森作和江 北への旅 その3 メモ

ひきつづき『原生林に風がふく』

 

数多くの森崎和江の文章で、くりかえし記される森崎和江の旅のはじまりにまつわる述懐。

 

朝鮮体験の重さと弟の自死は、私を賢治以前の魂の日本へと、突き放ちました。

私には、言葉以前の、伝承力を感じさせるしぐさについての、ぬきさしならぬ記憶があるのです。 

 

言葉でなく、しぐさの方へ。(簾内) への応答。

 

 

 それは私のしぐさではありませんが、しかし、それはたとえば村の祭の夜の、念仏剣舞のように、同じ地つづきの地面の上で幼い日のの私の魂が共震したしぐさでした。

(中略)

 声もなく、彼らは夕闇のなかで踊っていました。ゆっくりと地を踏み、両手で風を抱き、白い上下の民族服で。女もまじって。

 その踊りは夜通しつづきました。チャングは長目の太鼓です。肩から胸へさげて、踊りながら両手で叩きます。夜が深くなり、なお、いっそう「星空と大地」は交流しました。その、共鳴する大地と踊る人。つまりは祈りの姿が、私の原体験風土となっているのです。その世界の内へと、人間は生まれるのだと、おのずから信じてしまっていました。

 この生誕を民族的原罪と感じてしまうこと。

 

植民地を原体験風土とすること。そこに生まれてしまったことを原罪と感じること。

そこに森崎の詩精神の根はある。

 

 私が木に会いたくなるのは、その踊る人にかわってくれる存在として、私の現在を人間の時間とは無縁な樹木によって、浄めてもらいたいからだろうと思います。そして、今となっては、踊る人もまた、何らかの原罪意識に突き動かされて祈りのしぐさをとり、地を踏みならしていたのかもしれぬと、思うのです。

 

こんな述懐を読むにつけ、森崎和江のすべてはすでに、詩「ほねのおかあさん」に書かれていたのだと思う。

 

私の長くつづいた心身症の直接の原因は、いわば十年刻みのような皮相な時間内での情況判断のなかでも、また百年単位の如き歴史的変遷のなかでも、なおありのままの自己を表現しがたい私――女としての生――に、なじめぬまま、しかし心は休みなしにその自分を現在の社会へ伝えるすべを探していたためでした。 (中略) 伝達用語はもとより、自分を伝えるしぐさすら、借り物や制服しかなくて、その限界ぎりぎりがつらかった。

 

 

「木」

 

木に会いたい

木に会いたい

カラスが啼く

 

まだ生きている

カラス

樹液のゆめをみている

 

天へのぼるつゆの流れ

アリさんが蜜をなめ

コオロギがしずくをすすり

 

梢ゆらゆら

あさぼらけの葉っぱ

サカナたちが寝息をたてていた

 

木に会いたい

木に会いたい

カラス

 

ここは砂山

記憶の海鳴りがする

木のぬくもりの

 

消えたサカナ

絶えたアリさん

コオロギも骨となり

 

木に会いたいカラスの

飢えたリボンひらひら

 

 

森崎和江は、自身の「旅」を「渇き」に過ぎないと言う。飢えているのだと言う。

はるか昔、樹液の音やアリやサカナたちと話していた幼女の頃、自然と人間の照応を朝鮮をぬすみとったのだと言う。それを森崎和江は原罪と言う。だからこそ、日本の地で、森とカモシカと人間の営みが還流しているような世界に飢えて、そんな世界でのよみがえりをこいねがって、旅を重ねる。

そして呟く。

 

 

森のくらがり

ここから先は

よみがえる力のほかは入山かなわぬ

(詩「森」より  最終連)

 

 

 

 

 

森作和江 北への旅 その2 メモ

『原生林に風が吹く』簾内敬司×森崎和江

 

◆旅のはじまり 道案内人は簾内敬司

木に会いたい、その旅へと急ぐ、森崎和江がいる。

「なぜ、東北は、山を恋うのだろう」

私が今会いたい木は、それら私や私の親世代たちが踏みわたった近代の影などにおびえることなく、また地球の病気にめげることのない森林です。つまり私は、わが身につもりつもった垢を、斬り捨てたいのかもしれません。今は幻のようなお山信仰の地霊木霊によって。 (「はじめに」より)

 

 

◆北へと向かう森崎の自己認識

 

私が植民地であたかも無時間の空間であるかのように、そこに在る村や町や山や川を踏み渡って生きてきた、昔日の自他認識の形が、今は、日本人一般の日常感覚となっているようだ、ということです。そこには木や水への記憶の、個別性しかありません。いえ、それもありません。(中略)こまぎれになった風土、こまぎれになったゆたかさ、たくさんの他人の生を無音の原っぱとしてキャッチする個体の感覚、そして、それらを個別にネットワークする能力だけがピカピカ光ります。その能力があれば十分に生きていけるのですから。近代国家の社会では。優等生として。戦前も戦後も。

 

 

◆簾内敬司の応答  ーー日本という国ーー

 

