コリアン・ディアスポラと文学 ~流転、追放、ジェノサイド、そして記憶の物語り~ 

コリアン・ディアスポラと文学

~流転、追放、ジェノサイド、そして記憶の物語り~   

 @2024年3月3日 九州大学韓国センター  

 

今日は3月3日。2日前の3月1日は、韓国では3・1節。

3・1独立運動の発端となった独立宣言文が読まれた日です。

この独立運動が植民地権力による激しい暴力によって弾圧されたのちに

朝鮮全土に広がった歌「이 풍진 세상(別名 希望歌)を聞くことから

今日の話をはじめましょうか。

 

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<0>

さて、旅のはじまりは、カザフスタンから東京へと送られてきた一編の映像でした、

20世紀の最後の年、もう24年も前のことです。

ウズベキスタンのボリシェビークという農村で撮影されたというその映像には、1902年に日本の軍楽隊で作られた3拍子のメロディに乗せて、朝鮮の言葉で望郷の思いを歌う人々の姿があったのです、

 

映像 故国山川  山川고국산천nostalgiya

youtu.be

  

          고국산천를  떠나서 수천리 타향에

          산 설고  물선 타향에 객 정하니

          섭섭한 생각은 고향뿐이오

          다만 생각나오니 정드는 친구요

 

彼らは高麗人、

1937年にスターリンによって、日本とソ連の不穏な国境地帯である沿海州から、中央アジアへと追放された20万人の朝鮮人の末裔、

ソ連が崩壊するまで、彼らがその追放の記憶を語ることはなかったけれども、

彼らが歌いついできた望郷の歌が、そこに語られることのない記憶があることを指し示しつづけていた。

 

朝鮮の言葉で歌われるその歌を、彼らは朝鮮の言葉で「故国山川」と呼び、

ロシア語で「ノスタルギーヤ」と呼んでいました。

 

そもそも、この歌は、「美しき天然」という名で、日本の自然の美しさを讃える歌でした。

 

     空にさえずる鳥の声、峰より落つる滝の音

     大波小波 滔々と 響き絶えせぬ海の音

 

ところが、それが植民地朝鮮に渡った時、その歌詞はたちまちさまざまな望郷の歌詞に変じていく、流浪の民とともに遥かな旅を生きるようになる、3拍子の揺れる足どりで。

 

その当時、日本で流行して植民地に流れ込んだ歌と言えば、もう一つ「鉄道唱歌」がありますが、流浪の民が携えていったのは、望郷の思いを託して歌う「美しき天然」の調べでした。

(「鉄道唱歌」の調べは「学徒歌」という愛国啓蒙運動の歌となって、今も韓国で歌いつがれています)

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                   ◆

 

私は「ノスタルギーヤ」を歌う人々を訪ねて中央アジア、ロシアを漂い歩きました、

 

2004年、カザフスタンの旧都アルマトゥイで出会った高麗人のお婆さんは、朝鮮の言葉で「長恨夢歌」を歌い、「籠の鳥」を歌った、

それはどちらも「ノスタルギーヤ」と同じくらいに古い日本の流行歌のメロディで、

お婆さんはそれが日本生まれの歌だということは知らない、

植民地朝鮮で盛んに歌われた歌だということも知らない、

とはいえ、ともに長い旅を生きぬいてきた歌は、もはや旅人たちのもの、

出自よりも、そこに宿る旅の記憶、記憶に脈打つ心情、ディアスポラの道標とも言うべきその調べにこそ意味がありましょう、

 

お婆さんは、「古い歌だけどね」と言いながら、「種をどんどんまけ」という歌も朝鮮の言葉で歌ってくれました、

それは1933年に沿海州で生まれた歌、

沿海州の大地に水田や畑を拓いていく希望にあふれた日々の歌、

1937年の中央アジアへの追放後には、塩を吹く乾いた大地を開拓してゆく苦難の日々の歌。

 

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長恨夢歌(1925年朝鮮にてレコード発売。 日本語原曲「金色夜叉の唄」1918

~籠の鳥(日本語原曲は1922年)~種をどんどんまけ (1933

 

 

<1>高麗人(コリアン・ディアスポラ)を追って、ディアスポラの荒野へ

  

 みなさんに見ていただいた追放列車の映像には、コリアンのおばあさんだけでなく、チェチェンのおじいさんが映っていました。

 彼もまたディアスポラの民です。

 私は高麗人の歌声を追いかけて訪ねていったカザフスタンの荒野で、チェチェン人に出会ったんです。

 かつて高麗人が暮らしていた荒野の家に暮らすチェチェン人です。彼はチェンチェン戦争のことを私に話してくれました。
(ロシア人が狼と呼ぶチェチェン人は、獣などではないのだと。ロシアの侵略と闘う戦士なのだと。) 

 ベノの友人のハリムさん一家はチェチェンの踊りを見せてくれた。チェチェンの歌を歌ってくれた。

 チェンチェンの戦火を逃れて、カザフスタンで難民として暮らす一家にも出会いました。一家は、どのようなジェノサイドが行なわれているのかを、語って聞かせてくれた。

(それは、今のGAZAの状況と変わらぬ光景  すでに世界は、あのとき、とりかえしのつかない世界となっていたことを、あらためて知る)

 

