中毒者だ。大きな四角の中に、小さな四角が7個。小さな四角の中に数画の泣き声。フィラメントのようにかすかに震えるまつげ。平和を! 平和を! 祈りの声。死ぬときも逝く前にしっかり縛って包んでおく秘密の手紙なのに、あの人たちに明かされる数枚の紙。さあ、ここを発つの! 紙の船に乗って北に向けて発つの! あの人たちはあなたの舌を風呂敷で包む。まことに長い袖をあなたの体からむしりとって、くるくる巻いてしまう。あの人たちはあなたの分別収集をもう終えた。あの人たちはあなたのレコーダーを持ってゆく。あなたはいまではランドセルのようにあなたの家を背負って歩く人になった。駆けるとランドセルは上に下にと踊りだす。家に帰るの、毎日毎日帰るの。他のところには絶対に行かない。あなたはランドセルから取り出した56個の角を順々に指で確かめる。

 

 

ファン・インチャン

おそらく、先生は母親が残した物をたくさん数えて、確かめたのでしょう。詩を書き記すほどに心を大いに込めたことだっただけに、母親が残した物たちを数えながら感じたことを伺いたくもあります。

 

 

キム・ヘスン

そのときの私の思いはこの詩の最後の数行にあります。

 

あなたはいまではランドセルのようにあなたの家を背負って歩く人になった。駆けるとランドセルは上に下にと踊りだす。家に帰るの、毎日毎日帰るの。他のところには絶対に行かない。あなたはランドセルから取り出した56個の角を順々に指で確かめる。

 

私はいまや消えたオンマの家をかばんのように背中に背負って歩いて、その家の角を毎日なぞる人になったと言いましょうか。私にはすべての事物を失った人の虚しい感覚の手だけが残りました。あの家をすべて整理し、数ヶ月後、私の弟が私の娘と私をあの家に連れて行ったのですが、私たちはどうしてもあの家の扉まで近づけませんでした。いまでは56個の角しか残っていないのですから。オンマと消えた物たちがとても哀れでした。

 

豚の詩学  キム・ヘスン  メモ 自分のための粗訳 p15~

◆『地球が死んだら月は誰のまわりを回るの?』について。

 

2019年にオンマが亡くなり、その時期に集中的に書いたものをしばらく放っておいたのをまとめて出したものです。私はその年にも辞表を出してふたたびサバティカルに入りました。授業がなく余裕ができたので私がオンマの面倒を見ることにして、救急車を呼んで病院のホスピスを転々としました。ついにはオンマは臨終を迎え、オンマの家の整理までしました。その渦中に詩を書いたのです。とにかく何かしていなければ耐えがたくて書いたものです。それからのちは詩が浮かんできても書かずにいました。後輩の詩人の助言どおりに詩から離れるべきでしょうか?『死の自叙伝』から「翼の幻想痛」を経て『地球が……』に至るまで、本当に多くの死という事件にかかずらっていました。だから死の三部作となったのです。詩人という存在は本来死への先験的直観を表出する存在ですが、それゆえずっと自身の最期をあらかじめ生きぬく存在であるのですが、この時期には私自身が死としての私をより感じたのではないかとも思われます。私は死という事件により悲嘆に暮れる人びとの連帯と死への先験的直観の間で彷徨っていました。これらの詩を書きながら、私は私が死んだ後の「私」は「単数」ではなく、「複数」だという詩的経験をすることとなりました。そうして複数の話者が話す騒々しい詩が暴走しました。その複数の存在が私に話しかけるのです。今はベッドに横たわって、暴走してくるそれらを全身で受け止めています。あの死たちがますます私の身体化症状となって登場しそうで、私の森がますます騒々しくなりそうで、恐ろしいからです。

 

 