私は、日本というこの国が、少数民族や絶対少数者や少数意見といったものについて、歴史的に一貫して無関心であったと考えることがしばしばなのです。逆説的に聞こえるかもしれませんが、無関心であるがごとくに「少数」というものを積極的に蹂躙して来たと言ったほうがいいでしょうか。これは積極的無関心とでも言うのでしょうか。それは千年の昔も現在も相変わらずの構造に見えるのですが、これが将来も貫徹されるものであるとすれば、もはや日本などなくていい。

 

 

森崎和江  高ざれき

 

私は、九州に住み始めてから、対馬暖流のまにまに列島を北へ北へと旅しました。もちろん南の島々へも幾度となくいきました。でも、なぜか日本海を北へ向かうのが自然でした。(中略)

 こうした旅は、旅という言葉はふさわしい内容ではありません。しかしそのことを強調しようとは思っていません。どう見えてもいいのです。九州で、とある知人が、あんたも高ざるき(歩き)するのう、とおっしゃった。遠くまでさまようことをそう言うそうです。私はただ、日本人へと、生き直したかった。私が好きな日本人に出逢って、その心をわが身へ移したいと願いました。

 

森崎和江  「さいはて」について、めざすべき「場」について。

 

それは(簾内さんが)おっしゃるように、地理的概念や歴史的概念で推量してもとどかぬ遠い時空なのでしょうね。「遠く」とは、社会概念の表層を統御している政治的現象から、たとえば雪の色一色で伝達し合う時空へと渡っていくことかもしれません。

「内面の時空に、宇宙空間全体が重なり合ってくる」場。「絶望と同じくらい、深い無限」。

 でも、私には、文字界ではなく、それ以前の、もうすこし生ま身の律動に近く共鳴する音や調べや声で、私の内奥深く沈んでいるその「場」を外化しつつ共存したい思いは深いのです。

 

(中略)

 

私は「昭和の子」として生まれました。私の表皮は、現代の「進歩」が刻む時間に翻弄されつつ、懸命に自己増殖してきました。植民者二世の刻印を彫られたまま。今日まで。

 その表皮を作り変えるべく、私の肉は、列島をめぐる水と共に、近代百年をさかのぼる旅行をしてきました。列島の百年二百年の水を呑もうと、うろつきながら。

 そして、私に魂があるなら、十年刻みの「進歩」の時空を、百年二百年刻みで変質した社会の歴史時間と重なりながら、まるで千年単位の宇宙の運行のようなマンダラが、表皮や肉をつらぬいて宙空へ声もなく叫んでいるのです。いのちの原初の場で。

 一人の人間とは、こんな時間軸を背骨にいれている気がします。

 

森崎和江の、<いのちの原初の場>への果てしない旅を想うこと。

 

私が文字で生計を立てる力しかないと判断した時、近代日本の百年あまりの実態をわが心身に叩きつけること以外、考えられませんでした。生ま身の私からこぼれる声は、朝鮮の自然と風物を吸いとった声でした。私は生ま身を殺すことを考えつづけました。ですから、必然的に、ノン・フィクションを、それも海外へ売られた女やサハリンに幕末から漁場を拓いた男などと、近代史を民族の内面性をとおして辿ってみようと努めました。自分を表現したかったのではありません。

 

自分を表現したかったのではない。でも、それをしなければ、生きてはいけなかった。

経済の問題ではなく、精神の問題として、思想の問題として、命の声として。

 

しかし、私のなかの千年はうずきつづけました。潮のまにまに流れつつ生きた狩猟者のように。私のなかの、文字以前の女や男が、微笑しつづけました。こんなことを、私のような、他民族の天地を吸った存在は、文字化すべきではない。でも、これは簾内さんへの手紙です。

 

★簾内敬司  1000年の旅人が往来する十三湖を語る

森崎和江『クレヨンを塗った地蔵』を引きつつ。)

 

かつて十三には国内外のさまざまな人物や物や精神が往来しました。(中略)おれが地吹雪ののなかへ忽然と姿をけすようにして滅び、そのあとに生き残りつづけたものは賽の河原の石たちや路傍の地蔵たちの風景でありました。「クレヨンを塗った地蔵」のなかの津軽の老いた母親たちの姿や表情はいずれも深く、まことに土地神のように思えてきます。

(中略)

地蔵を祀り、ねんごろに着物を着せ、頭巾をかぶせ、クレヨンを塗りながら死者たるわが子いぼそぼそと話しかける母親たちは、すでにあの世とこの世を往来しているもののようです。死者たちを弔うのに、彼女たちほどねんごろな者たちはおりません。彼女たちほど、死者たちに守護されている者たちもまたいない。彼女たち人間だけでなく、土地ごとまるごとそうなのです。十三にいくには、誰もがそうしたところをくぐり抜けていかなければなりませんでした。

 森崎さん、十三往来の人びとは昔だけの話ではありません。森崎さんもやはり十三へいかないわけにはいかなかった。

 

これは、簾内敬司による、森崎和江がどうして北へと向かわねばならなかったかの、イタコ語りのようなものでもあるよう……。

 

