2024年3月31日 十和田に明山応義画伯のアトリエを訪ねた

 

壁いっぱいに「野火」シリーズの一枚が。

 

 

 

 

 

野火を背にした少年のこの眼差しを見よ。

 

少年は英字新聞を尻に敷いている。

 

画家が若かりし頃に訪ねた旧植民地アルジェリアでは、ヨーロッパへと向かうべく、無数の民が鉄道駅に、新聞を地面に敷いたり、新聞をかぶったりして、横たわったり、座り込んだりしていたという。

 

しかし、画家はなぜフランスの旧植民地を訪ねたのか?

 

24歳だった。その頃はまだ画家を志す青年だった。人生をかけて青森・十和田からパリへと向かった青年は、モンパルナスの丘のふもとの移民街に暮らし、旧植民地出身のムスリムたちと親しくなった。

そして、彼らがあとにしてきた地を無性に訪ねたくなって旅立つ。

アルジェリアサハラ砂漠……、

そこで、胸に刻み込まれたのが、新聞紙に身を包んで出発を待つ移民難民たちの姿だった。

 

「野火を背にして、明日の世界を睨みようにして眼差すこの少年は、自分自身だ」と、今では79歳になる画家が言う。

 

絵の中の少年が尻に敷いている英字新聞。これは三沢基地から持ってきた新聞をそのまま描いたもものだという。

 

背後の野火は、画家が訪ねていったシベリアの激しい森林火災の業火。画家はその目で森林火災を見たのだという。

 

画家はそれ以上のことは語らなかったが、

絵を見る私は、旧植民地ー移民難民ー米軍基地の英字新聞ー野火といった言葉が喚起する、燃え上がる火に包み込まれているかのような「今この世界の物語」と、その世界から新しい世界へと、必死の旅路に身を投じんとする「少年の物語」を思わず想い描いている。

 

 

もう一枚、画集で見つけた印象的な絵。

これは画家が描いた母親。

タイトルは「遠い日・夏」

 

画家は旧植民地出身の在日二世。

母が死ぬほど働いて、子どもらを育て、家を支えた姿をずっと見ていた。

その母に家を建ててやりたいと、どんな仕事も厭わずに死に物狂いで働いて貯めたお金で、24歳で母の家を建てたのだという。

そして、次は自分のこと。

他の兄弟のように勉強ができるわけでもなく、なんのとりえもない自分がただ一つ、子どもの頃から得意だったのは絵を描くこと。

そうだ、画家になろう。

迷わずにそう決心したのだという。

もし画家になれなくとも、24歳までにどんな仕事でもやりぬいてきた自分なんだから、何をしても生きていけるという自信があった。

だから、迷わず、画家になろう、絵を描こうと決心した。

そして、まだ何者でもなかった青年は、妻子を十和田に残して、パリに向かったのだった。

 

 

 

パリから、フランス旧植民地へと砂漠へと、果てへ果てへと旅をして、そこで明日への旅の厳しい出発点に立つ者たちに出会って、画家が最初に描いたのが、この絵なのだと聞いた。

 

 

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秋田 大館市花岡に行ってきた。中国人虐殺の記憶をたどって。

青森十和田から奥入瀬渓流沿いの道を走って、大館へ。

 

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山腹に「大」の字。

大館の大文字は昭和に始まったもので、歴史は新しい。

 

 

 

太平洋戦争中の1944年、

軍需物資である銅増産のため、藤田組の花岡鉱山のインフラ整備(鉱滓堆積場整備工事/堤防建設・排水暗渠工事、山腹水路工事)を鹿島組が請け負った。

 

鹿島組は、厚生省に華人労務者斡旋申請書」を提出し、

1944年8月(294名)、1945年5月(589名)、6月(98名)の中国人が花岡に連行されてきた。

 

この中国人たちは、戦争捕虜、もしくは拉致されてきた農民。

洛陽・西工収容所、石家庄・石門俘虜収容所、北京・西苑収容所、済南・新華院、青島収容所等から、日本へと送られた。

 

