『女たち三百人の裏切りの書』

語られるべき物語は現世と幽冥のあわい、現と夢のあわいからやってくる、

それを語りだす密かな声は、琵琶の弦の響きのごとく

空気を震わせ、まつろわぬ魂をふるわせる。

 

(鞠姫の)その独特の声のその独特の作用は、そもそも何に起因するのか。

 由美丸は奏し方と見ている。声を楽器と譬えるならばその弾じ方と見ている。そうして事実、楽器に近かった。対面した初回から、これが由美丸の覚えた印象だった。美しいが歪つに不安定な声そのものが弾物であり、たとえば十三弦、その細緒の音域はしばしば特徴的に現われる。しかし第六から第十の中の緒もあればもっと低音を奏でる太緒数弦もある。

 発声法なのだ。それが不可思議なのだ。

 あるいは異様なのだ。あるいは巧妙至極なのだ。

 弾かれて浮動するのが鞠姫の声。そこに具わる独特の作用なのだ。

 

「女たち三百人の裏切りの書」、あるいは「女たち三百人の偽りの書」を、最後の最後に乗っ取り、ひっくりかえす、声。

『まつろわぬ声の書』

 

現人神は要らない。国家の取り合い、権力の奪い合いの物語など無用。

転覆すべし。

 

 

 

101回目の9月1日を前にして。

 
 
写真は、『現代史資料 関東大震災朝鮮人』(みすず書房)より抜き出したもの。
 
これは、「鮮人を殺傷したる事案」として加害者が起訴された際、被害者として記録された朝鮮人の名前。それも、ほんの23名。
公的記録(1923年11月15日時点)に記録されている朝鮮人被害者は275名。その多くは「氏名不詳」とされている。
 起訴もされず、殺されたことを知る者もなく、闇に葬られた命は、その名前は、いったいどれだけあるのだろう。
 
 
「鮮人」と誤認されて殺傷された内地人の名前の記録もある。
「いずれもその容姿、態度又は言語の情況等に因り鮮人なりと誤解を受け自警団員その他の民衆の為に害を加えられたるもの」とある。その数89名。
 
 
支那人殺傷したる事由」もある。被害者8名。
ただし、僑日共済会長 王希天の殺害、ならびに東京府北葛飾郡大島で百十数名の中国人が殺されたことは、調査の結果明らかならずと否定されている。
公的記録に残された名前は、どれも、あのときに日本の路上で起こったことの、断片でしかない。
大切なのは、この断片を拾い集めて、多くの理不尽な死の記憶が封じ込められている闇を照らしだすこと。

2024年8月15日の読書。

日本の敗戦の日に読むのは、堀田善衛方丈記私記』。

1945年3月18日、東京大空襲直後の深川の様子を見に行った堀田善衛は、天皇の被災地視察に行き合い、後にも先にもないおどろきに襲われる。それを堀田善衛はこう書いている。

「あたりで焼け跡をほっくりかえしていた、まばらな人影がこそこそというふうに集って来て、それが集ってみると実は可成りな人数になり、それぞれがもっていた鳶口や円匙を前に置いて、しめった灰の中に土下座をした」「これらの人びとは本当に土下座をして、涙を流しながら、陛下、私たちの努力が足りませんでしたので、むざむざと焼いてしまいました。まことに申訳ない次第でございます、生命をささげまして、といったことを、口々に小声で呟いていたのだ」

堀田善衛は、この大空襲という未曽有の災厄を招いた最高責任者がピカピカの軍服に立派な勲章をぶらさげて、豪華な車に乗ってのこのこと被災地を視察にやってきたことに驚き、被災者が涙を流してその最高責任者に謝罪していることに驚く。そして湧きおこった、重い問い。

いったい何故にこのようなことが起こりうるのか?

