2018年夏 UBCにて。 コリアン・ディアスポラをめぐって

(随想) 記憶の森より歌の流れる……

 

 

あなたは知っているだろうか、

封じられた声、踏みつぶされた記憶たちが息をひそめて潜んでいるひそかな森があることを、

ひそかな森には、無数の静かな歌声の流れていることを、

命は踏まれるほどに、生きぬく歌を宿すことを、

 

目には見えないひそかな森への導きの糸は、絶えることなく歌いつづける命の歌声、

さあ、耳を澄ませて、森へ行こう、命の記憶のほうへと旅に出よう、

 

                  ◆

 

旅のはじまりは、カザフスタンから東京へと送られてきた一編の映像でした、

20世紀の最初の年のことでした、

ウズベキスタンの農村で撮影されたというその映像には、1902年に日本の軍楽隊で作られた3拍子のメロディに乗せて、朝鮮の言葉で望郷の思いを歌う人々の姿があったのです、

 

 

彼らは高麗人、

1937年にスターリンによって、日本とソ連の不穏な国境地帯である沿海州から、中央アジアへと追放された20万人の朝鮮人の末裔、

ソ連が崩壊するまで、彼らがその追放の記憶を語ることはなかったけれども、

彼らが歌いついできた望郷の歌が、そこに空白の記憶があることを指し示しつづけていた。

 

朝鮮の言葉で歌われるその歌を、彼らは朝鮮の言葉で「故国山川」と呼び、

ロシア語で「ノスタルギーヤ」と呼んでいました。

 

                 ◆

 

そもそも、この歌は、「美しき天然」という名で、日本の自然の美しさを讃える歌であった。

 

     空にさえずる鳥の声、峰より落つる滝の音

     大波小波 滔々と 響き絶えせぬ海の音

 

ところが、それが植民地朝鮮に渡った時、その歌詞はたちまちさまざまな望郷の歌詞に変じていく、流浪の民とともに遥かな旅を生きるようになる、3拍子の揺れる足どりで。

 

 

      

高麗人「故国山川고국산천nostalgiya

  고국산천를  떠나서 수천리 타향에

          산 설고  물선 타향에 객 정하니

          섭섭한 생각은 고향뿐이오

          다만 생각나오니 정드는 친구요

 



                   ◆

 

 

私は「ノスタルギーヤ」を歌う人々を訪ねて中央アジア、ロシアを漂い歩きました、

 

2004年、カザフスタンの旧都アルマトゥイで出会った高麗人のお婆さんは、朝鮮の言葉で「長恨夢歌」を歌い、「籠の鳥」を歌った、

それはどちらも「ノスタルギーヤ」と同じくらいに古い日本の流行歌のメロディで、

お婆さんはそれが日本生まれの歌だということは知らない、

植民地朝鮮で盛んに歌われた歌だということも知らない、

とはいえ、ともに長い旅を生きぬいてきた歌は、もはや旅人たちのもの、

出自よりも、そこに宿る記憶にこそ意味がありましょう、

 

お婆さんは、「古い歌だけどね」と言いながら、「種をどんどんまけ」という歌も朝鮮の言葉で歌ってくれた、

それは1933年に沿海州で生まれた歌、

沿海州の大地に水田や畑を拓いていく希望にあふれた日々の歌、

1937年の中央アジアへの追放後には、塩を吹く乾いた大地を開拓してゆく苦難の日々の歌。

 

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長恨夢歌(1925年朝鮮にてレコード発売。 日本語原曲「金色夜叉の唄」1918)

~籠の鳥(日本語原曲は1922年)~種をどんどんまけ (1933)

 

                 

     ◆◆◆

 

南ロシアのロストフで、サハリンから流れてきた韓人の老夫婦に出会ったのは2003年の夏のことです。

彼らは朝鮮語もロシア語も日本語ほどには話せない、

彼らは、サハリンが樺太と呼ばれていた頃に、大日本帝国の臣民として生まれ育った、

そして、ある日突然国境線が勝手に動いて、ソ連市民になった、

 