 高麗人のおばあさんと二人、六十数年前の追放のときのように貨物列車に乗って、当時の記憶を想い起こしては語ってくれたチェチェン人のおじいさんは、9歳の少年に戻って、涙ぐんでいました。

(与えられたのは機械油の浮いたスープ  誇り高いチェチェンの女たちは、トイレのない貨車の中で衆人環視の中でバケツに用を足すことをよしとせず、膀胱破裂で死んでいった)

 

カザフスタン国立劇場に所属するチェチェン人のオペラ歌手は「わが祖国」というチェチェンの歌を歌ってくれました。 

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カザフスタンの荒野でチェチェンディアスポラに出会うまで、私は、チェチェン人のことも、チェチェン人が帝政ロシアの時から、もっとも長い年月にわたり、植民地化に最も抵抗してきた民族であることも、ソ連崩壊後に独立宣言をしたチェチェンにロシアが侵攻してジェノサイドを繰り広げていることも知らなかった。

 

そもそも、高麗人のみならず、チェチェン人をはじめとする諸民族をソ連がその故郷からごっそりとまるごと追放していたことも、高麗人を追って私が訪れたカザフスタンの荒野がソ連によって追放された諸民族の屋根のない強制収容所にも等しい場所だということも知りませんでした。  

 

 

帝政ロシアの時代からソ連の時代にかけて、ロシアが野蛮とみなした周辺諸民族をどのように扱ってきたのか。ここで、『ロシアのオリエンタリズム』を繙いてみます。

 

ソ連の大半の歴史教科書では、非ロシア民族はロシアの一部になるまで歴史を持たなかった、とされている。その後も、ロシア史の一部となることによってのみ非ロシア民族は意義を持つ、とされた」      (『ロシアのオリエンタリズム』p248)

 

チェチェン人は一生の間、その残忍ぶりゆえに連中を嫌っている隣人たちを略奪し、襲ってばかりいる……このような悪意に満ちた人民に対処する唯一の方法は、最後の一人に至るまで駆逐してしまうことである……(19世紀 帝政ロシア文官ズーボフの言葉)

 

マルクス主義者の観点に立てば、カザフ人は経済的に弱体で、どうあろうと絶滅しなければならないだろう。    (トルキスタン共産党指導者イワン・トポリン 1918)

 

 

「1917、18、19年にキルギス人(カザフ人)から土地を奪い取るために、彼らは生きたまま焼かれ、」「狩りの対象となった。彼らは絶滅の運命にあった」

プラウダソ連共産党機関紙 1922)

 

 チェチェンは、近代的概念の国家や民族とは異質の部族社会です。彼らには、無用の血を流さぬ知恵がありました。旅人を受けいれる歓待の思想がありました。

 しかし、彼らに対してロシアが繰り広げたことは、西洋がアフリカで、新大陸で繰り広げたことと変わりはありません。

 

一九三二~三三年にウクライナでは人為的な大飢饉が起きています。

                  (ワシーリー・グロスマンの『万物は流転する』参照)

 

膨大な数の「富農=人民の敵」がシベリアに追放され、土地が取り上げられ、集団農場化された農民は、計画経済の数字合わせのために収穫物も種籾もすべて奪われて、三百万人が餓死したと言われています。計画通りの収穫ができないとすれば、それは怠惰な「人民の敵」のせいなのだ、計画こそが数字こそが現実なのだとされた世界で、農民は村ごと飢えて死に絶えていった。

 

もっともらしい理念を掲げて、土地のことも農業のことも命のことも知らない者たちが立案した机上の計画と数字がもたらした災厄は、同じ時期にカザフスタンでも起きています。カザフスタンでは百五十万人が飢餓と伝染病で死に、三十万人がソ連から逃げ出し、人口は半減した。

 

それから、高麗人が中央アジア強制移住させられる一九三七年までは、ほんの数年。

 

カザフスタンには、一九三七年の朝鮮人をはじめとして、チェチェン人、イングーシ人、クルド人、カラチャイ人、カルムイク人、ボルガ・ドイツ人、メスへティア・トルコ人クリミア・タタール人、バルカル人等々……、一九四四年までに十七の少数民族が追放されてきます。次から次へと、命をつなぐすべが何もない荒野に放り出されtています。

1930年から20年間で、58もの民族集団の定住していたコミュニティが追放された。北カフカスの「政府転覆」を図った蜂起からクリミアでのドイツの侵略者への協力に至るまで、非難はさまざまだった。これはジェノサイドであり、ヒトラーのそれと同じ規模だった。

一人一人の「裏切者」が逮捕され追放されたというのではなく、家族や村、地域全体が一斉に検挙されて、貨車に牛のように押し込まれ、遠く離れた地方へと追放され、それから集団ごとに分けられ、散り散りにされたのである。追放されたクリミア・タタール人18万8千人のうち半分が16歳未満の子どもだったほか、35パーセントが女性、15パーセントが男性だった。多数が搬送中に死亡し、他の者も、人を寄せつけない荒涼とした不慣れな土地での困難に耐えられず、到着後に死亡した。人的損失を表す数字は次の通りである。

追放されたチェチェン人の22パーセント、イングーシ人の9パーセント、カルムイク人の15パーセント、カラチャイ人の30パーセント、バルカル人の26.5パーセント。

(『ロシアのオリエンタリズム』p180)

 

