江戸期、「語り物」と出版はメディアミックスビジネスだったということ。(メモ)

『初期出版界と古浄瑠璃』(柏崎順子)という論文を読んでいる。

 

まず基礎知識。

 

古浄瑠璃の展開について。

①語り物の時代  街道筋で浄瑠璃が語られていた時期

②慶長・元和期  操り浄瑠璃成立の時期

寛永期(正保・慶安) 正本の刊行が開始される時期

④承応・明暦・万治・寛文期 創作の時代ー作者の登場

⑤延宝・天和期   宇治嘉太夫の登場

⑥貞享以降     竹本義太夫の登場により古浄瑠璃の世界から脱皮

 

 

◆正本刊行に先立って、慶長・元和期の古浄瑠璃演目のほとんどは、浄瑠璃以外の説経や舞曲でも語られていた。

「詞藻に限ればジャンル間の差は余りない」 (← これ重要)

 

浄瑠璃正本は、浄瑠璃専門に出版する浄瑠璃本屋による。

 浄瑠璃正本の本文には、寛永から正保にかけて、幸若舞大頭系の本文に依拠しているものが散見される。

 つまり、これは、正本本文が耳で聞いて採録したものではなく、明らかに書承によって成立したということ。そして、それは、出版書肆と浄瑠璃の関係があってこそのものだということ。

 

  書肆と浄瑠璃の提携関係!  両者一体の商業ビジネス!

 

「本屋は作品作りに関与し、浄瑠璃は舞台でそれを上演する。人気作品であれば、芝居も儲かり、本もまた売れたのである」

 

「本来は語り物である浄瑠璃を本文化できる体制、即ち興行界との繋がりが成立しているからこそ営業を開始できるわけである。つまりこうした新興の書肆が営業を開始する時点で、浄瑠璃との関係はあらかじめ約束されていたと考えられる」

 

浄瑠璃本を出版した本屋は「草紙屋」を自称していた。

 当時、草紙屋が出版する絵草子は、草子屋によって著された作品であった可能性大。とすれば、草子屋には既成の草子類のテキスト、挿絵、商品の集積があり、草子作りのノウハウの集積もあったはず。

 

浄瑠璃本を出版する書肆は、本文が集積していくセンターのような機能を有しており、他のジャンルの本文の作成にも関与していたと考えられる。さらにその書肆は浄瑠璃の興行界とも何らかの繋がりをもって営業を展開している形跡があり、単なる書肆としての営業というよりは、一種の芸能プロダクションのような機能をもっていたと考えられる。

 

まずはここまでで十分に、語り物は口承、正本は語りの再現という思い込みが打ち砕かれました。(この思い込みが、今まで、語り物の地理的な伝播を考える上で、想像力の壁になっていったことにも気づかされたという……)

 

そしてさらに、興味深いことに――

浄瑠璃界―書肆>の興行ビジネスの背景に伊勢商人の存在があるらしい……。

 

江戸-京都ー伊勢を結ぶ動き。

これはさらに仙台にまで伸びてゆく。(奥浄瑠璃につながる話だ!)

以下、その話。

 

寛永年間に伊勢嶋宮内という名の太夫が伊勢から江戸にのぼり、さらに京都にやってきて、太夫名の正本も残している。その正本を出しているのは伊勢出身の書肆山本久兵衛(京都)。山本久兵衛が、伊勢嶋宮内の正本を一手に引き受け。

 

正本製作にあたって、山本久兵衛はセンター機能をフルに発揮し、たとえば、「たむら」(慶安三年八月刊)を刊行するに際し、お伽草子「田村の草子」を借りて、親子二代の物語に再構成するのに謡曲「田村」の構想を用いている。

 

◆万治・寛文期に、江戸に和泉太夫浄瑠璃作者岡清兵衛のコンビが金平浄瑠璃を創り出したことで、江戸系の正本を京都でも刊行するという流れができる。(それ以前の草子とは逆の流れ)。

 

その際、京都の書肆による正本は、江戸の正本をもとに加筆・省略・改変を加えたもので、京都での語りの実演をもとにして成立したものではない。

江戸正本と京都正本は書承的につながっている。(←ここ大事)