この世の無常を説く「方丈記」をひもときつつ、堀田善衛が語るのは「無常観の政治化」。戦争の責任も戦災の痛みも「ああ、世は無常」という世界観の中に溶けてきえていく。
「私たちの存在自体の根源にまで(無常観に)食いこまれている」と堀田善衛は言う。

なるほど、そうかもしれない。などと、うっかり呟けば、「無常」の思うツボ。
ファンタージェンを侵食していく「無」と闘う少年の心を胸に、と思った8月15日。

2024年8月12日午後1時半~2時 フラッシュモブというやつをやってみた。

ことのはじまりは、クラリネット吹きのワタルさんが、近鉄奈良駅前の噴水の真ん中に立つ行基さんに囁きかけられたことなのです、たぶんね。

そもそもは、「ワタルさんが奈良にやってくるから、みんなでお茶でもしよう」、で始まった話だったんです。

ところが、行基さんがワタルさんに「君たちは私の前でやることがあるんじゃないのかい?」と囁きかけ、ハッとしたワタルさんが、「ぼくら、あの噴水のところで、パレスチナ連帯の意思表示をするのはどうだろうか」と言い、仲間たちがその話にすぐ応じた。

(水の流れるところでは、水は世界をめぐるものだから、ときに<ここ>と遠い<彼方>をつなぐ声が聞こえることがある。これ、ほんとの話。水は命をつなぎ、声をつなぐ。)

 

実は、ずっとフラッシュモブをやってみたかったんですね、みんな。

ふだんから音楽で遊んでいるからね。

 

日常の中に紛れ込んで、最初の一音がどこかで鳴って、それにつられて、またどこかで音がなって、あれあれあれという間に、そこが音によって開かれた広場になっていって、たまたまそこを通りかかった、あるいは、そこに居合わせた者たちの出会いの場になる。そんなことを妄想していたんです。

 

そして、行基のささやき、これが大事だったんですね。

うちらの仲間には修験者がいます。近鉄奈良駅前、行基像のところでは、場所が場所ですから、よく修行僧が托鉢の鉢を持って立っています。つまり、行基さんの前に修験者が立っていても、ちっとも変じゃない。そういうわけで、修験者が最初の音を出す役割を担う者となった。

彼はひとり、いきなり行基さんの前に仁王立ちして、行き交う人びとのほうをまっすぐに見つめて、錫杖を振りながら般若心経を大音声で唱えだした。これが横浜駅前なら、きっと、とてつもない違和感を誘いますね、ところが奈良なら大丈夫、行基さんの前ならなおさら大丈夫、それは日常の中でありうることだから、というわけで、行き交う日本の人々、特に地元の人たちは、あまり気も止めずに通り過ぎる。一方、海外からの観光客がワオ!と喜んで携帯のカメラを向ける。実はそこにあった日常は修験者の大音声でじわじわと揺らぎつつある。じわじわとぬるぬると知らず知らずのうちに非日常的な場が開かれつつある。

これはね、行基さんと修験者の見事な連携プレーです。

そのうち、機を見て、私がするするすると修験者のそばに行き、「殺すな! SAVE GAZA」と書かれたプラカードをそっと立てる。実はそういうことなんだよ、と人々にそっと伝える。人々は既に行基&修験者が開いた場に巻き込まれているから、あとだしプラカードなんかにはもう動じない、気にしない、ちょっと風がふいたくらいのもの。

三度目の般若心経が終わる頃、今度はするするするとクラリネット吹きが現れ、修験者の隣に立つ、おもむろにロマの祈りの曲を吹き始める、あれあれ、気がついたら、アコーディオン弾きも現れた、おやおや、そのあとからギター弾きも……。

よくよく見れば、楽師たちはみんな「stop the genocide」とか「FREE PALESTINE」といったプラカードを背中にぶら下げている、音楽はつづく、「平和に生きる権利」、「鳥の詩」、「アンパンマンマーチ」、ふたたび「平和に生きる権利」に戻って、ほんの一瞬やすんで、最後に弾むようなクレズマーの一曲「いきいきと幸せに」。

胸に響く音楽が流れれば、人々は立ち止まるものなんです。楽師たちはメッセージそのものを声高には叫ぶことはしなかったけれども、そうやって開かれた広場には何らかのメッセージがあることに気づいた人たちが、声をかけてきました、ムスリムが多かった、インドネシアから来たという人は「ありがとう」と言い、一緒にパレスチナの国旗を広げて写真を撮りました。最後に声をかけてきた家族連れは、ガザ出身なのだと言い、やはり「ありがとう」と言いながら、手を差し伸べ、フラッシュモブのメンバーひとりひとりと固く握手をしましたよ。