私もかつては十三往来の一人でした。途中、雪が下の方から逆さに降るような往来のときもありました。律令の国の外、そのまたぎりぎりの縁が中心であるところの時空へ心が誘われて十三往来するのです。(中略)千年を往来している人間は現実にそこかしこにいると感じさせる経験が十三往来にはひそんでるようです。 P66

 

簾内敬司の、この森崎和江への返信には、次第次第に、反閇の音が響きだす

dah-dah-dah-dah-dah-sko-dah-dah……

宮沢賢治が「原体剣舞連」の中に響かせた、反閇と剣舞のとどろきだ。

そして、簾内は、「言葉ではなく、しぐさの方へ」ときっぱりと、森崎和江に応答する。

 

言葉でなく、しぐさの方へ。

 

dah-dah-dah-dah-dah-sko-dah-dah……の響きにのせて、

簾内の手紙は、

   十三往来から北上へ。

見事だな、簾内さん。

 

星空と大地は日夜、激しく交流しています。星空に向かって呼びかけする人びとがいるように、大地に向かって敬虔な祈りを捧げる人びともおりました。そうした人びとの足裏によって大地の意思は伝えられます。私たちの呼びかけや足裏はそのようにして星空と大地につながっているのだから、人間はそのつながりの風景だとは考えられないものでしょうか。そのつながりの風景を踊る人びとがかつておりました。

 

dah-dah-dah-dah-dah-sko-dah-dah

 

その踊りの身振りは、人間の心象界に蓄積されて見えて来た自然の景観の変形にも思われます。景観は捻じれ、裏返り、もうひとつなぎの風景が実現されているに等しい……。様式を踊るのではなく、風景を踊る。自然界と心象界の総体としての千古の風景を。

 

このまま簾内敬司の素晴らしい応答を書き写していこう。

dah-dah-dah-dah-dah-sko-dah-dah

 

 森崎さんがおしゃる通り、「いのちの原初の場で」「一人の人間とは、こんな時間軸を背景に入れている」のだと私も思います。私はその踊りを見るたびに、反閇を反閇とさえ言わなかった遠い原初のしぐさが、力の片鱗のように、そうした身振りのどこかにこぼれ落ちるようにして見え隠れしていないかとさがすのです。けれど、それを見つけたところで言葉にはなりません。言葉にならないものを伝えようとすると、たちまちペンが渋り、軋み、とまります。それをどう伝えるべきでしょうか。不滅のしぐさがあるだけです。

 

「言葉にならないものを伝えようとすると、たちまちペンが渋り、軋み、とまります。それをどう伝えるべきでしょうか。不滅のしぐさがあるだけです。」

 

 

これもまた、簾内の声であり、森崎和江の声。ため息の出るやり取り。

人はこうして、それぞれに不可能な道を歩みながら、声を交わしながら、不可能を超えてゆく。不滅のしぐさの方へと。

 

 

 

 

森崎和江  北への旅  メモ

 

『対話 魂ッコの旅 森崎和江 野添憲治』より

 

◆北へと向かう心

 

どうして北に行きたいということになるのかなというとね、私、「辺境」という言葉が嫌いなんです。だってどの地方にも固有の生活史はあるんですもの。それぞれの地域にくらしの遺産は深く残っているはずですけど、地域的個性はどんどんくすれていってる。そのこわされずに残っているところに行きたいわけ。そうだとすると、北の端のほうをえらびたくなるんです。そこは「辺境」というより、地域の個性が生きてるところだっていう気がするわけですよ。野添さんのご本などを拝見していますと、そういう生きてるところに行って、もし私にも何かが感じとれるなら、今度は三〇年はかからずに、一〇年ぐらいで心の握手ができるんじゃないかしらと(笑)、そう思ってね。この日本の中で、北ぐにが支えて来たものは何かしら、と。 P9

 

 

◆ここで森崎さんが語っているのは、詩「ほねのおかあさん」の底に渦巻く声。

沈黙の重さというのがあってね、私、女だからそう思うのかもしれませんけれども、自分のなかに「古代」がそのまんま生きていると感ずるほど表現できないものがあるんですよね。ほんとうに。ここが表現できたらば私はもう言うことはないという何ものかがありましてね、それを言語化したいなあという気持ちがあるんです。でも、その方法がうまく見つからないんですがね。今日もあおばあちゃんに、このあたりに昔、産小屋がありましたか、なんて聞きましたけれども、これは、子を生むということは、人間は死のことについてはかなり言語化できていて、死とは何かとか、死後の世界はとか想像力をかき立てて思想化しますが、一人の生命はどこからきたのかという、生命の生誕に対する意識化というか、それを表現する力というのはまだまだ人間にはないと思うんですよね。なくてもかまわないと思いますけれども、古代社会はその無言をバネにして生産にはげんできましたでしょう。一切の作物の。

 女というのは生命を自分の体内に宿しますでしょう。そして、生命(いのち)あるものとして体外に産ませますね。ですからね、自分の肉体のなかには肉体の言葉としていっぱいあるわけですよ。でもね、フツフツとどぶろくがかもしだされていく様を名人芸で知るように、自分の肉体が生命を宿してね、それがだんだんとひとの生命になっていくという、ことばで表現できないところを、かつて女は社会的に認めさせていたんです。作物の身の李や、旅に出る人の安全や……。自分の肉体のなかで他人の生命が成長しているわけでしょ。それは他者ですよね。他者を自分のなかに孕みながら、一体化し、そして産むんですが、それをなんと言っていいか……。「物言わぬ農民」ではなくて、『物言わぬ女」というか「母胎」というか……。でも物言っていないんじゃない……。P91

 

 

◆野添さんの応答の素晴らしいこと!