つまり、京都の書肆が江戸正本の改訂編集に関わっている。さらには、舞台に先立って書肆がこのような作業をして、太夫に本文を提供していた可能性も高い。

 

◆万治・寛文期 浄瑠璃テキストは江戸から京都へ、草子テキストは京都から江戸へ、という流れがあった。そして浄瑠璃に関しては、江戸は日比谷横丁の書肆グループ、京都は山本久兵衛グループの両グループが提携している。このグループは、伊勢出身の太夫の正本に深く関わっている。(伊勢は語りの本拠地の一つなのだ)。

 

◆一方、当時、江戸には、通油町(現在の小伝馬町辺り)に新興の草子屋が次々と現れ、通油町の絵草子屋西村屋与八が、奥州に古浄瑠璃を製本して卸していた。

 

◆元禄期、通油町の書肆松会(伊勢出身)と仙台の書肆が協力して本の刊行をしている。

 

◆仙台でもっとも旺盛に出版活動をした書肆は伊勢屋半右衛門という。

 

伊勢商人は江戸を中継地点にして北関東や東北に流通ルートを持っていた。

 

この江戸と仙台の奥浄瑠璃、絵草子のつながりを考えるとき、その背景に伊勢商人の活動を考え合わせると、説明がつくのだと、論者。

 

当時の書肆がそういったプロダクション的な機能を持ち得ているのは、その経営自体に伊勢商人が関与していたことで、商売のノウハウや流通ルートも存在していたからであると考えれば、当時、実際に生じている様々な事象、江戸の書肆松会と仙台書肆との相合版出版、奥浄瑠璃と江戸の絵草子屋との関係、仙台の大手書肆伊勢屋半右衛門の存在等、その他多くの出版界における伊勢関連の事象が納得のいくものになるのである。筆者は江戸版について考察してきたなかで、万治年間あたりから江戸で次々と営業を始めた娯楽に供するような本を出版する新興の書肆が、主に木綿業に携わる伊勢商人が軒を連ねていた大伝馬町とその通りに続く通油町に集中しているのは偶然ではなく、同じ伊勢からやってきた商人、あるいは印刷職人のなかに、出版を手がけるものが現れた結果なのではないかと考えている。その中心的書肆である松会が伊勢出身である可能性が高いことも、その蓋然性を高めている。

 

◆以下、wikiの「伊勢商人」の項からの引用。

伊勢商人の屋号は主に「伊勢屋」「丹波屋」など。江戸では主に伝馬町界隈に出店する事が多かったようである。又江戸では伊勢出身の商人はかなり多かったらしく「江戸名物は伊勢屋、稲荷に犬の糞」と言われていた。

伊勢商人は、元々、戦国時代中期から日本に流入してきた木綿を全国に出歩いて行って売りさばいていた存在であった(一例として、本居宣長の実家・小津家がある)。当時の木綿は高級生地であったため、これらから得た利益が彼らを豪商と呼ばれる存在へと高めていった。木綿・呉服のほか、材木・紙・酒を扱った伊勢商人がおり、金融業・両替商となる者もいた。

伊勢おしろいも主な取引品目の一つである。

江戸時代前期に当たる寛永年間から中期に当たる元禄年間にかけて、続々と江戸や大阪、京に出店するものが現れた。これは江戸幕府による支配が安定し、経済制度の整備が進められたことを反映している。

 

◆同じく、書肆松会に関わること。

松会 三四郎まつえ さんしろう、生没年不詳

江戸時代地本問屋である。江戸最古の版元といわれる。

略歴

正本屋、草紙屋と号す。村田氏。元禄期、江戸の長谷川町横町、後に通油町で営業しており、江戸最古の書肆のひとつである松会市郎兵衛の後嗣と思われる。貞享ころから松会三四郎の代にかわる。慶安から享保期に幕府お抱えの書物方御用書肆となり、元禄までに200点に上る典籍を開版している。この版元の刊行物は「松会本」と呼ばれており著名である。