私が中央アジアに高麗人を訪ね、チェチェン人に出会い、デイアスポラの歴史を知ったのは、2000年代のことでした。その経験は、私にとっては、「在日」という日韓のはざまの息苦しい存在を、ディアスポラの世界地図の中に置きなおす契機となったのでした。

 

それは、つまり、

ディアスポラとは、「ナショナルな歴史の中に居場所を持たない者たち」「その記憶がナショナルな物語に居場所を持たない者たち」であり、いわゆる「在日」もそのような存在の一つなのだ、

という、捉え直しです。

 

そして、2024年の今、あらためて高麗人のことを語り、コリアン・ディアスポラを語り、この近代世界におけるディアスポラを語るならば、それは「ジェノサイド」から始まったのだということ、その背景には植民地主義と、進化論に基づく優生思想と深く結びついた人種主義があることを、より明確に語らねばなりません。

 

近代の数々のディアスポラの背景には、西欧中心のまことに非対称な世界観、文明観、人間観に立つ者たちが引き起こす「人間による獣の領土の植民地化」があり、言うことを聞かない「野蛮な獣たちの駆逐」がある。

 

こうしてジェノサイドは引き起こされる。これが西欧世界で一向に大きな問題とされずにきたのは、

「ほうっておいてもいずれ絶滅する獣どもを駆逐することは道徳的なことである」

という西欧の近代文明側の信念があり、

「劣等人種を絶滅させるのは、強い人種の権利」であるという暗黙の了解があったから。

 

これについては、1902年に刊行された、ジョゼフ・コンラッドの『闇の奥』を読むことを勧めます。コッポラの映画「地獄の黙示録」の原作になった小説です。

 

そこには、「すべての野蛮人を根絶やしにせよ」という、19世紀末の欧米社会が共有していた声が渦巻いている。

 

ここで、GAZAに思いは飛びます。

コリアン・ディアスポラチェチェンディアスポラも数多の「野蛮人虐殺」も「闇の奥」での出来事だったはずなのに、いまやこの世界そのものが「闇の奥」のよう。世界中が見ているなかでジェノサイドが進行してゆく。

 

すみずみまで理不尽な死が染みわたっている、そんな世界では、文学を読む書くという体験もおのずと変わってくるはず。

文学が、人間にとって、生きること死ぬこと、つまりは命をめぐる問いとしてそこにあるとすれば。

 

<2>「おまえはどんな罪を犯して砂漠に捨てられたんだ?」

韓国文学の中のディアスポラ:キム・スム『さすらう地』  

キム・ヨンス『七年の最後』

 

 さて、コリアン・ディアスポラの話に戻りましょうか。

 ここ数年で、韓国では、高麗人をテーマとしたり、高麗人の歴史に触れる素晴らしい小説作品が書かれています。

 

一つは、『さすらう地』。もう一つは『七年の最後』。

『さすらう地』は、、一九三七年秋の強制移送の貨車の中という「闇の奥」からやってきた書です。私たちに突きつけられた「問いの書」と言ってもいい。貨車でどことも知れぬ追放の地に運ばれてゆく人々の、いのちの行方を問う声が渦巻いている。

たとえば、真っ暗な貨車の中の小さなミーチカのこんな問い。

 

「ママ、ぼくも人間なの?」

思わずこぼれでたこの問いに答える言葉を、おそらくこの世界はいまだに持っていない。

分別のある大人ならば、何かを恐れてけっして口にはしない素朴で根源的な問いを、小さなミーチカは恐れを知らずに口にします。

 

「ママ、ぼくたち〝るろうのたみ〟になるの?」

そうだよ、私たちは今も昔も、一番信じちゃいけない連中を繰り返し信じては、繰り返し〝流浪の民〟になるんだろうね。ミーチカに苦い声でそう答える私がいます。

もちろん、問いを突きつけてくるのは、小さなミーチカだけではない。

沿海州朝鮮人たちが、命のほかはほとんどすべてをあとに残して、ごっそり積み込まれた貨車。命そのものがむき出しの状態の人間たちのあらゆる臭いが立ちこめている。そんな闇の世界から次から次へと問いがやってくるんです。

 

「ここはどこです」(誰にもわかりません)

スターリンはいったい、われわれ朝鮮人にどうしてこんなにむごい仕打ちをするんでしょうか?」(誰にもわかりません)

「あなたはどうして腹をたてないんです」(私にはわかりません)

さすらう地。さすらう闇。さすらう人々。そこから漏れ出る、その多くは誰が発したのかもわからない闇の中の問いに耳を澄ませるうちに、やがていやでも気がつきます。これは彼らだけの問いではない。生きがたいこの世に生きるわれらの問いでもあるのだと。

 

あらためて、いま考えています。なぜ、朝鮮人中央アジアカザフスタン強制移住させられたのか。

 

私たちはこの問いに向き合うとき、合理的な理由を追求するよりも、考えるべきは、

近代国家は「命」をどう扱うのか

という一点に尽きるのではないかと私は思っています。

 

ええ、もちろん私も知っています。日中戦争勃発直後のきなくさい極東に日本のスパイになる恐れのある朝鮮人を置いておくわけにはいかない、ということが強制移住の最大の理由とされてきたことを。一見、とても分かりやすい説明ではあります。

いや、でも、本当にそうなのか? 