 

アッサラーム アライクム」(平和をあなたに)
「ウォライカアッサラーム」(あなたにも平和を)
 
ガザ出身の家族連れと、フラッシュモブのメンバーたちの間で交わされた挨拶。
ガザは遠い、地理的にはね、でも、実はとても近い。それはつながるには十分な近さ。そんなことにいまさら気づいてハッとしました。
ここで起きたことは、とても小さな出来事、生まれたのはとても小さなつながり。けれども、その小さなつながりの連鎖が世界を変えることを私たちは知っている、いや、信じている。どんなに踏まれても、やられても、信じつづけること、あきらめないこと、それが大事。そんなことを、近鉄奈良駅前の行基さんが立つ噴水の水しぶきを浴びつつ、ひそやかに考えていたのでありました。
 
フラッシュモブ、楽しかったなぁ。
ありがとね、行基さん。
立ち止まって、そこに共に広場を呼び出したすべての人に、ありがと。
 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

道具論(栄久庵憲司) 序章 ヒロシマの夕景 抜き書き  

二十世紀を駆けぬけて

 敗戦後も間もない日、焼けなかった京都から故郷へ立ち戻った私は、広島の町を一望に見おろす比治山に登って、国見におよんだ。

 焼き尽くされて灰燼と化し、七つの河だけが陰刻となった町の後は荒涼として奇妙に静謐、鬼気迫る惨景であった。

 広島という七つの河の河原の町に生きた人たちは、逝去すると周辺の山々に移って、朝な夕なに河原にうごめく生者たちの姿を見守る。比治山は亡者たちの山居である。

 その比治山に登って国見をする私自身、亡者たちにうち混じっているような気がした。亡者たちはこの光景を何とみているのだろうか。

 生者同士の戦いが都市炎上を招いて終わった、その結末を愚かなことよ、と見ているにちがいない。

 いたいけな幼児やその母たち、余命を惜しんで生の愉しみを求めていた老父を、そして志を得たばかりの有為な青年を、この亡者の山に送って不気味な静謐をもたらした第二次大戦の争い。

 亡者たちはその愚かさを生者になりかわって悲しんでくれているように思った。

 都市消失、一切合財灰燼と化する文化炎上。それはいったいどんなことだったのだろう。

 当時の人びとは私を含めて、その日その日を生きぬけるのに精一杯であった。その延長で二〇世紀末にきてしまった。二一世紀もその勢いで走りつけていって、いいのだろうか。いまいちど、比治山に登って国見をしてみたい。あの敗戦後間もない日々、亡者たちが私たち生者をどう見ていたのかを、いまいちど問い返してみたい。

 

(中略)

 

道具世界も地獄だった

 万物の焼き尽くされた原爆罹災都市を彷徨する日々のなかで、ひときわ深く刻印されて今も残る印象のひとつは、焼けただれて横転している市電の残骸だった。

 それは何か大きな生き物の死骸のように見えた。ずいぶん長い間扶持されていた遺骸も、いつしか解体されて視野から消されていったが、仏門にあった私には、それを生き物として弔ってやらなくてはならない気がした。

 まばらな人影もどこかへ消えてしまった廃墟の闇の中にころがっている市電の遺骸は、想像するだに凄惨である。漆黒の闇に、地獄絵が浮かびあがる。

 市民の足で会った都市の道具は、人を満載して走っているときは嬉々とし、活きいきとしていた。それは道具の生の姿だ。これと対比すると、横倒しによこたわる焼けた電車は、亀が甲羅を下に、仰向けになってもがきながら死を迎える姿に似ている。そこに声にならない声が、うめきの声が、聞こえてくる。焼けただれて死のふちにある道具が、町全体に、実はひしめいていた。それらの道具の断末魔のうめき声が聞こえてくる。そこなるヒトよ、助けてよ、とそこここから声を発している。あなたさまのお慈悲を、お助けを……。焼けたトラック、朽ちた自動車が、地獄に苦しむ亡者の様相を呈している。虚空をつかんで助けを乞うている。