三四郎菱川師宣絵本を出版したことで著名であり、貞享4年の『江戸鹿乃子』には浄瑠璃本屋、元禄5年の『万買物調方記』には浄瑠璃草紙屋、元禄11年の『御役付武鑑』には御書物師として載っている。『和国三女』などにみられる「松会朔旦」の「朔旦」とは三四郎の号かとされる。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

今日、目にした言葉。メモ。

狂気は野生の状態では見出されません。狂気は社会の中でしか存在しない。狂気はそれを孤立化する感受性の諸形態、それを排除し或いは捕捉する嫌悪の諸形態の外に存在するものではないのです。-狂気は社会の中でしか存在しない-

                                byフーコー

御所市 水平社博物館へ。 とびとびスケッチ。備忘録

御所市 水平社博物館へ

 

水平社正面に西光寺

 

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神武天皇社]

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[あの小高い丘が用明天皇陵]

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[水平社博物館]

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[巡回展 先住民族アイヌは、いま]

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バートルビー

当然のことながら、小説はやはり読まなくちゃいけない。

当たり前のことだが、あらすじを知っていたとしても、そんなことには何の意味もない。wikiなんか見て知った気にならないほうがいい。(自戒を込めて)

しかも「バートルビー」、

あまりに語られすぎていて、「バートルビー」をめぐる語りに気を取られていると、その語りを呼び出した小説そのものを見失ってしまう。

 

柴田元幸訳「書写人バートルビー」を読んだ。

小説の中の語り手の声に耳を澄ます。

そもそも、バートルビーだけではない、語り手の事務所で働く書写人たちの誰もがとうていまともにも見えない。雇われている、ということを忘れているような者たちばかり。

その極致が書写人バートルビーということになろうか。

(同時にまた、雇い主である語り手本人もまた、そのふるまいは、ちっとも雇い主らしくない)

 

「そうしない方が好ましいのです」。

すべてに対して、婉曲な言葉ながら、まっすぐに「No」と言う。行動でそれを表す。

衝立の奥に静かに消える。

 

最初は書写以外のすべてのことを拒否、やがて書写そのものも拒否、命じられるすべてを拒否、書写事務所から動くことも拒否、ついには存在することも拒否。

 

バートルビーがなんと事務所を塒にしていることを知ったとき、語り手はこう考える。

生まれて初めて、圧倒的な、刺すような憂いの気分が私を襲った。それまで私は、快いとすら言える程度の哀しみしか味わったことがなかった。人間たることの共通の絆が、今や私を陰鬱な想念に導いていった。友愛ゆえの憂い! 私もバートルビーも、ともにアダムの子なのだ。その日目にした、白鳥の如く着飾って、ブロードウェイの大河を流れるように下っていく、艶やかな絹や光り輝く顔の数々を私は思い出した。そうした眺めを、青白い顔の書写人と対照させて、独り私は思った。ああ、幸福は光を招く。ゆえに我々は世界を華やかだと思い込む。だが不幸は人目につかぬ場に隠れる、ゆえに我々は不幸などというものは存在しないと思い込むのだ……。そんな物哀しい夢想が……明らかに、病める愚かな頭脳の産んだ幻影だったに違いない――バートルビーの奇癖を更なる想いにつながっていった。奇怪な発見の予感が、私の周りに漂っていた。かの書写人の青白い体が、彼のことなど一顧だにせぬ人々の只中に、震える屍衣に包まれて横たえられている情景が目に浮かんだ。

 

バートルビーは無為の塊になって事務所にいる。語り手はとうとう事務所を別の場所に移転する。バートルビーは事務所のあった場所から離れない。新しくその場所に移ってきた者が困り果て、バートルビーはついには拘置所に放り込まれる。拘置所では、事務所にいたときと同様、何もせず、拘置所の中庭の高い壁を見つめ、食べもせず、無為であることによって、すべてを拒んで、ついに息絶える。

 