 

「おまえはどんな罪を犯して砂漠に捨てられたんだ?」

 

この問いに答えられるのは、捨てられた者ではなく、捨てた者だけでしょう。

誰を罪人と名指すのか、誰をテロリストと名指すのか、誰を人民の敵と名指すのか、それを決めることのできる者が、この世界を動かしている。ディアスポラの荒野に立って見えるのは、そういう世界です。

 

ほんとは、そんなことはみんな分かっているんでしょう。けれど、人間には分別というものがあるから、そう簡単には本当のことは口にしない。心底恐ろしいことは、絶対に口にしない。

 

「いつかロシア人もここから追い出されるはずよ。スターリンはロシア人にも容赦しないから」(ロシア人アレクサンドラ)

「あんたたちまで追い出されたら、ここには誰が残るの?」朝鮮人クムシル)

「家畜と軍人だけが残るだろうね」(アレクサンドラ)

残るのは従順な奴隷とその支配者だけ。そう言い換えてもいいかもしれませんね。思うにそれは主義とか体制とか時代とかを超越したこの世界の真理ですね。

 

さて、貨車につめこまれての長きにわたる追放の旅の終着地は、カザフスタンの荒野でした。

 

「一九三七年十月、カザフスタンの荒野に放り出されたあの日、私たちは、真ん中に子どもと老人、そのまわりに女たち、そして最後に男たちが包み込むようにして覆いかぶさり、人間の山を作って、厳しい夜の寒さに耐えた。翌朝、カザフ人が荒野に突然現れた人間の山にひどく驚いていたけれど、彼らが私たちを助けてくれた」

 

 これは、私が2000年にカザフスタンの高麗人から聞いた話です。

そして、キム・ヨンスの『七年の最後』。彼は、幼い頃に強制移住を経験した女性が、父から聞いたというカザフスタンの荒野の駅に放り捨てられた日の記憶を、こんなふうに書いている。

 

(捨てられた人々が泣いている、そんな状況の中、草原の彼方から鈴の音が聞こえてくる。)

 

「そこで生きていくためには、草原をありのままに受け入れなければならなかった。ありのまま。それは過酷さと豊かさが同じ状態であると理解することだった。その日、沿海州から中央アジアまで追われてきた韓人の前に現れたのが、まさにそういう人たち――カザフの女たちだった。彼女たちは、東方から貨車に乗せられてきた正体不明の民族が荒野に捨てられたという噂を聞き、パンを焼き始めた。そしてそのパンが冷めないよう毛布に包んでロバに積み、一度も会ったことのない人々のところに運んだ。韓人たちが泣きながらそのパンを食べている間、カザフの女たちも一緒に泣いた」

 

『七年の最後』という小説の主人公は、命は権力に奉仕するものでしかなく、そこでは権力者の想像力しか許されない世界に生きる詩人白石です。(あるいは、主人公は詩そのものと言ってもいいかもしれない)。

 そこでは、権力が都合よく記憶を書き換え、無用の記憶を塗りつぶし、過去‐現在‐未来のつながりも、物語の文脈も切断し、行間の声を消すことを文学に求める。必要なのは、権力の声だけ。つまりは、そこは文学の死を求める世界であって、そんな世界で詩人白石はいかに生きたか、詩はいかに生き抜いたか、ということを書いた小説です。

そして、詩人はついに書かないことで詩を守り抜く。自身が詩そのものとなって、詩を書かずに生きつづける。

 

『七年の最後』の訳者解説に、カザフの女たちの存在が作家に与えた大きなヒントのことが語られています。

 

「彼女たちには、たとえ圧倒的な暴力によって日常が崩壊し死の恐怖が迫っても、ともに生きていこうという思いが感じられ、またそこには新たな共同体がつくられる可能性も潜んでいる。もしかしたら人間にはそういう力があるのではないかと、ならばその力を信じなければいけない」。

 

そう、作家キム・ヨンスは語ったという。

ここには、とても大事なメッセージがあります。

 

 文学には人間を信じつづける力がある。小さな声を聴く力がある。今ここに在る現実とは異なる想像力でさまざまに引かれた分断線を乗り越える力があるのだと。

それは人間を貧しい想像力で人間を囲い込み、分断線を引いて人間をチリヂリバラバラにし、今ここしかない現実に人間を縛りつける権力とは相いれないものでしょう。

 

                    

<3>パレスチナ 朝鮮 二つの1948年を想う

  「私は忘れない。世界が忘れてもこの私からは忘れさせない」 金時鐘

 

 

さて、ここで、いまいちど私はガザを想い起こします。

パレスチナの民のディアスポラ、そしてジェノサイドは、1948年のイスラエル建国に始まりました。土地を奪われ、追放され、囲い込まれ、殺されつづけてきた80年近い歳月。

 

(「おなまえ かいて」を聴く)

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同じく1948年に、米ソの思惑で分断され、分断に抗う民が殺されていった朝鮮半島のことも想い起こします。ガザのように逃げ場のない島で、米国の手下に過ぎない者たちによってアカ狩りの名目で引き起こされたジェノサイド、済州4・3を想い起こします。

 

この時代に済州から密航してきた詩人金時鐘を想い起こします。

 

いま私は不用意に「密航」と言いましたが、この分断とジェノサイドの時期に朝鮮から日本へと逃れてきた者たちは、実のところ、植民地主義が作りだした闇からのディアスポラ、「難民」、もしくは「亡命者」と呼ぶべき存在です。

 