私も自分の体が本当に面倒です。具合が悪かったりするとなおさらですよね。不眠症の体は私の体を早々に棄てる方法を熱心に考えるきっかけになりました。同時に、憐れで厄介な体を勝手な基準で語ったり、抑圧したり、差別するような態度には我慢がなりません。『花開け、豚!』に私は「豚だもの、大丈夫」という詩を収めています。わが国で口蹄疫が流行して豚300万匹を殺処分したことがあります。その頃私は娘が滞在していた国立現代美術館のレジデンスの建物を時折訪ねていたのですが、その近くに豚舎がたくさんありました。そこを通ると車が大雪で覆われてしまったみたいに真っ白に消毒されたりもしたんですよ。あのときたくさんの豚が生き埋めにされました。家に帰って、穴から這いあがろうとするまだ生きている豚たちの悲鳴をYouTubeの画面からずっと聞いていました。それから豚殺処分PTSD(心的外傷後ストレス障害)とでも言いましょうか、そういう感じになって、それを治療しようと寺での修行に参加するようになりました。そこではソンバン和尚が、自我を捨てて、完全に呼吸だけに集中している状態になるよう、参加した女性たちを励ましました。私はその修行中も考え事ばかりしていました。私はしきりに体を私の外へと送り出す想像をしていました。カフェに行き本を読み、すっきりシャワーを浴び、明るい板の間で亡くなった祖母とスイカを食べ、祖母にうちわで風を送ってやり。そうしている間にも私には見えていたのです。寺の門の外へと追いだしたのに、寺の中にやたらと入ってくる、寺の部屋の中に入ろうと一心不乱の、殺処分された豚が一匹、名も衣も捨てた一個の体を、豚のようにただ体だけの存在を。その体の誕生と死と差別と分類と後ろ指と鞭打ちと拷問とを。その体をぞんざいに扱う視線と嘲笑と拷問する国家体制を。あの頃、私は詩を書きながら、私の体、私の豚を考えていました。冷たい視線を寄せ集めた、この世でいちばん冷たくて残忍な武器である鏡の前に立つ一個の裸身を。思えば、命名を脱ぎ捨てた一個の裸身が私の「今」なのでした。私が書いた、没頭した数多の「死」はすべて私の未来でした。私の父母は私の過去であり、亡くなってからは私の未来になりました。未来は不安とつながっています。私の体は現在に未来という不安を投企して私の痛みとなりました。

私はいままで詩に関する文章を集めた三つの本を(『女が詩を書くということ』『女、詩する』『オンナけものアジアする』)を刊行しました。その三冊を一言で定義するなら、「生体詩学」と呼ぶことができるだろうと考えたことがあります。体から名前と人種と皮膚と色と嗜好と、そのあらゆるものを取り除いた体。「豚」の詩学ですね。のちにはその豚を「おんなケモノ」と呼びもしました。他者には絶対にわかりようのない痒みと渇きと空腹と欠乏と悲鳴と渇望が私の体の今であり直感であるように、詩の直感もまたそういうものなのです。今の直感で、そのあらゆるものを振り払った体の内密性で私は詩を感知するのです。

2026年2月20日 映画『よみがえる声』アフタートーク(理想形)

2月20日  七藝  チンドン&トーク

<よみがえる声をもっとよみがえらせるために>

  

【入場】法螺貝、鳴りひびく! 

おめでとうございます!

毎日映画コンクール ドキュメンタリー部門受賞 

おめでとうございます!

数々の国際映画祭での受賞、

おめでとうございます!

 

<ええじゃないか!> 始まる (客席後部から、ステージ前へ)。

ええじゃないか、ええじゃないか、ええじゃないか、

よみがえる声  ええじゃないか、

声をつないで  ええじゃないか、

記憶をつないで  ええじゃないか

みんなでつないで  ええじゃないか

 

【前口上】百年芸能祭ちんどん隊、参上! アリランがバックに流れている。

私たちは関東大震災を契機に、「この百年の無数の理不尽な死者たちの鎮魂し、そんなことのない新しい百年へと向かう場を芸能の力で開こう」ということで立ちあげられた「百年芸能祭」から生まれたちんどん隊です。

そして私、姜信子は、共同監督の朴麻衣さんとは40年来の知り合いでありまして、私も麻衣さんも自身のアイデンティティをめぐる問いを抱えていた若き頃に出遭い、その後、それぞれにその答えを出していく旅をつづけて、いままた、この映画のおかげで20年ぶりに再会したのでした。

さて、この映画『よみがえる声』!