 戦時のもの不足に苦しんだのは人間の方で、限られた道具たちは、精一杯働いてくれた。なんとか助けてやりたいものだ、なんとかせねば、と心をうたれる。

 私にできることは、ただ掌をあわせて、供養せむ、という気持を託すのが精一杯だった。目の前によこたわる市電に掌をあわせ、その背後に数百万の道具の亡者を想いうかべる。

 

道具世界 荘厳浄土

 たくさんの市電の死があった。トラックやバス、乗用車の死もあった。おびただしい自転車の死もあった。家々の中では、無数の家財道具の死があり、身辺の小物たちの死があった。

 原爆記念館には、それらの焼死した道具たちの、極くごく一部だが、保存され展示されている。

 そのひとつに、ピカドンの時を針が示している懐中時計がある。

 その、時計の焼死体は、米国製ウォルサムの懐中時計である。これを懐中に入れていた人はどうなったのだろうか。金属の時計が海中で熔変してしまったほどだから、これを抱いていた人は即死であっただろう。

 この懐中時計は大正時代の初期に一世を風靡したものの面影を宿している。ならば父親の洋行帰りの記念品を、形見として息子が懐中にしていたものかもしれない。母は健在だったのか、妻はいたのか。当時は家宝に近かったウォルサムをめぐって、二~三世代の生活のドラマが浮かび上がってくる。そうした、たくさんの人間の生活のうつし身としての時計の、一瞬の死。この時計は、まだちゃんとした供養をうけることなく死骸をさらしつづけている。

 だが、時計の死の形相は、それにまつわった人びとの生活の遺影である。これを弔うことは、たくさんの人びとの生きた日々を弔うことになる。ああ――南無阿弥陀仏、なみあみだぶつ。

 人間世界、というものがあるとするなら、これをそっくり裏返しにした道具世界というものがあるのではないか。路面電車にしろウォルサムにしろ、人のうつし身としての壮大な道具世界の、亡者たちなのである。電車の魂も、ウォルサムの亡霊も、みんな比治山に登ってきていて、人間の起こした都市焼滅の愚行を見おろしているのではないか。

 比治山には人間を弔う寺がある。ならば道具を弔う寺も要るのではないか。そこにウォルサムを祀り、市電を祀ったならば、焼死した道具がうかばれよう。

 いや、そこに見えてくるのは、かえって人間の姿ではないだろうか。不慮の死を遂げた道具の遺影に、人の愚かさが見えてくる。心なく捨て去られて朽ちていった道具に、人の不甲斐なさが浮上してこよう。 

(中略)

 亡き人を供養する法要は、亡き人とあらためて対面することである。もし道具の法要をするとすれば、まずは道具と向きあうことであるが、道具を介して、人間と向きあうことにもなるのではないか。それをつくり、使い、喜怒哀楽し、そして傷め。見捨てた人間のありようと、向きあうことになるのではないか。

 

羅生門に夕陽が映える

 比治山はヒロシマの東山である。

 その東山に登って、さまざまな想いに茫然と立ち尽くすうち、陽が傾いてきた。

 足下に山蔭が濃くなってきて、山を下ろうかと思い、見おさめに灰燼の巷を見かえすと、さいぜんより美しく見えた。灰色の惨景に輝きが加わっているのである。夕焼けの、金色に色づいた光が、斜頸しながら広島の廃墟を立体的に浮き立たせているのであった。

 西陽をさえぎるものとてない廃墟の照射に、わずかに転々と残るビルの残骸が煌めいて、荒涼たるタブローにアクセントをちりばめる。瀬戸内の夕焼けは世界一ときめこんでいた幼き日の思い出がよみがえってきた。