 

野添 米を作る農民が一番生き生きとしてくるのは、刈り入れの時ではないんですね。よく「稲の中に魂’(たまし)ッコ入る」というんですが、そのころですね。(中略)

 稲の穂になる部分が稲の体内に宿った時。稲の色が変わるんです。(中略)ああ、魂ッコこれだけ伸びてきた、今年は豊作だとか、不作だとかってことが、その時に判るんだそうです。

(中略)

 

森崎 「ああ、できた」っていう感じね。(中略) 「魂ッコ入(は)った」ね、いい言葉ですねえ。

 

野添 一種の村の原体験みたいなもので、ものをつくる者の喜びと不安みたいな、どう仕様もない、いても立ってもいられないような苛立ちみたいな悦び、その当時の米作り農民の体内にはあったんですね。

 

森崎 それまで存在していなかったものが、生命として存在する瞬間の何か……、感情なんでしょうね。そして、それがきちんと存在してしまって、育ってしまえばあとはもうこっちは死んでもいいんだ、役目を果たしたということなんでしょう。「魂ッコ」というんですか。何かこう、ものの精霊の根源みたいなやつ……。

 

(中略)

 

野添 そうそう。やっぱり「魂ッコ」なんだな。ですが、それはだれにでも言えるわけではなくてね。やっぱりわかるのは、種を蒔いて育ててきた人なんです。その人がいちばんよく判るんですね。でもそれは言葉では言えないようなものですから、「魂ッコ入った」ということになるわけです。(中略)そういう言葉にならないものを「魂ッコ入った」というような言葉で接していく、これがやっぱ民衆の接し方であったのだろうということですね。

 

野添憲治森崎和江のこの対談本を作った簾内敬司は、

『原生林に風がふく』で、東北から戦後を見すえた「戦後の闇」について、森崎からの便りに応答する形で書いている。

 

簾内は昭和39年に小学校を卒業、その年は東京オリンピックの年であり、その年の春は集団就職列車の走り始めた年度の終わりだったと、簾内は語る。

 

高度経済成長という政策をデザインした当事者は経済企画庁なねしょうが、労働省日本交通公社と提携して集団就職列車を準備し、十五歳の少年少女たちを日本の津々浦々の農山村にふるさとから大都市の工業地帯へと運んでいったのでした。

(中略)

この十五歳の少年少女たちは、国策としてこの高度経済成長の過酷な最前線へと送り込まれていったわけですが、(労働省資料ではこれを「計画輸送」と呼び、それはその後十年以上もつづけられるのですが)、この昭和三十年代から四十年代にかけての時代経験が、私の生ま身の記憶からうれば、この国が戦後社会から現代社会へと変容していく分水嶺であったように思うのです。

 

この分水嶺を境に、

私たちの北東北では、過去百年を遡る樺太や北海道という北へとに向かっていた出稼ぎが、感性の記憶を喪ったもののように、一気に方向転換して南へと向かい始めた、

と、簾内は言う。

 

感性の記憶を喪ったもののように、と。

 

そして、さらに、簾内は昭和三十年代の小学生の頃の「正しい日本語学習」もしくは「標準語学習」を語るのである。

 

これを戦前からの皇民化教育の延長線上に捉える一般的な見方に対して、簾内は次のように語る。

 

私は一面でそのことを認めつつも、一面ではそれが変質と変容を見せていく過程として、「五〇年代末から六〇年代はじめには」沖縄の新規中学卒の十五歳の少年少女たちは、どこへ集団就職したものであったろうかと考えるのです。つまり、沖縄の子どもたちもまた日本の高度成長の下支えのために、言葉に激しく傷つき傷みつつ大都市の工業地帯の闇へ吸い込まれていくことになるという延長線上にこそ、戦後の学校規模の「方言札」は私たちの「胸のリボン」の裏返しのようにしてあったのではないだろうかと。そして、むろん、そのことは戦前・戦中から一貫して沖縄が味わった日本の皇民化教育の罪業そのものをいささかも逆に変質させたり変容させたりするものではありませんが、ことさらに戦後のその時期、北から南まで独自の生活の言葉を伝承されていた農山漁村の子どもたちは、根こそぎ高度経済成長の無言の下支えのための、集団就職に向けての植民地化教育を受けながらならなかった記憶を持つ者ではなかったでしょうか。

 

標準語教育は戦前は、指揮官の命令のもと、一糸乱れぬ軍隊の動き、校門から営門へと続く兵隊づくりを大前提としていたとすれば、

名目上軍隊泣き戦後社会では、工場で一糸乱れぬ労働戦士を作ることを大前提としたのだろう。

 