これは、朴壽南、朴麻衣の「植民地主義」「家父長制/女性差別」、「民族差別」との闘いの記録です。

この非対称世界を創り出し、非対称であることにより利益を得る者たちへの石つぶてであり、奪われる側、踏まれる側、殺される側に生きる者たちに注ぐ深い愛の記録でもありましょう。

そして、

母・朴壽南が聞き取ってきた声を、この映画の制作を通して、娘・朴麻衣があらためて受け取りなおし、対話をすることによってよみがえる声の風景が、外に向かって、映画を観る者たちに向かって、さらに大きく開かれていくという経験を私たちはするわけです。

対話は二人でするものではなく、第三の対話者がいることにより開かれる。

その第三の対話者が映画を観る私たちなんですね。

そうして、わたしたち、彼女たちの闘いに触れたひとりひとりが、この非対称の世界で行われる「声」殺し、「記憶」殺しに、みずからの声、みずからの歌で抗することへと誘われていくわけです。怖い映画ですよ、この映画。

百年芸能祭チンドン隊は、今日はこの場で、声をつなぎ、記憶をつないでみようと思っています。「よみがえる声をもっとよみがえらせる」試みの最初の一歩として。

この試みは、私と朴麻衣が語らう中で生まれたものです。

 

「天然の美」 演奏はじまる

私をかつて遠い旅に誘い出したこの曲、チンドンの定番、中央アジアのアリラン!

さてさて、

近代日本の朝鮮侵出以来、土地を奪われた朝鮮の農民の多くが流民となって、朝鮮をあとにするようになります。

朝鮮半島の北側の人々の多くは、満洲、ロシア極東へ、

もともと朝鮮半島北部は飢饉も多く生きづらい場所であったので、記録によれば、19世紀より北への流転は始まっています。

そして、南側の人々の多くは、日本へ。

 1937年、ロシア極東へと流れて、定着していた20万人もの朝鮮人がソ連により、モノのように貨車で運ばれ、追放されていきました。日本の植民地の民であるという理由で。そして、その記憶はソ連崩壊まで、語られることはなかった。

朝鮮人の独立運動に神経を尖らせて諜報活動に熱心だった日本当局が、1937年にソ連の極東地帯から朝鮮人が消えたことを知らぬはずもないとも思うのですが、それについて触れた日本側の記録は目にしたことはありません。

この「美しき天然」のメロディは、その封じられた記憶を伝えるものなのです。

このことを私が知ったきっかけは、ウズベキスタンの農村で「美しき天然」が朝鮮の言葉で歌われている映像をある偶然から観たことです。彼らは、「故国の山河を離れ、数千里……」と朝鮮の言葉で歌っていたのです。

日本から植民地朝鮮へ、そして朝鮮半島から流民と共に旅をして、遂には一緒に中央アジアまで追放されていったこの歌が、「ここに封じられた記憶がある」と教えたんです。

さて、この追放の17年前に、満洲の間島、朝鮮人集住地で大虐殺が起こっています。

間島というのは、いまの中国東北地方吉林省延吉にありました。

ここは韓国人も日本人も大好きな詩人尹東柱の生まれ育ったところでもあります。

間島は朝鮮とロシア極東とを結ぶ交通の要地であり、独立運動の拠点でもありました。

間島には、ロシア極東の朝鮮人たちによって社会主義も持ち込まれています。

ここで、20年10月末から12月までの1ヵ月以上のあいだに約3千人の朝鮮人が虐殺された。

「不逞鮮人」狩りです。

このとき「不逞鮮人」殺しを経験した日本軍兵士が、1923年の日本では在郷軍人として自警団の中心となっています。

関東大震災直後の朝鮮人虐殺。

この国のヘイトクライムのはじまりの風景には、日本による植民地支配に抵抗する者たちが活動していた満洲、ロシア極東の闘いの風景が潜んでいるのです。

しかし、1923年の虐殺をした者たちは、1920年の虐殺についても、それ以前の日清日露での虐殺についても一切語りませんね。それは語るほどのことではないんですね。いま、イスラエル軍兵士が、虫か獣を殺すようにパレスチナ人を殺しているように。