後日談

あるささやかな噂が、彼の書写人の死後何か月か経って、私の耳に届いたのである。噂がいかなる根拠に基づくものかについては、何も確かめられなかった。したがって、これがどこまで真実なのかに関しても申し上げられない。だが、この曖昧模糊とした風聞が、私には妙に腑に落ちるところもなくはなかったがゆえに、きわめて悲しい噂ではあるが、他の方々にも同じように思われることもあろうと考え、ここで簡単に紹介しておきたい。こういう話である。バートルビーはワシントンの配達不能郵便取扱課の下級職員をしていたのだが、上層部が交代したため突如解雇されたというのである。この噂に思いを巡らすとき、私を捉える感情の強さはどうにも言葉にしようがない。配達不能郵便! それは死者のような響きがしないだろうか? 生まれつき生気なき寄るべなさに苛まれがちだったのが、身の不幸によってさらにその傾向が助長された、そんな男を思い描いてほしい。それをなお一層高める上で、配達不能の手紙を四六時中扱い、火に焼べるべく仕分けをする以上にうってつけの仕事があるだろうか? 荷車にどっさり積まれて、手紙は毎年焼却される。時折、畳まれた紙のなかから、青白い顔の郵便局員は一個の指輪を取り出す――それをつけるはずだった指は、もう墓のなかで朽ちつつあるのかもしれぬ。大至急に慈善を果たすべく送られた銀行手形――それによって救われたであろう者はもはや食べも飢えもしない。絶望して死んでいった者たちに赦しを。希望なく死んだ者たちに希望を。一時の安らぎもない不幸によって息の根を止められた者たちに良き報せを。人生の使いを携えて、これらの手紙は死へと急ぐ。

 ああ、バートルビー! ああ、人間!

 

あるいは、こうも言えるのだろう。

人生の使いを携えて、これらの手紙は詩へと急ぐ。

 

この「書写人バートルビー」の一編、それ自体が詩というものを語っているようにも思える。

 

 

『田村三代記』散歩/思わぬ津波の記憶 2021年9月20日 於)宮城郡利府町

『田村三代記』のうち、「第二段 悪玉御前の記」より、八幡神社流鏑馬の場面にまつわる話。

 

醜い水仕女 悪玉(実は盗賊の襲われ、奥州に売られてきた姫君)と田村二代将軍との間に生まれた子は、勢熊(千熊という表記もある)と名付けられ、悪玉の仕える九門弥長者の子として育てられる。

勢熊は、八幡神社流鏑馬の折に、卑しい悪玉の子と神社別当に辱めを受ける。

 

 

この悪玉と田村二代将軍と勢熊(千熊)にまつわる伝説の地が、宮城県宮城郡利府町

ここには染殿神社、伊豆佐比賣神社と、悪玉ゆかりの神社がある。

八幡神社は利府にもいくつかあるのだが、本文中には「八幡村八幡宮」とある。

それがどの八幡神社なのか、わからぬまま利府を歩いた。

そこで、まずは「八幡神社 流鏑馬」のくだり。

 

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若君は、九門弥が大切の世継ぎなればとて

一門一家を寄せ集め、吉日を選み(び)たて

もと、悪玉は、熊野より出でける者なれば

熊野の熊を象(かたど)りて、勢熊(せぐま)と名付ける

一年二年、早、過ぎて、七才となりければ

学問の為に、宮城郡に名も高き、龍門山道雲寺にぞ、登らせける

若君は、九門弥が大切の世継ぎなればとて

一門一家を寄せ集め、吉日を選み(び)たて

もと、悪玉は、熊野より出でける者なれば

熊野の熊を象(かたど)りて、勢熊(せぐま)と名付ける

一年二年、早、過ぎて、七才となりければ

学問の為に、宮城郡に名も高き、龍門山道雲寺にぞ、登らせける

さしも名高き九門弥が世継ぎのことなれば

供人、数多引き具して、御寺に至れば

住僧の御弟子となり、よくよく、学問怠らず

十四才になり給う

頃しも、今は、八月十五日、宮城郡八幡村八幡宮の御祭礼なり

流鏑馬弓太郎は、先年より、山の寺(洞雲寺)の子どもたりしが、

選み(び)出して候えば、

この度も、山の寺より出だすなり、

その日に当たりて、洞雲寺、

 