 

 

『六ケ所村の記録(下)』 メモ

 

(六ケ所村を原子力センターにするのは)通産省の外郭団体の調査報告書(1969年)に明記されている既定方針だった。

核燃サイクルは、開発が頓挫した広大な空き地があるからと、1984年に始まったのではない。青森県が、広大な空き地へと誘致したのでもない。

 

 

工業立地センターの「調査報告書」の発表前の一九六八年、東北経済連合はすでに「原子力エネルギー基地」構想を打ち上げていた。下北半島核半島化は、このころからすでにはじまっていたのだ。各地方経済連の会長クラスは、たいがい地域最大企業である電力会社の会長、社長が占めているから、地域の将来は電力会社に握られている、といって過言ではない。

 まして電力会社は、東北、北海道、関東などといったように、日本列島を分割した大ブロックごとの独占企業だから、電力会社間に競争はない。電力会社の利益はほとんど一致、すべて共通の利益である。

 

政界・財界の共通の利益でつながっている者たちが、札束と公の暴力装置を使って、ここぞと狙いをつけた土地に生きる人々に無数の分断線を引き、対立させ、土地から引き剥がしにかかる。

 

もうこれは、足尾鉱毒の頃から、一貫して変わらぬことで、その成功体験が明治の世のから連綿と続く、政財界のえげつないやり口。

足尾銅山の古河は、その前に阿賀の草倉銅山の経営を始めて、そこから鉱山王へと成長してゆく。

古河は外国から新機械を取り入れると草倉でテストを行い、見込みが立つと足尾銅山他に採用した。http://rekisi1961.livedoor.blog/archives/2761201.html

 

阿賀ー足尾ー水俣ー朝鮮興南ー福島、六ケ所、等々と、あの連中の成功体験の連鎖を思い、あの連中によってあらゆるつながりを断ちきられていった人々のことを想う。

 

つながりを断ちきられた人々が、あの連中の唱える「愛国」でひとまとめにされていった風景を想う。

 

この国で(この国だけではないな)、なにかと唱えられている「愛国」、「復興」、「開発」という言葉に対して、本当にふさわしい意味を与えなければいけないね。

 

六ケ所村の三点セットは、濃縮ウラン工場、低レベル放射性廃棄物貯蔵施設、使用済み核燃料再処理工場。

 

電力会社10社の原発から、運転開始から40年間で3万2千トンの使用済み核燃料が搬入されて処理され、1年間に8トン(核弾頭1000発分)、合計300トン以上のプルトニウムを分離する計画である。いますでに、六ケ所村には仏英から帰ってきた30トン以上のプルトニウムが溜まっている。

 六ケ所村の再処理工場が稼働すれば、日本は世界に冠たる超プルトニウム国家となる。 (中略)

 大間の新型転換炉が中止になったかわりに、建設されている大間原発は、炉心に入れるのはすべてMOX燃料という、「もんじゅ」につぐ危険な原発である。

 

2011年東日本大震災後、新たに建設中の原発は大間だけで、それも停滞中。

(現段階では、稼働開始は2030年とされている)

https://www.asahi.com/articles/ASP9T6VV0P9PULUC023.html

揺れる 大間原発の行方:朝日新聞デジタル

 

 

 プルトニウムを取りだす技術は、原爆製造のマンハッタン計画で確立した技術である。

 元素プルトニウムは、「冥界」を司るプルートーンに由来しているのだが、プルトニウム239は、1グラムの核分裂でガソリン2トン分のエネルギーを出す。人間に対する許容量は、1600ピコキューリ(1億分の3グラム)といわれている。半減期は2万4千年。人類がつくりだした、最大、最悪の猛毒である。 

 

放射線のDNAへの影響

<概要>
 放射線に対して生体で最も防護すべき標的はDNAで、放射線はDNA主鎖切断や塩基への障害を起こす。鎖切断は一本鎖切断と二本鎖切断に分けられる。前者は正確に修復が可能であるが、後者は修正エラーや修正不能を起こし突然変異や細胞の死に結びつく。塩基への障害は直接に、あるいはDNAの誤修復などを介して、種々の突然変異をひき起こす。これは発ガンに関与したり、遺伝的影響に関係する。
 DNAへの放射線作用は線質によって異なる。X線やγ線の様な低LET放射線では直接作用によるDNA鎖の切断と、間接作用による種々の塩基への傷害を起こす。また、中性子α線などの高LET放射線による傷害のほとんどは直接作用が原因である。
 しかしながら放射線による影響は、生体内の標的DNAが存在する環境(温度、酸素濃度、クロマチン構造)によって異なる。

 

人間の命にとって、直接的も、象徴的にも、<切断するもの>としての<核>を考える。

 

 

六ケ所村への電源三法交付金320億(2011年までの総計)、固定資産税年間50億、

核がなくては生きていけない村。(鎌田慧

その背景には、核がなくては生きてはいけない連中の世界がある。

 

 

 

 