非対称世界では、抵抗する者は、「不逞」、「テロリスト」と名づけられます。

その声も、記憶も、命も、消されるべき者として。 

今では「在日コリアン」と呼ばれている私たちは、この社会では今も昔も一貫して「不逞鮮人」です。歴史も記憶もきれいに浄化した「在日コリアン」という言葉の芯には「不逞鮮人」という言葉が潜んでいます。

 そうです、闘うわれらは「不逞鮮人」ですよ。上等じゃないですか。

私は「不逞鮮人」です。朴壽南、朴麻衣両監督も、誇るべき「不逞鮮人」ですね。

 この「不逞」という言葉、あるいは「テロリスト」という言葉は、皆さんご存知のように植民地主義蔓延る世界では、とても役に立つ言葉なんですね。もちろん、植民地の主人たちにとっての話です。

 

あと、もうひとつ、この言葉も忘れてはいけない。

「役立たず」。

資本主義と深い仲にある植民地主義では、これもまた最重要単語の一つですね。 

近代日本により、とことん「役立たず」とされた、ある朝鮮人女性の詩を紹介します。

近代日本で、役立たずとされ、日の丸のシミ 座敷豚と呼ばれ療養所という名の収容所に強制的に入所させられた<ハンセン病者>であり、<不逞鮮人>であった香山末子(金末壬)の詩「青いめがね」を、祭文語り八太夫の語りで。

「青いめがね」

二十歳から日本に来て

今年七十二になって

その間一度も古里韓国には行かない

山も野原も田んぼも

目いっぱいに溢れるようだ

 

秋には

夕やけ小やけ赤トンボ

歌って表に出ると

隣りの娘も

その隣りの娘も

みんな出て来て歌ってた

 

稲の穂先にとまった

赤トンボにイナゴたち

トンボの目は大きくて青い

めがねをかけたくるくる目だったな

韓国に残る田舎の風景が

夕やけ空小やけ空で映えている

 

香山末子は、戦後すぐの頃にはもうハンセン病で失明し、療養所内の詩の指導者の勧めで口述筆記による詩作を始めた人です。そもそも日本語は彼女が自由自在に操れる言語でもなかったのですが。

その日本語で、帰れぬ朝鮮の故郷の村の風景を香山末子は歌います。

しかし、その風景のイメージには、日本の唱歌「夕焼け小焼け」「とんぼのめがね」のイメージが色濃く染みこんでいます。

詩の中の夕焼け小焼けの風景の中で、朝鮮の女たちが歌っていたのはどんな歌だっただろうか。とんぼは青いめがねでとんでいたのだろうか。詩で歌われる朝鮮の農村の風景には、日本の農村の風景が知らず知らず溶け込んでいる。胸を衝かれる詩です、これは。

ここには、いまだ語られえぬ香山末子の「沈黙」がある。

声を封じられてきた人々が声を上げたとしても、記憶を語りだしたとしても、

その芯のところには、「沈黙」がある。

この「沈黙」、無数の「沈黙」。私たちは「沈黙」にまで想いを馳せることなくして、記憶をつないでいくことはできないのではないか。

朴壽南さんの言葉をここで読みます(「鳳仙花」のメロディ、流れはじめる)

「私は『鳳仙花』を歌うたびに、関東大震災で虐殺された多くの朝鮮人をたちを思いだします。『鳳仙花』の花は、関東大震災のときに虐殺された私たちの「兄」であり、「弟」であり、「父」や「家族」だったのです。「家族」があのように殺されました。鳳仙花は愛らしくてとっても美しい花です。私は顔も名前も知らない当時虐殺された多くの人たちを、鳳仙花だと思いました」