金時鐘について、あえて密航という言葉を使うならば、過去の記憶をどんどん喪失してゆく日本語世界へと密航して、異なる想像力、異なる抒情をもって、日本語世界には刻まれていない命の記憶を、日本語世界に書き込んでいった文学の徒であり、詩人であると言ってもよい。

 

あるいは、済州4・3を引き起こし、その記憶を消す者たちに「問い」を突きつけつづける詩人でもある。

 

白石と同様、権力に奉仕する歌を強要され、10年という年月を沈黙しつづけた詩人でもある。

 

彼は言います。

「私は忘れない。世界が忘れてもこの私からは忘れさせない」

 

済州4・3と同様、韓国の実質的な植民宗主国米国の黙認のもとに引き起こされた光州の無数の非業の死を、詩人金時鐘は歌います。

 

 非業の死がおおわれてだけあるのなら

 大地はもはや祖国ではない。

 

歌はこの2行で始まり、けっして忘れてはならぬ者たちをこの世から忘れさせまいとする言葉を紡ぎます。

 

 浮かばれぬ死は

 ただようてこそおびえとなる。

 落ちくぼんだ眼窩に巣食った恨み

 冤鬼となって国をあふれよ。

 記憶される記憶があるかぎり

 ああ記憶があるかぎり

 くつがえしようのない反証は深い記憶のなかのもの。

 閉じる眼のない死者の声だ。

 葬るな人よ、

 冥福を祈るな。

 

これは、死者とともに生きようとする者の歌/詩。

死者なき文学は、魂のない言葉の群れに過ぎないものです。

 

『さすらう地』では、真っ暗闇の貨車の中で、大きな力で口を塞がれている人々は耳の聞こえぬ“歌うたい”に、

「あなた、歌をうたってください」

と、何度もお願いします。耳が聞こえないからこそ、千里も万里も先の声を聞くことができる、きっと死者たちの声も聴くことができる。そんな〝歌うたい〟の声は、千里、万里を越えて響きわたる。

そうやって、恐怖に口を閉ざした人びとの震える心も、愛する者を想う心も、奪われた故郷を懐かしむ心も、生きようと奮い立つ心も、歌が運ぶ。

 

思うに、私が中央アジアを旅したのも、そんな〝歌うたい〟たちがいたからこそ。

そうして歌いつがれてきた「故国山川/ノスタルギーヤ」を、遠く離れた日本で耳にしたからなのです。

 だから私も、あの貨車の中の人々のように、闇を生きる者のように、

「歌をうたってください」

高麗人に会うたびに、そう言いました。

今日、聴いていただいた歌は、そうやって記憶にとどめられた歌です。

 

歌うこと。

人々を分断し、人間と獣に仕分けして、目も耳も口も塞いで声と命を奪い取ってゆく者たちへの、絶えることのないひそかな闘い。

あるいは、じっと黙して、強いられた歌をけっして歌わぬこと。沈黙の歌もあるのだということ。

誰の耳にも聴こえる圧倒的に大きな声の歌だけが、歌なのではないということ。それはむしろ暴力なのだということ。

 

ディアスポラたちのひそかな歌と声を追いかけて旅をした私が、旅の中で学んだことはシンプルです。

ひそかな歌を聴け、封じられた声を聞け、放り捨てられた命を想え。

そんな精神的営みのなかから、共に生き、共に死ぬに値する文学もまた生まれくるのでしょう。

 

『いつか、この世界で起こっていたこと』(2012 黒川創)

黒川さん、チェホフが好きだけど、チェホフ好きな自分がいやなのかな。

詩人アンナ・アフマートヴァみたいに。

 

私もチェホフは好きです。「曠野」とか「学生」とか、とても好きです。

 

たとえば、「学生」。

実家のある田舎の村に帰ってきている神学生イワンは、焚き火のそばにたたずんでいる顔見知りの村の女ワシリーサに話しかける。

「ちょうどこんなふうに、あの寒い夜に使徒ペテロは焚き火に当たって暖をとっていたんだろうね」「その時も寒かったわけだ。なんとおそろしい夜だったろう! どうしようもなく気が滅入る長い夜だった!」

そして、学生はペテロの三回の裏切りの話をはじめる。

最後の晩餐でペテロはイエスにこう言われる。「あなたは今日、鶏が鳴くまでに、三度わたしを知らないと言うだろう」と。ユダに売られて、大祭司のもとに連行されたイエスの後を追ったペテロは、中庭の焚き火に当たりながらイエスを一途に思っている。ところが、共に焚き火に当たっている人々に、イエスの弟子だろうと三度尋ねられ、三度「わたしはあの人を知らない」と答えてしまうのだと。「そしてペテロは外に出て、激しく泣いた」。そう学生は語った。

そのとき、話を聞いていたワシリーサの頬を大粒の涙が流れる。

 

焚き火がある。1900年前のペテロとおなじように、焚き火に当たるワシリーサがいる。ペテロの身に起きたことに、きっと何か思い当たる節のあるワシリーサが、いまペテロを想って泣いている。

「千九百年も前の出来事が現在とつながりを持っている。(中略)つまりこの二人にも、いや、おそらく、この荒野の村にも、彼自身にも、あらゆる人々にも関係しているのだ。」

「過去というものは、次から次へと起きる出来事の途切れることのない連鎖によって、しっかりと現在と結び合わされている」

「そして、自分はたった今その両端を目にしたような気がする。一方の端がふるえると、もう一方の端がぴくりとふるえたのだ」

 