野添憲治『開拓農民の記録 日本農業史の光と影』(現代教養文庫) メモ

光と影  と副題にはあるけれど、開拓農民の記録を読めば、そこにあるのは、ほとんど闇の一語に尽きるではないかとすら思われる。

 

国策で満蒙開拓に送り出され、敗戦後に帰ってくれば、やはり国策で、どうしようもない荒地や、山奥を開拓地としてあてがわれ、ついには日本には生きる場所があいがゆえに、移民として海外に送り出されもする。

公害を垂れ流してもよい工業用地や原発の用地として目を付けられて、力ずくで、あるいは札束で顔をはたかれて開拓地を追われる開拓農民もいる。(いま、ここで、私は六ケ所村のことを念頭に置いている。野添さんは六ケ所のことは書いていないけれど)

そこにはいつも権力の都合と人々をコマのように動かすための甘言がある。

 

国家というのは、権力を握っている者たちというのは、経済を握っている大資本というのは、人の命をいったい何と思っているのかと、その答えはあまりに分かり切ったことで、わざわざ言うのもばかばかしくなるような、見るも無惨な光景の中に、”開拓農民”は放り出されている。(実のところ、それは”開拓農民”だけではない、すべての命がそうなのだということ。みんな自分だけはそうじゃないと思い込まされているけれど)

 

一九三六年三月に成立した広田内閣は、その「国策基準」のなかに南方進出とあわせて、満蒙への国策移民のいっそうの拡大を組み入れた。この時にたてられた満蒙への移民計画は、二〇年後の満州国推定人口を五、〇〇〇万人とし、その一〇パーセントを日本人によって占めようとしたもので、二〇ヵ年の間に一〇〇万戸を移住させようという厖大なものであった。(中略)この一〇〇万戸計画によって、はじめて「軍部と独占資本の癒着による国家総動員体制」が確立されたのであった。 P85

 

 

もう一つは、「鉄道路線と産業の推進によって、日本の対満投資はいちぢるしく増大し、(中略)しかもその投資は満鉄をとおしておこなわれたことから、満鉄の経営内容を圧迫するようになってきた。そのため、国防上の必要からさらに延長させる必要のある新路線の採算をとるうえにも、鉄道沿線への大量移民と、それによって生する産業開発がどうしても必要だったのである。 P86

 

日本の戦後開拓は一九七四年五月に通達されtあ「開拓地総点検実施要領」の制定をもって、一般農政への移行措置がとられて終結した。敗戦後の食糧不足や、都市部の戦災者や外地からの引揚者たちの生活する場として大きく貢献した開拓行政は、この時代に至ってもまだ安定した営農ができる開拓農家を生んでいなかった。(中略)それなのに政府は助成して独り立ちしていける農家に育成しようとせず、半ば強引に一般農政に移行させた。これで「戦後開拓」は終わり、特別な助成がなくなった開拓農家は、それまで以上の苦しい生活に追いやられていくのである。 P274 あとがき

 

高度経済成長を底辺で支える大量の肉体労働者は農山村から引っ張り出してくるよりないと考えた政府と資本側農民の六割を離農させて労働者にすることをねらった能郷基本法を一九六一年に制定した。(中略)当然だが、開拓地もねらわれたのである。政府と資本側はなんとしてでも農山村から農民を追いだそうとしたが、田畑を手放してまででようとはしなかった。最後に頼りになるのは田畑であることを、農民は知っていたからだ。そのかわりに出稼ぎが急増し、最盛期には八〇万とも一〇〇万ともいわれる出稼ぎ者が農山村から出た。   P275~276 

 

政府や大企業はさらに遠くへ視点を向けた。離農ではなく出稼ぎで生活を安定させる方法を農民が選んだのを見ると、さらに深い部分から人掘りをはじめた。それは出稼ぎ者よりも長期的に安定した労働力として、農山漁村の中学校や高等学校の新卒者を求めたのである。集団就職の専用列車が走りだしたのは、一九六三年であった。  P276

 

こうやって書き写していると、だんだんと暗澹とした気分になるのと同時に、明確に見えてくるものもある。

 

この国は、つねに、弱者に一番の重荷を背負わせることで、経済を支えてきたのだと。この国は、つねに貧しかったのだけれど、その貧しさを周縁の人々に背負わせることで、見かけ倒しの豊かさお享受してきのだなと。

 

この国だけではない。この世界自体が貧しいんだな。

奴隷がいなければ、植民地がなければ、踏みつぶしても殺してもいいと誰かが勝手に決めた民がいなければ、回らないのが私たちのこの世界であり、この世界のシステムなんだな。と、つくづくと思う。

 

奴隷でも、植民地の民でも、踏みつぶされるだけの虫けらでもない、命が生きるべき世を、じっと思い描く。山川草木鳥獣虫魚とともに、ぐるぐるとつながりあう命の光景を、真剣に思い描く。

 

 

 

 

六ケ所村をめぐる言葉  メモ  足尾鉱毒ー朝鮮窒素ー六ケ所を結ぶ

1969年8月 植村経団連会長

(開発予定地は)豊富な水資源と広大な土地に恵まれており、しかも公害の心配がないうえ、地価が安いのが魅力だ。

 