「今日の弓太郎は、誰にて

 勢熊こそ、弓の上手に候えば

 勢熊ならでは、叶うまじ

 八幡に参り、目出度く

 弓太郎を仕れ」

 

勢熊は畏まって、御請けし

さすが、長者の世継、装束は人々に優れ

一層目立って華やかなり

子供共を引き具して、八幡の宮へと参らるる

社内に至れば、水垢離すかき(をとり)

御身を清め給いて、神前を拝しける

全て、別当に対面ありて

互いに、式対(体)一礼(※会釈のこと)終わり

その後、別当、申しける様は、

 

別当)「今日の弓太郎は、どなたにて候ぞ 姓名を名乗られよ」

 

子供ども、答えて

 

「今日の弓太郎は、忝くも、山の寺の学頭 九門弥が世継ぎ、勢熊殿」

 

とぞ、申しける、別当、大いに腹を立ち(て)

 

別当)「何、勢熊が、弓太郎に来るとや

     九門弥が実の子、そなた(そのような)軽き者を

     ましてや、勢熊は、九門弥が子にて、子にあらず

     水仕女(め)の悪玉が子なるぞや

     左様の賤しき者を

     この庭の弓太郎とは穢らわしや

     早速、ここを、立ち退けよ、後を清めよ」

 

と、もっての外に、叱りつける

勢熊は、数多の中にて、別当に恥辱を与えられ

「憎き別当かな、己、只一撃に、打ち割りて、兎にも角にもなるべき」

と、思えども、いや待て暫し我が心、

短気は損の基いなりと、心で心を取り直し

唐土(もろこし)の韓信は市人の股をくぐり、漢の高祖に仕えて、

四百余州の臣下となり、さるによって、韓信が伝え置かれし事共を

思い出し、市人の股をくぐりて、末には、千人の肩を越ゆと承れば

勢熊も、ここにて、恥辱を取るとも、ついには、千人の肩を越えてくれん』

と、心を静めけれども(「史記―淮わい陰いん侯こう伝」)

「数多の人に、後ろ指、指されん事は、無念なり」と思って

九門弥が館へと帰らるる

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不思議なことも起こるもので、

利府の赤沼、菅谷、沢乙あたりを悪玉ゆかりの地をめぐって歩いて、

菅谷の道安寺を訪ねると、悪玉のことなら沢乙温泉のとある旅館の大将に聞け、と言う。

 

そこで旅館を訪ねると、大将不在(旅館の従業員の方は、「親方」と呼んでいた)、「親方」はいま、郷土史研究会のために利府の公民館に行っているから、そこに行けという。もう親方にはその旨伝えてあるから、大丈夫だと。

 

親方を訪ねていきました。すると、いま、まさに、郷土史研究会で「千熊丸」をテーマの発表を聞いているところだという。

 

奇遇ですねぇ、と言いつつ、研究会を中座して出てきてくださったので5分ほど立ち話。

 

その折、田村三代記の中の流鏑馬の舞台の八幡神社の所在を確認したところ、こんな話が飛び出したのだった。

「ああ、その八幡宮は利府ではない。多賀城の八幡社です。利府の八幡社は1000年前の地震のときに、津波多賀城から流されてきたご神体を祀ったもので、泥まみれだったので「泥八幡」と呼ばれているんですよ」

 

泥八幡!

 

あらためて調べました。

 