 広島は壊滅してヒロシマとなったが、国破れて山河あり、大自然の一浪はびくとも変わらぬ夕焼けの金色の箭(や)をヒロシマに注ぐのであった。

 地獄の風景は一転して極楽の光彩を放ちはじめた。古人が西方に浄土ありと見たのは、夕陽に焼けた空に阿弥陀の光束を見てのことではなかったか。

 蜃気楼のように浮かびあがったヒロシマのシルエットに、光明遍照十方世界と、仏陀の徳をいう一語が私の口を突いてでた。

 応仁の乱に、地獄の沙汰となった羅生門も、夕焼けの金色の箭には美しく輝いたにちがいない。

 美に帰依しよう。

 聖戦に「勝つまでは」の生涯ターゲットが挫折して、途方にくれていた青年のひとり、であった私にはこれが新しいターゲットとなった。

 

 

抜き書きは、ここまで。

序章のここまでが『道具論』の白眉。

◆ ◆ ◆

 

栄久庵憲司は、「物心一如」と言う。

『道具論』の最後、「結語」の章で、こう語る。

「物心一如。これが道具世界発見であった。物心一如の境地は光に包まれる。阿弥陀の発する光の箭を追い求め、夢みていく――祈りをこめていけばそれが見えてくる。阿弥陀を南無と見つめていくと、なぜかおつきあいのしかたが見えてくる。道具世界を見つめていくと、つきあいかたが発見できる。」

とはいえ、それもまだまだなのだと言う。道具世界行脚の旅は続くと言う。

「行脚は祈りである。行脚の先をたどることが、祈りを拓いていく。祈りをよりたしかなものにしていく。祈りなくしてかたちをなすことが世に多い。だが、滅びることなく世に伝えられていくかたちは祈りをもって形をなしたものだけ、ではなかっただろうか」と語る。

 

そのとおりだ、祈りなくして、存在するものは、単なる魔だ、闇だ。

道具をリスペクトせよ、(命をリスペクトせよ)。

 

百年芸能祭 前口上

 

この前口上、

ブルーズブラザーズのアレを意識して書かれたものです。

これをやるときには、バックにクレズマーのあの曲が流れています。

演奏は百年DXバンド 鎮魂ちんどん隊。

 

【前口上】

 

お集まりのみなみなさま  百年芸能祭にようこそ!

人間も 人間以外のあらゆる命も  ようこそ ようこそ!

さてさて  ほんの百年とちょっと前から

お金になるかどうか  役に立つかどうかで

命の価値が決められて  見えない鎖につながれて

血も涙もない数字に縛られて

あげくのはてにジェノサイド! 

しかし  これからの百年は そうはいかない!

消された命の名前を呼びましょう

忘れられた命の歌をうたいましょう

封じられた命の鼓動で踊りましょう

無数の命を躍って供養

歌って躍って世界を変えよう

それが芸能

それが命の本能ではありませんか

奉一切有為法踊供養也

(いっさい ういほう おどりくよう たてまつるなり)

人間だけじゃないよ 鳥も獣も虫も魚も草も木も 

みんな一緒に、

さあ、いくよ、命はびこる新世界!

 

 

※東北地方南三陸には、民俗芸能「鹿躍り」がある。「鹿躍り」は、躍って死者の魂を鎮魂する。400年前の大飢饉の折、南三陸で多くの人びとが亡くなり、「鹿躍り」の踊り手たちが建立した石碑にこの言葉は刻まれた。

 

 

 

 

「さあ、出発です」 @2024.08.02 ピースマーチ (関西ガザ緊急アクション&KYMCの共催)

 

 

ピースマーチには参加できなかったのだけど、

メッセージを実行委員の方が代読してくださった。

 

-------------------------------------------------------

<さあ、出発です>

 

いま、パレスチナでは、一般市民の大量虐殺、ジェノサイドが日々繰り広げられています。イスラエルによって、世界中の人々が見ているなかで。ジェノサイドがこれほどまでに堂々と恥知らずに行われているのは、歴史上初めてのことではないでしょうか。

 

とはいえ、ジェノサイド自体は、西欧列強によって未開の民と名づけられた人々に対して、ずっと行われてきたことです。なにより、ジェノサイドは、常に植民地主義と共にあったことを忘れてはなりません。

 

植民地主義は、つねに人間を文明と未開に切り分けます。

 