 

1971年 むつ小川原開発株式会社(三沢の地上げ会社) 伏見社長

開発がなければ、百姓はみじめだったよ。いまは昔のように娘は売れない。だから土地が娘の代りだよ。みんなおれたちのような”救いの神様”が、なんで自分のところにこないのかな、と思っているんだ。

 

 

1971年3月 財団法人むつ小川原開発公社設立 民間に代わって用地買収代行

当時の職員の回想  p73

かつて、公社が発足した当時、県庁の機構上からこの公社は、関東軍の再来ともいわれたものであった。事実、この関東軍は関係者の期待にたがわず、強固な団結力と行動力をもって勇猛果敢に戦った精鋭部隊であった。

 

農民は、いわば「匪賊」だった、と鎌田慧は書く。

 

 

1971年4月 むつ小川原開発株式会社(国 青森県 財界150社による設立) 

初代社長安藤豊禄(経団連 国土開発院長。かつて朝鮮で地域開発に携わる。)

――規模が大きいことのメリットはなんですか・

「これはね、いちばん大きいのは、公害を適当に配分することができるといいますかな、平均していちばんすくない公害ですむと、(後略)」

――巨大な地域なら、公害は発生しないのですか。

「発生するんですが、それはおそらく東京の何分の一でしょ、おなじ設備をやっても、そこがちょっといいとこですよ。公害でいいというのは、地図でみればわかるように、西と東が海になって空いてるでしょ。(後略)」

 

 

六ケ所村村長 寺下力三郎

(この人は一九三九年に朝鮮窒素に勤め、植民地の現実を見ている。

 植民地の現実に幻滅して1940年に帰国、養蚕指導員として足利に行き、足鉱毒の無惨な跡を見る。渡良瀬川氾濫後の田んぼに広がる白い沈殿物、足尾鉱毒

 

ーー村長としては先頭にたって反対する、ということですね

「そういうことですな。(中略)レベル以上を対象にこの開発計画に対処するか、それとも水準点以下の村民を基準にして開発計画と取り組むかと。(中略)ここでなければ暮らせない人間もたしかにあるものですから、その連中を主体に(後略)」

「国のほうでは、人柱とまでいかなくても、ここの四〇〇〇人や五〇〇〇人の人間は、あまり意に介してないようなフシもあるようですナッ」

 

 

寺下村長の植民地の記憶

春飢という言葉をこのとき知らされた。農民たちは、二〇戸、三〇戸とまとまって暮していたが、地主以外は、押すと倒れるような粗末な小屋に住んでいた。

歩きまわっているうちに、寺下さんは次第に工場建設が付近の農民たちを犠牲にした現実をしるようになった。このあたりにいた商人たちは場末へいってしまった、と古参の労働者がいうのも耳にはいった。開発する側と開発される側の断絶に気づかされたのである。

 

六ケ所村へ帰ろう、と決心した。あまりに植民地的すぎる、との憤りがあった。「五族協和」などといっても、朝鮮人を蔑んでいるだけだった。こんなところにいては人間が駄目になる、といたたまれなくなった。

 

「オヤジどんが」と彼は鹿児島弁でいった。職場には鹿児島県出身者が多かったからだ。「オヤジどんが、内地へ帰られますと、またあしたからいじめられます」

 悄然としていた崔青年の表情を、寺下さんはいまなお鮮明に記憶している。相手の名前さえまったく気にもとめなかった植民地の工場では、朝鮮人と日本人とのきわめて稀な交流、といいえた。

 

 

1971年1月1日 六ケ所公民館発行「わかくさ」 寺下村長の年頭の辞

「へき地とさげすまれ、へん地と笑い物にされはしたが、この土地で、幾百年とあい助け合い、ほそぼそと暮らしてきたわたしたちです。自分一人がよいことをするために、隣人を不幸にすべきではありません」

 

 

 

新全総閣議決定 1969年6月

寺下村長誕生 1969年12月

 

「開発というのは、どうしても現地の弱い人間を食って太っていくもんだ」

それが、興南、足尾、六ケ所村とむすぶ寺下村長の認識であり、政治信念となっていた。

 

 

 

1972年7月  寺下村長 衆議院建設委員会での言葉

(この言葉が国会の場でも、その外の世界にも届かないことの絶望を想う)

 

わたしは昭和十三年に北朝鮮ではたらいたことがございます。日本が大陸へ進出中のころでございます。その体験からこの開発の動向をみて直感しましたことは、いまでは忌まわしい記憶となったあの進出のやり方と、100パーセントとは申し上げられませんけれども、その手口はよく似ている、こういうことでございます。植民主義者といいますか、侵略者とでも申しましょうか、そうした人たちは現地住民に対話を必要としなかったわけでございます。

 もしあったとしても、現地の住民の反対の意見は聞く耳をもたない。民主社会における対話とは全く縁の遠いやり方であったわけでございますが、この開発でも、第一に開発の内容は全く巨大な虚構であるということでございます。こうした虚構を前提としたものに対話も合意もあるはずがない。