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参考) 多賀城 八幡神社

本社は宝永4年火災に罹り社殿並びに社蔵の古記録を失ったので由緒を詳にし得ないが、元正天皇養老5年諸国に国分寺を建立せられし頃、別当寺磐若寺と共に末松山に勧請したといわれる。又往古豊前国宇佐郡から奉遷した奥羽の古社で、延暦年中坂上田村麿東夷征伐の時数多の軍兵を率いて此地に逗留し建立したともいい、又本社は元松島に在り、類聚国史載する所の宮城郡松島八幡是也。田村将軍多賀城に在る日、之を末の松山に移し建て、以て祭祀に便すともいわれる。里俗末松山八幡宮、興の井八幡等と称した。社傍に田村麿軍兵を屯集せし所と伝える地を方八丁といい、頼義父子賊魁を征するや田村麿の例を以て兵を方八丁に置き此の社を祈って軍功あり、建保年中将軍頼朝其の地を平右馬介(留守伊澤氏の家人八幡介)に与う。右馬介城を末松山に築くにあたり社を今の地に遷した。当時祠田二千石子院二十四、祠官三十人といわれる。伊澤氏領土を除かれ社は遂に荒廃したが、羽州天童城主甲斐守頼澄伊達政宗の臣となり、慶長年中八幡の地に封ぜられるに及んで、伊達家の尊崇極めて篤く、貞享元年6月藩主綱村再造し祠殿を旧に復した。宝永4年の火災に罹った。藩主吉村の社参のことあり今に奉納の短冊並びに鉄砲玉を蔵している。祠側に騎馬場あり、伝えて千熊の騎馬をしたところという。千熊は田村将軍の子である。現今の馬場は元例祭の折、流鏑馬をしたところであったが今は行わない。郷社に列せられた年月は明でない。明治43年3月供進社に指定、後に二社を合祀している。

 

 

 

 

 

 

 

説経祭文「信徳丸」の春日大明神の謎が解けた。

今日は、ピヨピヨ団とともに、大阪は八尾の恩智、茶吉庵を訪ねた。

 

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HPには、
「ほんまもん」のアートが集まる 築250年の古民家、とある。
https://chakichian.co.jp/

 

19代目当主の萩原さんから恩智という土地の歴史(話は物部氏の頃からの反骨の物語としてはじまる)、
恩智における萩原家の歴史(池田三成の家臣。関ケ原後、恩知に逃げのびて、以来400年余。しかし、この土地では、400年くらいではまだ新参者なのだという……)、
そして、萩原さん自身の反骨精神に満ちた現在進行形の挑戦の物語を伺った。
茶吉庵は、とても気持ちのいい場所。

 

ここで何かを企もうとピヨピヨ団一同。

 

 

茶吉庵訪問前に、周辺地探訪。恩智神社を覗いた。
まず、もともと恩智神社のあった場所(天王の森)に、いまは小さな祇園さん(牛頭天王社)がある。

 

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そこから坂をずっと上っていくと、現在の恩智神社。建武年間に現在地に移ったという。

 

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アウトドアの画像のようです

          

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 アウトドアの画像のようです f:id:omma:20210914203723p:plain

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ここはもともとは、天児屋根命(通称 春日大明神)が常陸の国香取神宮から勧請され、それが枚岡神社春日大社へと勧請されていったいったのだという。(by宮司

 

現在、天児屋根命は境内の摂社に祭られている。(境内には、いろんな神社の分社もたくさん)。

それで、つまり、ここは、元春日社.。春日大社のおおもとの神社、というわけです。

 

そのことが興味深いのは、
説経祭文「信徳丸」では、継母が信徳丸に呪いをかけるために、高安から春日大明神へと深夜に祈願に行くのだけど、
高安から奈良の春日大社まで、女の足で行ったのか? と常々疑問に思っていたのだが、なるほど、ここなんだ、恩智の春日さんなんだ! と合点がいった。

 

しかも、説経祭文では信徳丸は天王原に捨てられる。(説経では四天王寺)。

恩智を歩けば、わかる。春日さんのすぐ下に天王森があるじゃないか!

さらに、聞けば、ここは河内木綿の産地で、小作人ですら蔵のある屋敷を構えていたという土地柄。芸能を支える冨や旦那衆いたんですね、きっと。

茶吉庵を訪ねるために、たまたまやってきた恩智で、思いがけなく長年の信徳丸をめぐる謎が解けたこの爽快感よ!!!