送りだしたのは華北労工協会」

華北の労働力を華北満洲に調整配分すること、賃金の統制、俘虜の輸送手配など、華北の労働を一元的に統制する機関であり、興亜院華北連絡部(日本内閣直属機関)の指導下にあった。

 

この華北労工協会が、日本への中国人強制連行の89パーセントを担ったという。

 

1942年1月1日をもって華北の中国人俘虜(戦争俘虜および拉致した農民など)を一人当たり35円で売ることに決定したと、

華北労工協会は「満洲」の日本企業に通知していたともいう。

 

まさに奴隷売買。

 

そして、内務省が花岡鉱業所の中国人の扱いついて出した指示は、

「濡れたタオルの水が一滴もなくなる迄もしぼる方針を取れ」

 

①粗末な穴倉式仮小屋が華労の性格に適する。

華人労働者は露店生活する者が多いから、4枚も布団を支給するのは多すぎる

華人は麦粉が主食で、より下級な食料を摂っているから、麦粉22キロ(中国人労働者総数/1日)の支給は贅沢すぎる。

 

このような状況の中で、殺されるくらいなら立ち上がろうと、

1945年6月30日に中国人労働者が決起し、逃亡を図った。

しかし、逃げきれずに捕まった中国人たちは、縛られたまま三日三晩炎天下の中を、花岡の芝居小屋共楽館の前に置かれ、拷問され、そして、7月7日、13人の中国人が秋田刑務所に収容される。

 

一方、

鹿島組関係者が、戦犯容疑で米軍により秋田刑務所に収容されたのは、

敗戦後の10月15日以降のこと。

 

 

花岡に連行されてきた中国人986名。

花岡で殺された中国人は419名。

 

 

 

花岡平和祈念館

この日(2024年3月31日)は、みぞれ混じりの雨模様。寒い。

 

 

亡くなった方々の名札。

 

 

 

花岡鉱業所 共楽館前に縛られて放り出された中国人
共楽館内での拷問の光景

 

1949年11月1日、鹿島建設が、信正寺裏の畑の地下に納骨堂設置。

その上に追悼供養塔建立。

 

1950年7月1日 山本常松花岡町長が個人の資格で施主となり、供養塔前で慰霊。

ここで大事なのは――、

◆花岡鉱業所で働いていた朝鮮人たちが、1949年の夏と秋に中国人の遺骨調査をしていたこと。

◆1949年10月1日に中華人民共和国が成立していたこと。

◆中国人労働者の慰霊が、親共産主義的な行為とされる空気が醸成されつつあったこと。

 

そのなかで、町長が個人の資格で始めた慰霊祭は、花岡町による慰霊祭として続けられ、現在では大館市主催の慰霊祭となっている。

町村合併の際も、花岡町側からは行政による慰霊祭の継続が条件として付けられていたのだった。

 

 

信正寺

この寺の住職が、町長と親しかったという。

 

 

信正寺裏 慰霊塔(鹿島建設建立) 新しいものと古いものと

 

 

信正寺住職による、供養塔保存改修の記

これを読む限り、当時の住職が中国人犠牲者の供養に心を砕き、鹿島建設にこれを建立させたことがうかがえる。

 

 

高秉權(コ・ビョングォン)『黙々  聞かれなかった声とともに歩く哲学』(明石書店) メモ

高秉權。この韓国の哲学者が書くものは、とても好き。


哲学・思想がこの人の体をくぐり抜けると、社会を底から変えてゆく実践と結びついてゆく。
小さな声を封じることで成り立つ近代社会を支える人文学ではなく、変革の人文学が見えてくる。

     

『黙々」は、1993年に設立された障害者夜間学校 ノドゥル夜学の話から始まる。
ノンステップバスなどない。街はバリアだらけ。どこもかしこも介助をお願いしなくては移動ができない。学生たちが夜学に来るには大変な労力と時間が必要だった時代。

 