この「ぴくりとふるえる」感じ。つながって、関係して、連鎖している感じ。

それが、『いつか、この世界で起っていたこと』に収められている短編のすべてにある。

 

 

そして、チェホフが好きで嫌いな、アンナ・アフマートヴァの流儀も全編にある。

監獄の前に並ぶ女たちには、顔がない。感情を表に出すことで、国家権力からそこに不穏な意味を読みとられることを恐れて、仮面をかぶったような沈黙の集団となる。

ある日、列のなかで、一人の女が影のように近づき、アフマートヴァの耳もとでささやいた。

「あなたはこのありさまが書けますか?」

詩人は、

「できます」

と答えた。

すると、かつてその女の顔であった仮面の上を、微笑のようなものがかすめた。

                       (「チェホフの学校)より)

 

 

「泣く男」のラストもいい。 

大統領(ニクソン)は、彼(エルヴィス)を持てあましてしまった様子で、なかば逃げ腰に、こう言っている。

「なんだか変わった服装ですね?」

エルヴィスは答える。

「あなたにはあなたのショーが、私には私のショーがあるんです」

 

チェホフ+アフマートヴァ。

『三人姉妹』のような関節外しはない。

オリガが祈りを込めて、

「時が経って私たちが永久にこの世をあとにすれば、私たちのことは忘れ去られてしまうんだわ。でも、私たちが味わったこの苦しみは、私たちのあとから生まれてくる人たちの歓びに変わっていき、やがてこの地上に仕合せと平安が訪れるの。そのときには人々は今生きている私たちのことを感謝をこめて思い出し、きっと祝福してくださるわ。(中略)もう少し経てば、私たちが生きてきた意味も、苦しんできた意味もきっと分かるはず……」

その言葉への応答として呟かれる声が

軍医チェブトゥイキンのこの言葉

「どうでもいいさ! どうでもいいさ!」

 

黒川創は、おそらく、けっして「どうでもいいさ!」とは言わない人だと思う。

歌集『月陰山(タルムサン)』(1942)尹徳祚のこと

歌集『月陰山』。

これは、植民地において最初に朝鮮人によって編まれた歌集。

尹徳祚は、2024年刊の『密航のち洗濯 ときどき作家』が基にした日記の主である尹紫遠と同一人物。

 

戦後、生きる術を求めて日本に密航してきた尹紫遠は歌を詠むことはなかった。

ひたすら小説を書こうとした。

植民地期末期、まだ解放の日が訪れることも、解放が悪夢になることも知らなかった尹徳祚は、こう書いている。

私は、ひそかに短歌の世界に自分の生命の絶対地を求めようとした。これによって、打ちひしがれたような自分の魂に安住の地を与えようとした。狭量で、疑い深く、然も何ものかにおびえて、常におどおどしている自分の魂の済度を見出そうとした。

 

しらじらと明けゆく海よ遠かすむ果ての山は月陰山か

 

世をさけて月陰山のふもとなる院里のはづれに住める兄かも

 

客死せしその友の父と語れどもつひに客死のことには触れず

 

深渓にわく水見れば人の世の興亡治乱も忘るべきなり

 

逝くものは逝かせてしまひて静かにも夏を迎ふるふるさとの江

 

■月陰 という山の名に漂う世の果ての気配。ふるさと朝鮮のイメージ。

ここでの静かな諦念は、密航後の尹徳祚にはもうないようにも感ぜられる。

 

(日本は)それでも今の朝鮮よりマシかも知れない。乞食とドロ棒ばかりがふえてゆく朝鮮。民衆の生活とはエンもゆかりも無い政治。(……)彼(李承晩)が支配するかぎり、南朝鮮に自由や希望や発展なんかあるもんか。考えてみれば李承晩ばかりでじゃない。きのうまで<日本人>になり切っていた奴らが、今ではアメ公になろうと目を皿のようにしている。そうして、そういう奴らが社会の重要な地位にのさばり返っていることも事実だ。だが、しかしだ。だからと言ってこのおれは日本へ密航していいのだろうか。(尹紫遠『密航者の群れ』より)

 

諦念に安住することすらできない、混乱の、宙づりの世界から、いったいどこに密航しようというのか。

日本への密航は、完結することない密航のようでもあり、そこで尹は歌を詠まない。

そんなことをつらつらと考える。

あらためて、金時鐘の短歌の抒情批判を想い起こしつつ。

 

尹徳祚の歌が、たとえ日本的抒情とは異なるとしても、もはやあてのない密航を生きる尹徳祚あらため尹紫遠には、歌うべき抒情を見つけかねたようにも思える。

 

 

 

 

 

2024年2月18日 パレスチナ連帯散歩 by 百年芸能祭関西実行委員会

団体行動が苦手、人がたくさんいるところが苦手、

でも、家でひとりでできることをするだけでは、もう耐えられない、

耐えられずに、街に出て、もう耐えられないぞと、誰かれなく囁きかける、

そんな〝パレスチナ連帯/植民地主義にもジェノサイドにもサヨナラ/ふざけるな/殺すな゛ぶらぶら散歩をすることにしました。

 

類友である百年芸能祭関西実行委員会の友人たちも、

やはり耐えかねて、一緒にぶらぶら散歩をすることになりました。

 

一緒にぶらぶらしますが、ルールはないし、みんな気ままで、つるまない。

 

どこをぶらぶらしようか?