彼らはいまでも日本語で「ノスタルギーヤ」の原曲を歌い、日本語の「ふるさと」の歌を歌い、日本語で「ここに幸あり」と歌う、

彼らが懐かしむふるさととは、かれらの記憶のなかだけに今も存在する小さな日本、けっしてたどりつけない樺太なのでした、

 

ロストフでは、ソ連崩壊後に高麗人にとっては生きづらい場所となったウズベキスタンから流れてきた人々にも出会いました、

しかし、何が生きづらくて、ふたたびの流浪なのか? 

ソ連で生きぬくためにロシア語の民となった高麗人にとって、ソ連崩壊後にウズベク語の国となったウズベキスタンは、瞬く間になじみがたい異郷となりました、

 

ロストフの高麗人は、日本から来た私を歓迎して、韓服を着て「ノスタルギーヤ」を歌い、「モスクワ郊外の夕べ」を歌い、「パンガプスムニダ」を歌い、「アリラン」を歌った、

実を言えば、彼らは「ノスタルギーヤ」よりも「モスクワ郊外の夕べ」のほうが好き、

「パンガプスムニダ」は韓国から宣教師や文化院がやって来る前に、北朝鮮から入ってきた歌。今は宣教師から韓国の歌を教わる。韓国からは教会だけでなく、韓国文化院もやってくる、企業もやってくる、明日への夢がやってくる、

そして「アリラン」、

コリアンディアスポラと言えば「アリラン」、と私たちは連想しがちですが、高麗人にとって「アリラン」は、ディアスポラというよりも、深まりゆく韓国との結びつき、韓国への期待を示す歌のようでもあります、

 

あの頃、ロストフに、そんな彼らの揺れるアイデンティティの歌声が流れていた、

 

2011年、東京で、タシケントからやってきた高麗人ジャーナリストが携えてきた、高麗人たちの映像を観ました、

私はその映像で、高麗人たちが、みずからを「韓国人」と名乗る声を初めて聴きました、

それは韓国で上映する目的で作られたプロモーションビデオのような映像でした、

ロシア語をしゃべるタシケントの高麗人たちの口から放たれる「韓国人」という響き、

それはとても不思議な響きでした、

 

タシケントの有名高麗人ブロガー ブラディスラフ(Владислав の「実は僕は大人になるまでアリランを知らなかった」という告白を聴いたのは、2018年の初夏のこと。

 

                 ◆

 

今もなお旅を生きる者たちは、どんな歌をみずからの歌として歌っているのだろうか、

 

あのひそかな記憶の森には、今も絶えることなく、封じられて、捨てられて、踏み潰された無数の記憶が息をひそめて潜んでいるのではないだろうか。

 

今も絶えることなく、力ずくで記憶を盗む者、書き換える者たちに抗う声がそこには静かに静かに響いているのではないだろうか、

 

誰の耳にも聴こえる大きな声の歌だけが、歌なのではない

 

耳を澄ませて、もっと澄ませて……

 

              ◆

 

思えば、

私たちが生まれ落ちたこの近代という時代は、線を引いて人間を囲い込む時代であったと同時に、線の外に放り出された人間たちのさまよいの時代でもありました、

放り出された者たちは、放り出された先でもまた、囲い込んだり囲い込まれたり、放り出したり放り出されたりして、生きてきた、

囲い込みの衝動はくりかえしやってきて、

囲い込むたび、囲い込まれるたびに、囲いの根拠としての記憶があてがわれて、

囲いを確かなものとする言葉や歌も作りだされて、

それは果てしない、

 

囲い込まれたくもなければ、放り出されたくもない、ここでもそこでもない場所で生きてゆきたい孤独なわれらは、縛られるのか、ふりほどくのか、さまようのか、攪乱するのか、おわるのか、はじめるのか、