1999年に一人の学生が地下鉄の車イスリフトから転落する事故が起きる。これをきっかけにノドゥル夜学は移動権の保障を求めて闘争に入る。バスの行く手を塞ぎ、線路に体を縛り付けて。

 

社会そのものを障碍者の方へと移動させる。
社会全体を新しく学ばせる。

「学生になるためにはまず闘士にならなければならない。」
おのずと打ち立てられたノドゥル夜学の精神。

高秉權は、このノドゥル夜学で、一見すぐには何の役にも立たなそうな人文学の講座を持つ。
(そもそも{~のために}という発想が人文学を閉じたものにしてきた)

哲学者 高秉權は言う。
「生を諦めるのか、生きぬくのか。わたしは人文学の勉強の領域はここにあると考える。どのようにであれ生きぬかなければならない。それも「よく」生きぬかなければならないという自覚。生に対するそのような態度、そして姿勢のようなもののことだ」

この言葉とともに、高秉權はメキシコのチアバスの先住民女性の言葉を引く。
(これはノドゥル夜学のHPに掲げられていることばだそうだ)

そして、これもチアバスの実践から生まれた深遠な言葉。
   

「もしあなたがわたしたちを助けにここに来られたのであれば、あなたは時間を浪費しているのです。しかしもしあなたがここに来た理由が、あなたの解放が私の解放と緊密に結びつくからであるならば、ともに働いてみましょう。」

(チアバスの先住民の言葉)

 

『ハイファに戻って/太陽の男たち』ガッサーン・カナファーニー(河出文庫)

灼熱の砂漠を、車に積まれた鉄製の空の水タンクに潜んで、クウェイトへと密入国しようとする三人の男たち。密入国ブローカーに払えるような大きな金の持ち合わせはない。しかし、クウェイトで職にありついて生きのびたい。

三人の男たちは、車が検問所の手前から検問所を抜けるまでの数分間、タンクの中の業火のような熱地獄に耐えれば、その先に天国が待っている、はずだった。

運転手が検問所で係官の戯言に捕まって、無駄な時間を浪費することがなかったなら。

この運転手は宮刑のようにして男性機能を奪われたパレスチナ人で、

たまたまありついた金持ちの運転手の仕事のサイドビジネス密入国ブローカーもどきをしようとしたのであって、それでぼろ儲けをしようと思ったわけではない。

必死でクウェイトに脱出しようとする貧しい男たちを、運転手は運転手なりに必死に手伝ってやろうとしたというのに、

検問所の係官たちが、女遊びなどできない運転手に、そうとは知らずにいい女と遊んでいるらしいなと妙に絡んでくる理不尽、それが20分にもなれば、空の水タンクの中の男たちを蒸し殺しだ、声もなく、じりじりと砂漠の灼熱の太陽に焼き殺された太陽の男たち……

 

運転手は、死せる太陽の男たちを前にして、叫ぶんだよね、

「なぜおまえたちはタンクの壁を叩かなかったんだ。なぜ叫び声をあげなかったんだ。なぜだ」

すると、砂漠がいっせいに谺するんだよね。

「なぜおまえたちはタンクの壁を叩かなかったんだ。なぜ叫び声をあげなかったんだ。なぜだ。なぜだ。なぜだ」

 

カナファーニ―が文字として書いているのはここまで。

 

 

灼熱の砂漠の砂粒の一つ一つが、この世界で声もなく殺されゆく者たちのようであり、

そのひそかな叫び声のようであり、

そもそも私たちは既に空の水タンクに隠れて、新しい世界への脱出を夢みる存在でしかないようでもあり、

くだらないこと、ほんとうにくだらないことで、私たちの脱出は足をすくわれるばかりで、

でもきっと、私たちを破滅させるのは、金や女が大好きな連中なんだと、そんなあまりにばかばかしいことを絶望的に思いつつ、

 

みんなタンクの壁を叩け、叫べ、と私もついには叫ぶのでしょう。

灼熱の砂漠の砂粒たちよ、なぜだ、なぜだ、と世界中にその問いを響きわたらせろ、

と叫ぶほかないのでしょう。

砂粒の叫びを耳にした誰もが、なぜだ、なぜだ、と問いをつないで、世界中を「なぜ」で覆いつくして、転覆させるまで、叫び続けるんでしょう。

 