天神橋筋6丁目商店街(略して天六。ここはすごく長い)がいい。

駅前から好き好きに店を覗いたり、立ち止まったり、立ち話ししたり、

最終的に扇町公園を集合地としよう。

公園は親子連れが多いはず、フラッシュモブして音楽奏でて歌って、さささーっと消えようか。

くらいの決めごとをして、歩きだしたのでした。

めざすは、日常の中にゆるゆる分け入る連帯行動、です。
われらが昨年から立ち上げた百年芸能祭の流儀そのままの振舞です。

 

さて、私は奈良のわが家を出たところから、連帯ぶらぶらを開始。

 

 

 

2月18日午前11時 

天神筋橋六丁目駅前に集まったのは8名。
さあ、散歩が始まります

 

パレスチナ連帯散歩 全編】

これ20分と長いから、この映像から抜いた「扇町公園編」と「マレビトと共に祈る編」も「全編映像」の下に貼りつけます。

 

駅前から歩きだして、五匹のネコさんたちにいきなり捕まったり、

ネパールの服やら雑貨屋やら仏具やら楽器やらが置いてある店を覗いたり、

BIG ISSUEの販売員のおっちゃんと語らったりするうちに、

一同、三々五々、扇町公園にたどりつくわけです。

 

扇町公園では、連帯散歩の連れの一人、はぐれ山伏八太夫の法螺貝の音を合図に、

親子連れのみなさんに向けての、メドレーのはじまりはじまり!

youtu.be

変な人たちが、変なことをしているなぁ、みたいな空気も確かにありました。

いや、いいんですよ、もともとこの世のはずれで生きているようなものですから、私も、散歩仲間も。

今日は妙な人たちが、ガザだとか、パレスチナだとか書かれたゼッケンみたいのを胸や背中に貼りつけて、♪♪アンアンアンパンマン♪♪と叫んでたとか、どんな形であれ記憶に残れば、何かの拍子に思い出したり、ふとガザに思いを馳せることもあるでしょう。

 

そうそう、散歩仲間のなかにはマレビトもいたのでした。

マレビトは声もなく踊りますが、その踊り自体が声を放っています。

マレビトが踊り出すと、おのずと散歩仲間のピアノ弾きがアコーディオンでロマの旋律を奏ではじめました。山伏が法螺貝を吹きはじめました。地を這う踊りは、地を這う祈りです。私たちは祈りました。公園もきっと祈ったことでしょう。

いきなり、いつもの公園とは違う風が吹いて、小さな少女がひとり、マレビトが怖いと泣きました。ごめんね、女の子ちゃん。

 

youtu.be

 

団体行動が苦手、人がたくさんいるところが苦手、

同じ言葉をみんなで同じリズムで叫んだりすることが苦手、

同じリズムで足並み揃えて行進したりするのが苦手、

そんなはぐれ者たちでも、もうとても耐えられない、

と、街に出て行くこともあるのです。

2024年2月18日はそんな一日でした。

 

この日、慣れないことをした私は、家に帰り着くなり、ベッドに倒れ込み、死んだように眠りました。

夢の中でも、私はぶらぶら歩いていました。

夢の中でも、そうやって祈っているようでした。

 

yuyantan-books.jimdofree.com

旗のない文学――朝鮮 / 「日本語」文学が生まれた場所 

面白いな。

金達寿ら横須賀在の朝鮮人たちは、解放後すぐに旗を作ろうとして、太極旗の四隅の「卦」がわからなくて、それを覚えている古老を探しまわったのだという。

 

植民地の民に、旗なんかなかったんだね、朝鮮人の文学も日の丸以外の旗なんか立てようがなかっただね、

 

で、「そもそも、文学とは「旗」のようなものではなかった」と黒川創は言う。

そして、「緑旗連盟」と題された、実は旗なんかどこにもない植民地の民の小説について黒川創は語りはじめる。

うまいなぁ、この展開。

 

(その一方で、国家に抗する黒い「怨」の旗を掲げた石牟礼道子を私は思い起こす。それはそれとして、)

 

旗を立てる文学を強要された時代の書き手、とりわけ植民地の書き手の、

旗を立てたふりをしつつ、実は旗を降ろした文学、という困難な試みがあるわけで……

 

それは「転向」の問題にもつながる。

 

例えば、李石薫。

黒川創いわく、

「日本支配に同調したが、彼のなかでは、絶えずもう一つの霊がささやく。李は、その小さな声に耳をふさがず、記録しようとする作家だった」

 

あからさまに旗が立つ「短歌」のようなジャンルは?