 

鎮魂の時間を最後に持ちたいと思います。

20世紀に植民地化されたのは朝鮮半島とパレスチナだとエドワード・サイードは言います。1948年にイスラエルは成立し、朝鮮半島は分断された。 いずれも植民地主義の賜物です。

そして、いまのガザの状況に、私は私の祖父母たち、在日の一世たちが経験した苛烈な植民地の経験を見る思いがしています。彼らが語らなかった記憶を、そこに観るのです。

いま、植民地主義の究極の世界に生きて、ガザを思いつつ。この百年理不尽な死を遂げた無数の命を思いつつ。映画『よみがえる声』のうちの亡くなった方々の顔と名前を思い浮かべつつ、みなさんひとりひとりの心の中の鎮魂すべき死者たちの名前を呼びつつ。

 

さて、鎮魂の次は予祝です!

わたしたちはこれから「よみがえる声」をもっとよみがえらせていきます。

映画を自主上映会の形でどんどん広げて、声をつなぐ場を作っていこうと。

自主上映とかに慣れていない人、大きな上映会ではなく仲間と小さな上映会をしてみたいという人たちのために、「小さな自主上映会」用のパッケージを作ろうと朴麻衣さんと話し合いました。

われこそはという方、どうぞ朴麻衣さんに連絡してください。

記憶をつないで、新しい100年を開いてゆく!

おめでとうございます! 新しい100年がやってきます!

 

ホロコーストで消滅させられ東欧ユダヤ人の伝統的音楽クレズマーから、

「生き生きと幸せに」を奏でつつ、退場!

 

※クレズマーとはかつて東欧のユダヤ人たちの間で歌われていたもので、東欧からホロコーストでユダヤ人が消されていったときに、一緒にクレズマーも東欧から消えてゆきました。

ホロコースト以前、アメリカに渡った楽師たちによってクレズマーという音楽文化は継承され、ニューヨークのユダヤ人コミュニティの中でも冠婚葬祭に必須の音楽として演奏されていたものです。

現在、クレズマーの本拠地はニューヨークです。

このクレズマーのある風景は、映画「屋根の上のバイオリン弾き」等で観ることもできます。

シャガールの絵にも描かれています。

クレズマーは消滅させられた東欧ユダヤ人の暮らしに密着した音楽文化でした。

マイムマイムのようなイスラエル生まれの歌とは異なり、シオニズムから生まれた音楽ではありません。

 

 

 