 

そうやって、叫んでいる間も、たとえばイスラエルにはイスラエルの、パレスチナにはパレスチナの、日本には日本の、沖縄には沖縄の、朝鮮には朝鮮の、アメリカにはアメリカの、それぞれの問題を体現しながら生きる者たちが次々と生まれ育ってゆき、しかもそれぞれの問題は、実は世界を覆う大きな問題、根本的な問題であって、すべてはつながっているというのに、人間たちは分断されている、そして、分断されている人間たちが過去にあとにした故郷は時と共に異郷となりかわり、人はもはや故郷は未来に作るほかなく、砂粒たちの叫びこそが未来の故郷の道標になるのだということを、忘れてはならない、と、おそらくガッサーン・カナファーニ―は死せるのちも叫びつづけているんですね、

なぜだ、なぜだ、なぜだ、と問いかけながら。

 

 

 

 

 

 

 

 

阿波根昌鴻『米軍と農民』  おまけのメモ 伊江島のヤマト由来の民謡 吉田(ゆしだ)  

吉 田   (本調子)〈伝承地:東江上・東江前・阿良〉
〔系統:会所踊い系<ヤマト。 踊の構成等:2人 二才踊い衣装。小道具:陣笠、扇をもって踊る 〕

 

一 吉田のおやじ兼好は アヤリクヌシー

 さわぐ浮き世に ただつりづり(徒然)と

 書いて 残せし文との心中ヤ

 ツィントゥン ツィントゥン ツィントゥテー

 トゥントゥテー トゥドゥントゥテー

 スーリースーリー イスリスリスリー

 ヤートウシーハララー

 

 

二 彼の源の頼光は アヤリクヌシー

 大江山路の鬼神の大将*     

 とらえて 見たきに立ち行く心中ヤ

 (以下 囃子は一番と同じ)

*「大江山なる鬼神の大将」と歌うところもある。

 

 

三 ゆぶしやぬずみはちぬずみは アヤリクヌシー

 くらま育ちの牛若丸を

 とらえて 見たきに立ち行く心中ヤ

 

 

吉田兼好源頼光酒呑童子、牛若丸!!

阿波根昌鴻『米軍と農民 ー沖縄県伊江島ー 』1973 岩波新書 その2 反骨について

たとえば抵抗する伊江島真謝の農民のひとり、石川清食は、戦前に、指を切って徴兵に抗った者だった。無言の抵抗。指がない理由をずっと言うことはなかった。

土地闘争のなかで、ベトナム戦争の兵役拒否の運動のことを知った者が石川清食のことを想い起こし、「うちの真謝にも偉い爺さんがいる」と言い出し、指を切って60年後に、石川清食爺さんは、晴れ晴れと自身の戦争への抵抗について語ったのだという。

 

土に生きる者の反骨、 抵抗

伊江島  真謝(マジャ):地名の語源は「真地(マージ)」 黒土の肥えた土地

 

 真謝の農民は、沖縄全体もそうでありますが、戦争のことは語ろうとしません。思い出すだけでも気が狂うほどの苦しみでありました。それと同様に、戦後の土地取り上げで米軍が襲いかかってきた当時のことも、話したがりません。みな、だまっています。真謝の農民はたたかいました。だがそれ以上に、苦しみと犠牲は大きかったのでした。

 だがその苦痛をふくめて、やはりわたしはお話ししなければなりません。

                             阿波根昌鴻

 

阿波根昌鴻『米軍と農民 ー沖縄県伊江島ー 』1973 岩波新書 その1

昨年12月に那覇ジュンク堂一階で開催されていた古書市の、ちはや書房の棚で見つけた本。 

 

1955年 米軍が伊江島真謝地区に襲いかかり、家をブルドーザーで潰し、火を放ち、農地を軍用地として強制収用する。

 