その問いの背景には、小野十三郎、そして金時鐘が徹底的に批判した短歌的抒情がある。

 

現在ではハイク(俳句)は国境を越えて、アメリカ大陸やヨーロッパのさまざまな言語や生活史をもつ人々に受けとりなおされ、抒情や詩型のありよう自体も変えてきた。同じように、短歌にも転生を遂げる道筋はないのか。(黒川創

 

大道寺将司の俳句を、ふと思う。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

サハリンの日本語文学 李恢成 /「日本語」の文学が生まれた場所

 

 

植民地支配という近代日本の負債を通して、サハリン(樺太)の日本語文学は、非日本人の作家・李恢成へと引きつがれた。

 

黒川創は書く。なるほど、確かにそうかもしれない。

 

1981年にサハリンを訪れた李恢成は、現地で会った師範大学で経済学を教える朝鮮族の教授が、東北弁をベースにした日本語を話したと書いている。

 

それを受けて、黒川創はさらにこう書く。

いまはもうない場所の言葉、いまではほかに誰も使っていない言葉を、サハリンで日本国籍からソ連籍になった朝鮮民族の一人が、使っている、李恢成の文学の日本語は、こうした言葉と歴史の堆積を、背景に持つ。

 

この逸話に、南ロシアのロストフで2004年に出会ったサハリン韓人夫婦の日本語を私は思い出した。彼らの話す日本語は、たとえて言うなら、夫は笠智衆、妻は原節子。小津映画に登場するような日本語の使い手だった。

それを聞いて、ああ、昭和の日本語……という感慨を抱いたのだった。

彼らは子どもの頃、サハリンの国民学校に通っていた少国民だった。

両親は彼らのようには日本語を話せなかったという。

この夫婦は、文部省唱歌「ふるさと」を歌い、彼らにとっての故郷サハリン、故郷日本を懐かしんだ。

 

この夫婦と出会ったことがきっかけとなって、私もサハリンを旅した。

残留韓人を訪ねた、残留日本人も訪ねた、炭鉱も訪ねた、ウィルタも訪ねた。

基本的に国民学校で日本語を学んだ世代の日本語は、南ロシアで出会った夫婦と変わらないものだった。もちろん、李恢成が出会ったような東北弁ベースの人々もいた。それはやはり東北ルーツの人々の暮らしの言葉として伝承されてきたもの。

思い返せば、サハリンの日本語世界も、極私的なものから、公的なものまで、さまざまな階層があったのだということに、気づかされる。

そして、教育によって日本語を身につけた植民地の民の日本語は、ほぼその時代の標準語なのだということ、根なしの日本語なのだということも、忘れずにおきたい。

 

 

 

 

 

 

 

 

「日本語」の文学が生まれた場所 をめぐって

植民地空間に生まれた「日本語文学」は、

やがて、それが、「皇民」か否か、国家に益あるものか否かが問われ始める。

政治権力と文学の関わりのなかで、収まりどころのない宙ぶらりんの意識が、

生みだす文学がある。

 

言いかえるならば、国家と結びついた確固たるアイデンティティが求められる状況の中で、揺らぐアイデンティティによって紡ぎだされた境界上の文学があった。

 

戦時中の台湾の「皇民文学」をめぐって、黒川創はこう語る。

戦争の下でこれら(皇民文学)を書いているのは、周金波がそのとき満21歳、王昶雄が27歳と、時代に早熟を強いられた作家たちである。周金波が、自分たちの世代の文学のありようとして読んだ”皇民文学”とは、このように極端なまでに加圧された空間のなかで営まれる創作の行為全般を、その当否を問わずに指すものである。

 

文学に国境が生まれ、どの国境にも収まりがつかない文学が生まれる。

饒舌の下に沈黙を隠す二枚舌の文学が生まれる。

完全なる沈黙によって、生き方そのものを文学とする者も現れる。

 

そして、そのような揺らぐ存在や、彼らが生みだした文学は、国家の枠の中では容易に忘れられもする、ということも黒川創は語る。

日本の植民地統治下で活動していた台湾、朝鮮、満洲など、それぞれの現地人の作家らのことどもを、私たちは、ときに自発的に忘れる。そのことが、かつてそこにあった事実を私たちの目から隠してしまう。それも、また、「恥ずかしい」ことではないか。べつの見方をすれば、忘却の自発性のなかにも、政治権力の働きはあるということだろう。

 

そして、その中にあって、「忘れない」という抗い方もある。

たとえば中野重治。彼を忘れたがらない作家、と黒川創は評する。

中野は朝鮮における収奪の当事者であった父親のことを自伝的小説『梨の花』に書く。

(このことを黒川創の記述によって教えられた私は、かつてわが父の書棚にあったけれども、私が読むことのなかった『梨の花』の、あの白い花が描かれた表紙を想い起こした。朝鮮を知らぬ在日二世の父は、この本をどのような思いで読んだのか……)

 

 

自発的に忘れる世界、政治権力の圧がある世界で、特に何も気にすることなく文学に携わった日本近代の多くの文学者の中で、

漱石こそが、むろん、この世間では、狂気なのである」

黒川創

 

明治国家が下賜した文学博士号を拒否し、大逆事件後の文教政策として考えつかれた文芸委員(文芸院)という国家制度に辛辣に噛みついたという、漱石の狂気に注目。

(鴎外は国家百年の計の啓蒙の人ですからね)

 

 

ただ、いずれにせよ、文学が近代国家の枠の中で鍛え上げていった言葉は、風土とは切り離された標準語的な言葉であることは忘れずにいたい。

国家と言語が結びついていなかった世界があり、風土と結びついた声があり、言葉があり、無数の語りがあったことを忘れまい。

中央集権の圧倒的な政治権力との葛藤を抱えこんだ「文学」とは異なる、苦悩・葛藤・心情から紡ぎだされる小さな声の「語り」を想い起こしたい。

国家という枠はあまりに狭量だ。

 

 

日本語が生まれた場所、日本人が生まれた場所について、

文学が生まれた場所と合わせて、考えること。