 

旅を生きるとは、つねに、そんな問いとともにあるということなのだ、

問いの前には、つねに、はじまりの荒野が広がっているものなのだ、

 

はじまりの荒野には、ひそかな記憶の森、抗う命の声、

さあ、耳を澄ませて。

『いつか、この世界で起こっていたこと』(2012 黒川創)

黒川さん、チェホフが好きだけど、チェホフ好きな自分がいやなのかな。

詩人アンナ・アフマートヴァみたいに。

 

私もチェホフは好きです。「曠野」とか「学生」とか、とても好きです。

 

たとえば、「学生」。

実家のある田舎の村に帰ってきている神学生イワンは、焚き火のそばにたたずんでいる顔見知りの村の女ワシリーサに話しかける。

「ちょうどこんなふうに、あの寒い夜に使徒ペテロは焚き火に当たって暖をとっていたんだろうね」「その時も寒かったわけだ。なんとおそろしい夜だったろう! どうしようもなく気が滅入る長い夜だった!」

そして、学生はペテロの三回の裏切りの話をはじめる。

最後の晩餐でペテロはイエスにこう言われる。「あなたは今日、鶏が鳴くまでに、三度わたしを知らないと言うだろう」と。ユダに売られて、大祭司のもとに連行されたイエスの後を追ったペテロは、中庭の焚き火に当たりながらイエスを一途に思っている。ところが、共に焚き火に当たっている人々に、イエスの弟子だろうと三度尋ねられ、三度「わたしはあの人を知らない」と答えてしまうのだと。「そしてペテロは外に出て、激しく泣いた」。そう学生は語った。

そのとき、話を聞いていたワシリーサの頬を大粒の涙が流れる。

 

焚き火がある。1900年前のペテロとおなじように、焚き火に当たるワシリーサがいる。ペテロの身に起きたことに、きっと何か思い当たる節のあるワシリーサが、いまペテロを想って泣いている。

「千九百年も前の出来事が現在とつながりを持っている。(中略)つまりこの二人にも、いや、おそらく、この荒野の村にも、彼自身にも、あらゆる人々にも関係しているのだ。」

「過去というものは、次から次へと起きる出来事の途切れることのない連鎖によって、しっかりと現在と結び合わされている」

「そして、自分はたった今その両端を目にしたような気がする。一方の端がふるえると、もう一方の端がぴくりとふるえたのだ」

 

この「ぴくりとふるえる」感じ。つながって、関係して、連鎖している感じ。

それが、『いつか、この世界で起っていたこと』に収められている短編のすべてにある。

 

 

そして、チェホフが好きで嫌いな、アンナ・アフマートヴァの流儀も全編にある。

監獄の前に並ぶ女たちには、顔がない。感情を表に出すことで、国家権力からそこに不穏な意味を読みとられることを恐れて、仮面をかぶったような沈黙の集団となる。

ある日、列のなかで、一人の女が影のように近づき、アフマートヴァの耳もとでささやいた。

「あなたはこのありさまが書けますか?」

詩人は、

「できます」

と答えた。

すると、かつてその女の顔であった仮面の上を、微笑のようなものがかすめた。

                       (「チェホフの学校)より)

 

 

「泣く男」のラストもいい。 

大統領(ニクソン)は、彼(エルヴィス)を持てあましてしまった様子で、なかば逃げ腰に、こう言っている。

「なんだか変わった服装ですね?」

エルヴィスは答える。

「あなたにはあなたのショーが、私には私のショーがあるんです」

 

チェホフ+アフマートヴァ。

『三人姉妹』のような関節外しはない。

オリガが祈りを込めて、

「時が経って私たちが永久にこの世をあとにすれば、私たちのことは忘れ去られてしまうんだわ。でも、私たちが味わったこの苦しみは、私たちのあとから生まれてくる人たちの歓びに変わっていき、やがてこの地上に仕合せと平安が訪れるの。そのときには人々は今生きている私たちのことを感謝をこめて思い出し、きっと祝福してくださるわ。(中略)もう少し経てば、私たちが生きてきた意味も、苦しんできた意味もきっと分かるはず……」