そこから土に根差し、暮らしに根差し、人であることに根差した、阿波根たちの決して礼を失うことのない、正々堂々の闘いが始まる。

 

これは二つの意味で非対称の闘い。

一つは、「力」という視点で見れば、これは、

圧倒的な暴力で迫ってくる米軍と、無力を非暴力という武器に転換した植民地沖縄の農民の闘い。

 

いま一つは、人間性を失った戦争屋(©阿波根昌鴻)と、戦争屋の獣性にあくまで「人」として対峙する農民たちの闘い。

これは、恥知らずと、恥を知る者の闘いと言い換えてもよい。

 

畑でイモを育てるように、サトウキビを育てるように、農民たちは日々の闘いをとおして思想を育ててゆく。土の匂いのする思想。血の通った思想。そして礼節を失わぬ筋の通った言葉。

 

友を持つなら伊江島の人を友に持てと他村では言われました。

冠婚葬祭のときなど、豆腐を持ってくる人、豆腐をつくる大豆を持ってくる人、また天ぷらをつくる麦粉、豚油、カマボコをつくる材料の魚、めいめいが持ち寄って、御馳走は馴れた人がつくり、着物は上手な人が縫う。お返しはしません。都会の人がすぐお返しをするその気持がわからないとよく話し合います。人の親切を物で返したら、もらったことにならない。それでは商店とおなじではないか、といいます。…

 

 

伊江島のたたかい、真謝のたたかいは、あいさつしようねえ、沖縄の方言でいえば「あいさつさびら」から始まったのでした。

 

無抵抗の抵抗、祈り、おねがい、悲願、嘆願、わしらはひたすらこれで押して行きました。

 

米軍は強制収容した農地に鉄条網を張りめぐらし、「米軍用地 米国人以外の者の立入を禁ず 違反者は厳罰に処せらる」と立札。

 

農民は、「地主以外の立入禁止」の立札を立てる。米軍発行の通行証などを貰うのは筋が通らない、自分の土地だ、とんでもない、と応じる。

 

土地を盗まれ、家を壊され、ろくな補償もなく、食べ物もない、村民の中から餓死者も出た、しかし、通行証を貰うくらいなら乞食をする。 (これを書きながら、ガザを想起する)

 

1955年7月21日、「乞食行進」のはじまり。沖縄じゅうを行進した。

 

「乞食をするのは恥ずかしい。しかし、われわれの土地を取り上げ、われわれを乞食させる米軍はもっと恥ずかしい」――木で支えたボール紙にこのように書いて、真謝の農民は「乞食行進」を始めたのでありました。

 

 

 

◆行進する農民たちは歌う。

わが言葉で、わが想いを歌う「陳情口説(くどぅち)」

①さても世(ゆ)の中 あさましや いせに話さば 聞(ち)ちみしょり 沖縄(うちな)うしんか うんにゅきら

(はてさて世の中はあさましいことだ 腹の中から話しますから 聞いて下さい 沖縄のみなさん 聞いて下さい)

 

②世界(しけ)にとゆまるアメリカぬ 神ぬ人びと わが土地ゆ 取て軍用地うち使(ちか)てぃ

(世界にとどろきわたるアメリカの神のような人びとが わが土地を取って うち使ってしまった)

 

③畑(はる)ぬまんまる金網ゆ まるくみぐらち うぬすばに 鉄砲かたみてぃ 番さびん

(畑のまわりに金網を まるくめぐらして そのそばに 鉄砲か次いで番をしています)

 

④親(うや)ぬゆじりぬ畑山や いかに黄金(くがね)ぬ土地やしが うりん知らんさアメリカや

(親ゆずりの畑は黄金にもまさった土地ですが それを知らないアメリカは)

 

⑤真謝ぬ部落ぬ人びとや うりから政府ぬかたがたに う願(にげ)ぬだんだん話ちゃりば

(真謝の部落の人びとは それから政府の方がたにお願いし いろいろ話しもしました)

 