 

そういえば、茶吉庵19代目の話では、木綿の先物取引でみんなお金を持っていたから、八尾では賭博がさかんで、その胴元がお寺だったという……。

 

さて、恩智神社は別名卯辰の社。
うさぎと龍が神のお使いなんだそうです。
なので、狛犬代わりに、うさぎと龍。

卯は「東」を意味する。太陽ののぼる方角。
龍は水の神。水分(みくまり)の神。

このあたりは渡来人が上陸して、最初に集落を作っていったところで、

上陸地に住吉大社、住吉から見て朝日の昇る方角に恩智。

春分の日に住吉の浜から真東を眺めやれば、まさに恩智から日が昇る。

それを遥拝したのだという。太陽信仰。

だから、卯=東、なのでしょうね。

 

ジェイムズ・クリフォード『リターンズ 二十一世紀に先住民になること』 メモ

締切前だというのに、うっかりこの本の第二部「イシの物語」を読みはじめて、やめられなくなってしまった。

 

「最後のヤヒ イシ」をめぐる物語だ。

そもそも、イシとは、1911年8月29日に北カリフォルニアの小さな町オロヴィㇽで保護された先住民「ヤヒ」の最後の一人。イシは本名ではない。本当の名はわからない。

イシはカリフォルニア大学人類学博物館に守衛として雇われ、住み込みで働くようになり、ヤヒの技術の実演もしてみせた。彼は1916年に結核で亡くなり、遺体は解剖され、その脳はスミソニアン博物館に送られた。

イシと、カリフォルニア大学の人類学者アルフレッド・クローバーとその仲間たちとは友情で結ばれていた、という。

 

さて、20世紀初頭、消滅する運命とされていた先住民は、21世紀の今、新たな生存戦略を繰り広げ、(アイデンティティの再生、伝統文化の観光化、先住民カジノまである……)、そして、21世紀の先住民は、「イシの物語」を、先住民の再生の物語として語りなおしてゆく。

かつては先住民の死の象徴だったイシの四散した遺骨を取り戻すこと、イシの帰還は、21世紀の先住民の活力、再生の象徴となる。

 

「イシの物語」は、最後の先住民の物語ではなく、最初の先住民の物語へと読み替えられる。

 

ところで、そもそも、イシを「ヤヒ」という部族の名で呼んだのは白人だ。

カリフォルニアの「部族」は二十世紀の初期に形作られた。それまで先住民カリフォルニアは、強力な地方性を帯びるとともに、地球上でもっとも言語に富んだ地域であった。(その言語地図が人類学者らによって作られた)あらゆる地図がそうであるように、この地図もまた特定の現実を投影していた。くっきりした境界線によって、社会文化的な単位に正確に合致しない言語や方言は消去されていた。現地の諸社会は実際には多孔質であり、交易、親族関係、多言語使用、間部族的集会などによって横断されていた。しかも、言語によって定義された領域の内部には、ときに多くの方言があり、互いに非常に理解が困難なものも存在していた。イシの時代には、人々はコミュニティを区別するのに、「われわれはヤナだ」とか「われわれはカロックだ」などと言うよりも、現地の地名や族長の名前を用いていた。言語と文化をイコールでつなぐ一般的な習慣は、より複雑な様々な帰属関係を単純化しすぎている。(中略) しかし、地図が完成してからは、こうしたどちらかというと流動的な集団区分は固定化され、政府から課された「部族」認知の政治のなかで機能させようとする、強い圧力のなかで制度化されてきた。

 

⇑の話は、21世紀のいま、イシの遺骨が帰還するべき先住民がどの部族なのか、という問いにおいて、浮上してきた問題。

 

さて、クリフォードが差し出す数多くの論点をほとんど端折って、ル=グインを介してクリフォードの語る先住民の眼差す「ユートピア」のこと。

 

植民地化の後に「先住民」になること。変容した場所で伝統的な未来を作りなしてゆくこと――このようなプロセスはル=グインの非単線的なユートピアの実例となっている。

 