その言葉への応答として呟かれる声が

軍医チェブトゥイキンのこの言葉

「どうでもいいさ! どうでもいいさ!」

 

黒川創は、おそらく、けっして「どうでもいいさ!」とは言わない人だと思う。

歌集『月陰山(タルムサン)』(1942)尹徳祚のこと

歌集『月陰山』。

これは、植民地において最初に朝鮮人によって編まれた歌集。

尹徳祚は、2024年刊の『密航のち洗濯 ときどき作家』が基にした日記の主である尹紫遠と同一人物。

 

戦後、生きる術を求めて日本に密航してきた尹紫遠は歌を詠むことはなかった。

ひたすら小説を書こうとした。

植民地期末期、まだ解放の日が訪れることも、解放が悪夢になることも知らなかった尹徳祚は、こう書いている。

私は、ひそかに短歌の世界に自分の生命の絶対地を求めようとした。これによって、打ちひしがれたような自分の魂に安住の地を与えようとした。狭量で、疑い深く、然も何ものかにおびえて、常におどおどしている自分の魂の済度を見出そうとした。

 

しらじらと明けゆく海よ遠かすむ果ての山は月陰山か

 

世をさけて月陰山のふもとなる院里のはづれに住める兄かも

 

客死せしその友の父と語れどもつひに客死のことには触れず

 

深渓にわく水見れば人の世の興亡治乱も忘るべきなり

 

逝くものは逝かせてしまひて静かにも夏を迎ふるふるさとの江

 

■月陰 という山の名に漂う世の果ての気配。ふるさと朝鮮のイメージ。

ここでの静かな諦念は、密航後の尹徳祚にはもうないようにも感ぜられる。

 

(日本は)それでも今の朝鮮よりマシかも知れない。乞食とドロ棒ばかりがふえてゆく朝鮮。民衆の生活とはエンもゆかりも無い政治。(……)彼(李承晩)が支配するかぎり、南朝鮮に自由や希望や発展なんかあるもんか。考えてみれば李承晩ばかりでじゃない。きのうまで<日本人>になり切っていた奴らが、今ではアメ公になろうと目を皿のようにしている。そうして、そういう奴らが社会の重要な地位にのさばり返っていることも事実だ。だが、しかしだ。だからと言ってこのおれは日本へ密航していいのだろうか。(尹紫遠『密航者の群れ』より)

 

諦念に安住することすらできない、混乱の、宙づりの世界から、いったいどこに密航しようというのか。

日本への密航は、完結することない密航のようでもあり、そこで尹は歌を詠まない。

そんなことをつらつらと考える。

あらためて、金時鐘の短歌の抒情批判を想い起こしつつ。

 

尹徳祚の歌が、たとえ日本的抒情とは異なるとしても、もはやあてのない密航を生きる尹徳祚あらため尹紫遠には、歌うべき抒情を見つけかねたようにも思える。

 

 

 

 

 

2024年2月18日 パレスチナ連帯散歩 by 百年芸能祭関西実行委員会

団体行動が苦手、人がたくさんいるところが苦手、

でも、家でひとりでできることをするだけでは、もう耐えられない、

耐えられずに、街に出て、もう耐えられないぞと、誰かれなく囁きかける、

そんな〝パレスチナ連帯/植民地主義にもジェノサイドにもサヨナラ/ふざけるな/殺すな゛ぶらぶら散歩をすることにしました。

 

類友である百年芸能祭関西実行委員会の友人たちも、

やはり耐えかねて、一緒にぶらぶら散歩をすることになりました。

 

一緒にぶらぶらしますが、ルールはないし、みんな気ままで、つるまない。

 

どこをぶらぶらしようか?