2925年最後の日。思うことあれこれ。主にガザから見る世界。

2025年も今日で最後。
7月に、ガザの若者たち(ガザチーム)と日本の友人たちと共に、ガザ南部ハーンユニスのマワシ避難キャンプの人々への支援物資配布プロジェクトを立ち上げてから、ガザチームとやり取りをする日々となりました。
世間では、戦争、テロ、飢餓、復興と、状況を語っているようで、状況を目くらましするような大きな言葉が飛び交っています。
【戦争】
圧倒的な戦力で、壁の中に閉じ込めた一般市民に一方的に攻撃を加える、この非対称な状況を「戦争」と呼んでいいんでしょうかね?
1948年から数年にわたって、アカ討伐の名目で、絨毯爆撃ならぬ絨毯虐殺が無辜の島民に対して行なわれた「済州4・3事件」を私は想起します。
2001.9.11以降、逆らうものはすべて「テロリスト」という都合の良い命名がなされ、テロとの戦いが宣言されて以来、植民地主義による侵略と闘う者たちがすべて「テロリスト」になり、侵略者たちが被害者になるという不条理を私たちは目撃してきました。
戦争ビジネスは儲かるからやめられない。困った時は戦争。というのはロシアのチェチェン侵略の際に聞いた言葉。
【テロ】
そういうわけで、典型的な入植者植民地主義により、イスラエル建国以前からパレスチナへと圧倒的な暴力をもって侵出していったシオニストに対する、パレスチナ側からの抵抗を「テロ」と呼んでいいんでしょうかね?
暴力によってパレスチナの民を殺し、追放していったならず者集団が、建国後には国軍となり、その頭領が首相にもなった国家に対する抵抗を「テロ」と呼びますか?
武器もなく、石を投げて闘う者を、いや、そこにただ生きているだけの者を、そこにいるというだけの理由でテロリストと断じて撃ち殺す連中を、テロの被害者と呼びますか?
【飢餓】
2023年10月7日以前から、カロリー計算までして、壁で囲われたガザへの物資搬入を管理して、生かさず殺さずを実践してきたイスラエルによる戦略的飢餓を、何の説明もなくただ「飢餓」の中にあるガザと表現しますか?
イスラエル人道支援物資の搬入を阻止している時も、ガザのスーパーマーケットのガザの外からの商品の仕入れは許可して、それが凄まじい高額で販売されていたことも、私たちはガザの人々との日々のやりとりで知ることができます。
収入の途もないのに生きるためには高額の食料を買わざるを得ない人々が、海外からの支援に頼るほかないことは当然のことで、海外からの送金を妨げる圧力(その筆頭はアメリカですね)のため、ガザを支援する人々は異常なほどに手数料のかかる送金ルートを使わざるを得ない状況も発生しています。
一言でいうと、あらゆる局面で、恥知らずの人でなしたちが、ガザの人々を、そしてガザ支援する人々を金づるにして儲けている状況もあります。(新自由主義あるあるですね)
【復興】
戦争後のガザ復興の話(リゾート開発とか、これまた恥知らずなビジネス案件)が、旧植民地帝国(G7のような)の間で盛んに交わされているようですが、そこにガザの民はいません。「復興」の名で行われる「金儲け」もまた、新自由主義あるあるですね。
イスラエルによるガザの民追放作戦の中には、留学支援組織を騙る団体と結託して、ガザの若者を誘惑して、最低でも1000ドルの手数料で片道切符の海外留学・海外旅行を斡旋するという海外追放作戦もあります。
夢のような海外留学、海外旅行へと誘い込む映像がどれだけガザの若者たちの間に広がっていることか。どれだけ虚しい夢をばらまき、悪夢へと追いやろうとしていることか。
非対称な関係性において、圧倒的力を持つ側は、無力な側に何でもできる、殺しても追放しても咎められない。咎めたところで、なんの効力もない。これも新自由主義あるある。
極悪なこと、恥知らずなことをすれば、(たとえば、権力や富のために命を食いものにすることを厭わず、すすんで、胸を張ってやるようなことですが、そんなことをしても)、まったく儲からない、損をするだけ。ということにでもならない限り、この世界は変わりようがないだろうということを、この半年で骨身に沁みて知りました。
こういう世界では【ジェノサイド】はあたりまえ。邪魔者たちを一掃して、復興ビジネスをする。これが一番儲かりそう。【ジェノサイド】という言葉は、【殺人ビジネス】と言い換えた方がよいかも。
無数の死の上に建設される夢のリゾートで遊ぶなんて、まともな神経があれば到底できそうにないけれど、人間というのはあっという間に忘れますからね。それを恥知らずたちはよーーく知っています。悔しいけれど。
非対称な関係は、限りなく、さらに非対称な関係をその内部に増殖させていきますから、(つまり、限りなく、きっと最後のひとりになるまで食い物になる弱者を探しだすことでしょうから)、最後にはたったひとりの強者だけが生き残るだけになるのではないだろうか。そうして世界は消えるのだろうという愉快な想像をしている年末です。
と、まるで部外者のように書きましたが、恥しらずな連中が仕切るこの世界に対して、自分の生きているこの場所で、自分のできる形で抗っていかないかぎり、私もまた新自由主義あるあるの、口先批判、実質追従、恥知らず組のひとりでしかありません。
2026年もきっと、ひそかに、いろいろやります。
ひそかな抵抗の増殖を試みます。
みなさん、よい年を!