植民地主義は、未開の側に分類された者たちを野蛮な獣として扱います。やつらは獣なのだから、奴隷にしてもよい、殺してもよいのだと。

 

植民地主義は、優生思想とも結びついています。野蛮な劣等人種は遅かれ早かれ滅びる運命にある、だから、さっさと殺してやるのは恩恵であり、文明の権利であり、文明の利益になることなのだと。

 

さらにもう一つ、忘れてはならない重要なことがあります。当然の権利のようにジェノサイドを繰り広げているイスラエルの側に立つ国々は、世界の富をほとんど独占してきたいわゆる先進国であり、そのどの国もかつては植民地帝国であったということ。その国々こそが、ユダヤシオニストたちが武力でパレスチナを占領し、そこに生きる民を獣を追い払うようにして追放し、イスラエルという国家を建国することを承認したのだということ。

 

イスラエル植民地主義によって生まれ、建国以来変わることなくパレスチナを不法に占領し、無法な虐殺を続けている、いわば、この世の植民地主義の純粋なる結晶です。イスラエルがオリンピックに堂々と出場もすれば、広島の平和記念式典や大阪万博に参加するのも、いわゆる先進国がそれを恥ずかしげもなく受け入れるのも、そもそもこの世界自体が、植民地支配と戦争で富を蓄積してきた西欧列強によって、西欧中心の文明観、世界観、人間観で形づくられてきたからにほかなりません。

 

植民地主義に侵され、理不尽な死がすみずみまで染みわたっている、あまりに無惨な私たちの世界。一方的な基準で人間が殺す側と殺される側に分類される、あまりに非対称な私たちの世界。

 

イスラエルの所業を問い、パレスチナの解放を願う私たちは、同時に、この世界の成り立ちそのものを問わねばなりません。殺されずに生きている私たち自身が、実は、知らず知らず殺す側に身を置いていることの恥を知らねばなりません。とりわけ、この日本に生きる私たちにとって、日本と植民地主義の関わりについて知らねばならぬことも数多くあります。

 

パレスチナの闘う知識人エドワード・サイードは、イスラエルによるパレスチナの占領は、20世紀以降の世界でもっとも長い軍事占領であり、その次に長かったのは、1910年から1945年にかけての日本による朝鮮半島占領だと語っています。

 

イスラエルの建国は1948年。同じ年、朝鮮半島に二つの分断国家が誕生しています。日本と入れ替わりに、1945年9月に南朝鮮の次なる支配者としてやってきたアメリカは、日本による植民地支配のシステムを廃棄することなく、そのまま活用しました。支配者にとっては、まことに好都合なシステムだったからです。この支配システムを受け継いだ韓国において、権力によるジェノサイドが繰り返されたことを、けっして忘れてはなりません。

 

1948年にアメリカを後ろ盾に建国された韓国と、同じくアメリカにとって有益な者たちが権力の座に据えられた日本が、アメリカの同盟国として、実のところは属国として、植民地主義清算など全くなされないまま、アメリカの傘の下に置かれてきたことも忘れてはなりません。

 

イスラエルの最大の同盟国であるアメリカの、つまりは、この非対称の世界で堂々と殺す側の真ん中に立って、殺される側の抵抗をテロと呼ぶ恥知らずの大国の、傘の下に、私たちはずっと置かれてきたのです。ここ日本で、パレスチナ解放の声をあげるとき、この歴史をきちんと踏まえることはとても大事なことです。

 

恥知らずな国家権力の言うがままの恥知らずな人間にならないために、命の価値を権力者の都合で勝手に決められないために、この非対称の世界を引っくり返すために、私たちがやらねばならないことは無数にあることでしょう。

 

世界の変化は、ひとりの人間のささやかな変化からはじまります。大きな声にのまれることなく、自分の生きている場所で、自分のできることは何かと問いつづける者たち一人一人の小さな歩みは、きっと、すべての命が尊ばれる新しい世界への大きな歩みになるはず。

 

それぞれの歩み方で、新しい世界へと共に歩んでいく私たちでありますように。

 

挫けず、諦めず、さあ、出発です。