 またさらに重大なことは、自然破壊の前に人間破壊が意識的に先行して行われていることでございます。(後略)   p247

 

 

 

<おまけ>

墓前に笊に盛った馬糞を供える。

 = 地主に苦しめられた小作人たちの悲しくもユーモラスな抵抗の方法。(鎌田慧

 

 

 

久しぶりに シンボルスカを読む

「なんという幸せ」  沼野充義・訳

 

なんという幸せ

自分がどんな世界に生きているか

はっきり知らないでいられるのは

 

人はとても長く

生きなければならないだろう

世界そのものよりも

断固としてずっと長く

 

せめて比較のためにでも

他の世界を知らなくては

 

人をしばり、厄介なことを

生み出す以外には

何も上手にはできない

肉体の上に飛びあがる必要がある

 

調査のために

図柄の明快さのために

時間の上に舞いあがること

この世のすべてを疾駆させ、渦巻かせる時間の上空に

この見晴らしから

些細なものたちに、ちょっとした挿話たちに

永久の別れを言おう

 

ここからならば、一週間の日数を数えるなんて

無意味な行為に

見えるにちがいない

 

手紙を郵便ポストに入れるのは

愚かな青春のいたずらに見えるし

 

「芝生を踏むべからず」の注意書きは

狂った注意書きのように見えるはず

 

 

シンボルスカは1923年に生まれた。今年は生誕100年なのだな。シンボルスカは百年芸能祭の詩人と、勝手に決めよう。

 

 

 

「可能性」  工藤幸雄・訳


映画のほうが好き
猫のほうが好き
ヴァルタ*河畔の柏(オーク)のほうが好き
ディケンズがドストイェフスキイより好き
自分なら人好きでいたい
人類愛に燃えるよりは。
用心に針と糸を持ち歩くほうが好き
色は緑のほうが好き
言い切らないほうが好き
理性は万事に責任があるなどと。
例外のほうが好き
外出は早めのほうが好き
医者との話はそっぽな話題のほうが好き
古風な装画(イラスト)の線画のほうが好き
詩を書くことの滑稽を
詩を書かないことの滑稽よりも好む
恋愛で好きなのは何周年と割り切れない記念日
毎日するお祝い
モラリストなら
どんな約束もしない人がよく
好意なら抜け目なしが隙だらけよりも好む
大地は普段着の姿が好き
亡国のほうが滅ぼそうとする国より好き
留保するほうを好み
カオスの煉獄のほうが秩序ある煉獄よりも好きだし
グリムのお伽噺を新聞の第一面より好む
花のない木(こ)の葉を木の葉のない花よりも愛で
犬は尾のあるのが尾を切られたのより好き
目は明るいほうの色が好き(わたしのは暗い色なので)
抽き出しのほうが好き
いろんなものが好きで、ここに挙げなかったものでも
やはり挙げないたくさんのものよりもっと好き
ばらばらにあるゼロのほうが
数字のあとに並ぶゼロより好き
虫の時間のほうを星の時間よりも好み
「オドプカチする*」ほうが好き
訊ねないほうが好き、この先まだどのくらい、いつなどと。
生きることにはそれなりの理由があると
その可能性なりと気に留めるほうが好き

(工藤幸雄・訳)『橋の上の人たち』(書肆山田、1997年)より

 

【訳注】
*ヴァルタ: Warta オドラ川に注ぐ最大の支流。
*オドプカチ: 自慢やめでたいことを口に出した際、逆効果で不幸が至ることを恐れ、それを防ぐ目的で生木(塗らない板など)をとんとんと叩くおまじない。

 

「星の時間よりも、虫の時間」というシンボルスカに、石牟礼道子の「花を奉る」をふっと想い起こす。

 

 

「花を奉る」

生死のあわいにあればなつかしく候

みなみなまぼろしのえにしなり

おん身の勤行に殉ずるにあらず ひとえにわたくしのかなしみに殉ずるにあれば

道行のえにしはまぼろしふかくして一期の闇のなかなりし

ひともわれもいのちの臨終 かくばかりかなしきゆえに けむり立つ雪炎の海をゆくごとくなれど

われよりふかく死なんとする鳥の眸に遭えるなり

はたまたその海の割るるときあらわれて 地に這う虫に逢えるなり

この虫の死にざまに添わんとするときようやくにして われもまたにんげんのいちいんなりしや

かかるいのちのごとくなればこの世とはわが世のみにてわれもおん身も ひとりのきわみの世をあいはてるべく なつかしきかな

かかるいのちのごとくなればこの世とはわが世のみにてわれもおん身も ひとりのきわみの世をあいはてるべく なつかしきかな

いまひとたびにんげんに生まるるべしや 生類のみやこはいずくなりや

わが祖は草の親 四季の風を司り 魚の祭を祀りたまえども 生類の邑はすでになし

ゆめゆめかりそめならず今生の刻をゆくにわが眸ふかき雪なりしかな

 

 

今年2023年は、水俣の漁民が初めて日本窒素に対する抗議行動を起こして100年になる。