ル=グインの鋭い読み手であるフレドリック・ジェイムソンは、資本主義的な物象化の世界におけるユートピアの必要性を繰り返し語っている。オルターナティヴな展望は、与えられた現実を超えて、不可避で自然なもののように見える「現実」の外で考え、感じるための道具である。ユートピアは様々に異なった形をとる――それは万人にとっての遠い未来や次に必要なステップに言及する必要はない。最近のイシの物語の再開は、現在存在し、現れつつある「先住民主義」の諸空間に依存している――ユートピア的な、あるいはおそらくヘテロトピア(別の場所)的な諸現実である。消えゆく定めにあると想定されていた人々や歴史は、日に日に生きたものとなっている――前に、横に、そして後ろへと動き、進歩の単線的な観念を侵犯している。先住民の――古いと同時に新しい――出現しつつある諸空間は、縺れ合い、折衷的で、思いがけない複数の歴史によって構成されている。

 

そして、クロノトープという概念。

 

彼の物語は単に一人の男の物語であったことはない。イシが知られるようになった時点から、彼は神話だった。(中略)

ここではミハイル・バフチンの提唱する「クロノトープ(時空関係)という概念が示唆的かもしれない。ひとつの語りが一貫性の感覚をもって展開されるためには、それがどこかで「生起する/場所を持つ」必要がある。この空間的枠組みは、時間の流れを封じ込め、調整するひとつの方法である。イシの物語がそのなかで最初に語られた時間/空間、すなわちその歴史的「現実性」は、目的性を備えたひとつの場所である、博物館というクロノトープだった。この設定は、彼が公的生活を送ったサンフランシスコの人類学博物館事態にとどまらず、価値があるとされた記憶やモノが集められ、決して逆戻りすることのなくひたすら前進する単線的進歩から救出される場所としての「博物館」であった。保存する価値のある事物の終の棲家としての博物館は、最後の行先である――したがって、それは不動性と死に結びつく。

 

(中略)

 

今日では、このクロノトープはもはやイシの物語を閉じ込めてはいない。じっさい、博物館はいたるところで、文化財返還要求、帰還事業、マーケティング、商業化などの圧力のもとで、流動的で不安定、かつ創造的な「接触地帯」になっている。

(中略)

イシの物語はいま、救出された過去についての物語であるのと同じくらい、先住民の複数の未来についての物語である。そもそも、「進歩的」変遷を調整していた過去と未来のとの対立全体が、部族再生の文脈のなかで揺れ動いている。時間は循環的な、系譜的な、螺旋状のものとして経験されている――終わりなき帰還というクロノトープである。

 

 

この部分を読む私は、たとえば、石牟礼道子苦海浄土』をいかに複数の未来についての物語として読むか、というふうに考える。

たとえば、気仙沼リアスアーク美術館に展示されている「被災物」の記憶、震災の物語を、いかに複数の未来についての物語へと編み直すか、ということも考えている。

 

「二十一世紀のカリフォルニアで、新たな仕方で先住民になることは、インディアンの差し迫ったプロジェクトである。維持するべきもの、要求されるべきもの、再生されるべきものはたくさんある」とクリフォードは書く。

 

この言葉は、先住民が「先住民」」になること以上に、

この地球上に生きる私たちみなが「先住民」になるというプロジェクトを語っているものなのだと受け取りたい。

いかにして、単線系の進歩の時間を超えて生きるのか、と。

 

そして、クリフォードがよく引用する、アラスカの先住民アルーティクの長老が語ったという ⇓ の言葉は、

津波もまた暮らしの中に織り込んで生き抜いてきた三陸の風土を思い起こさせもする。

自然災害の津波だけでなく、人為的災害(もしくは近代の災禍)である「復興」に襲われている三陸も。

 

我々の民は、何千年ものあいだ、幾多の嵐や災害を生き抜いてきました。ロシア人以降のあらゆる苦難は、一続きの悪天候のようなものです。他のあらゆるものと同じで、この嵐もまたいつの日か過ぎ去ってゆくでしょう。

              ――バーバラ・シャンギン、アルティークの長老、

                       チグニク・レイク、一九八七

 

クリフォードはこの言葉について、以下のように語って『リターンズ』を締めくくっている。

 

彼女の言葉は先住民の未来について答えようのない問い(こんな悪天候の後になにがやってくるのか?)を繰り返している。ひとつの問いを、そしてまたひとつの希望、何があろうとも姿を現す、ひとつの希望を。