⑥たんでぃ主席ん 聞ちみしょり わした百姓がうめゆとてぃ う願さびしんむてぃぬふか

(主席さま聞いて下さい 私ら百姓があなたの前に出て お願いするのはただごとではありません)

 

⑦親の譲りぬ畑山や あとてぃ命や ちながりさ いすじわが旗取ぅいむるし

(親ゆずりの畑があってこそ 命がつながっているのです。すぐさま私たちの畑を取りかえして下さい)

 

⑧願ぬだんだんしちうしが 耳に入りらんわが主席 らちんあかんさ くぬしざま

(だんだんとお願いしましたが 耳にも入れないわが主席 らちもあかないこのしわざ)

 

⑨うりから部落ぬ人びとや 是非(じひ)とぅむ沖縄ぬうしんかに 頼(たゆ)てぃうやびん 聞ちたぼり

(それから部落の人びとは ぜひとも沖縄のみなさんに 頼っていますから聞いて下さい)

 

那覇とぅ糸満 石川ぬ 町の隅(しみ)うてぃ 願さりば 私達(わした)う願ん聞ちみせん

那覇糸満、石川の町の隅々でお願いしましたならば 私たちのお願いを聞いて下さいました)

 

⑪ 涙ながらに聞ちみそてぃ 町ぬ戻(むど)ぅいぬ う情(なさき)や 誠真実(しんじち)ありがたや

(涙ながらに聞いて下さって 帰りに誠真実ありがたいことだと感じたことでした)

 

 

◆家を壊した米軍が与えた幕舎のなかで、お婆さんたちが歌った歌もある。

 

カバーぬ下(しちゃ) うとぅてぃ(居って) 波ぬ声(くぃ)どぅ 聞ちょる

あきよこの憐り ゆすぬ知ゆみ

(天幕の下にいて 波の声を聴いているこの口惜しさ 憐れさ よその人にわからない)

 

ちゅむとぅ(一本)から三ばき 実ぬる真謝原(まじゃばる)ぬ芋(んむ)や アメリカぬ鋤よ起こち

(一本から籠に三杯実る真謝原の芋を アメリカが鋤き起こしてしまった)

 

親元祖(うやぐゎんす)からぬ馴れ住みぬ真謝や あきよ火ぬ弾ぬ 焼ちゅら とぅみば

(先祖から馴れ住んだ真謝を [アメリカの]火の弾が焼くだろうと思えば ああくやしいことだ)

 

たとぅい火あぶりぬ憂き目ぬ見ゆるともん 恋(くい)し真謝原や互(たげ)に守ら

(たとい火あぶりの憂き目にあっても、恋しい真謝原は互いに守ろう)

 

口や花咲から 胸内(むにうち)や たくでぃ 悪魔アメリカや 情(なさき)知らん

(口は何とでも並べるけれど 胸の内は企んでいる 悪魔アメリカは 情けを知らない)

 

◆その時々の状況から編み出した実践を重ねた伊江島の真謝の農民たちは、実践を支える理論を獲得するために学び始める。

 

戦争屋は順調に勉強して、国民をだますことには専門です。そしてちょっと読み書きソロバンができ、口がきけるようになるとすぐ戦争屋に引きとられて、農民を食いものにしてしまう。それらに勝たねば、わたしたちの土地を守り、生きる道はないのです。

 

土地に根付いた生きるための闘いを闘い抜けば、世界の仕組みもしかと見えてくる。

そして、彼らの立ち位置は最初からずっと揺るがない。

 

闘いがはじまった1955年5月の彼らの声をここにに記しておこう。

 

米軍に告ぐ

 

一. 土地を返せ ここは私たちの国 

 私たちの村 私たちの土地だ

 

一.侵略者伊藤博文 東条の悲劇に学べ

 汝らは愛する家族が米本国で待っている。

 

一.聖なる農民の忠告を聞け

 さらば米国は永遠に栄え

 汝らは幸福に生きのびん

 

〇剣をとるもの剣にて亡ぶ(聖書)

〇基地を持つ国は基地にて亡ぶ(歴史)