天神橋筋6丁目商店街(略して天六。ここはすごく長い)がいい。

駅前から好き好きに店を覗いたり、立ち止まったり、立ち話ししたり、

最終的に扇町公園を集合地としよう。

公園は親子連れが多いはず、フラッシュモブして音楽奏でて歌って、さささーっと消えようか。

くらいの決めごとをして、歩きだしたのでした。

めざすは、日常の中にゆるゆる分け入る連帯行動、です。
われらが昨年から立ち上げた百年芸能祭の流儀そのままの振舞です。

 

さて、私は奈良のわが家を出たところから、連帯ぶらぶらを開始。

 

 

 

2月18日午前11時 

天神筋橋六丁目駅前に集まったのは8名。
さあ、散歩が始まります

 

パレスチナ連帯散歩 全編】

これ20分と長いから、この映像から抜いた「扇町公園編」と「マレビトと共に祈る編」も「全編映像」の下に貼りつけます。

 

駅前から歩きだして、五匹のネコさんたちにいきなり捕まったり、

ネパールの服やら雑貨屋やら仏具やら楽器やらが置いてある店を覗いたり、

BIG ISSUEの販売員のおっちゃんと語らったりするうちに、

一同、三々五々、扇町公園にたどりつくわけです。

 

扇町公園では、連帯散歩の連れの一人、はぐれ山伏八太夫の法螺貝の音を合図に、

親子連れのみなさんに向けての、メドレーのはじまりはじまり!

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変な人たちが、変なことをしているなぁ、みたいな空気も確かにありました。

いや、いいんですよ、もともとこの世のはずれで生きているようなものですから、私も、散歩仲間も。

今日は妙な人たちが、ガザだとか、パレスチナだとか書かれたゼッケンみたいのを胸や背中に貼りつけて、♪♪アンアンアンパンマン♪♪と叫んでたとか、どんな形であれ記憶に残れば、何かの拍子に思い出したり、ふとガザに思いを馳せることもあるでしょう。

 

そうそう、散歩仲間のなかにはマレビトもいたのでした。

マレビトは声もなく踊りますが、その踊り自体が声を放っています。

マレビトが踊り出すと、おのずと散歩仲間のピアノ弾きがアコーディオンでロマの旋律を奏ではじめました。山伏が法螺貝を吹きはじめました。地を這う踊りは、地を這う祈りです。私たちは祈りました。公園もきっと祈ったことでしょう。

いきなり、いつもの公園とは違う風が吹いて、小さな少女がひとり、マレビトが怖いと泣きました。ごめんね、女の子ちゃん。

 

youtu.be

 

団体行動が苦手、人がたくさんいるところが苦手、

同じ言葉をみんなで同じリズムで叫んだりすることが苦手、

同じリズムで足並み揃えて行進したりするのが苦手、

そんなはぐれ者たちでも、もうとても耐えられない、

と、街に出て行くこともあるのです。

2024年2月18日はそんな一日でした。

 

この日、慣れないことをした私は、家に帰り着くなり、ベッドに倒れ込み、死んだように眠りました。

夢の中でも、私はぶらぶら歩いていました。

夢の中でも、そうやって祈っているようでした。

 

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旗のない文学――朝鮮 / 「日本語」文学が生まれた場所 

面白いな。

金達寿ら横須賀在の朝鮮人たちは、解放後すぐに旗を作ろうとして、太極旗の四隅の「卦」がわからなくて、それを覚えている古老を探しまわったのだという。

 

植民地の民に、旗なんかなかったんだね、朝鮮人の文学も日の丸以外の旗なんか立てようがなかっただね、

 

で、「そもそも、文学とは「旗」のようなものではなかった」と黒川創は言う。

そして、「緑旗連盟」と題された、実は旗なんかどこにもない植民地の民の小説について黒川創は語りはじめる。

うまいなぁ、この展開。

 

(その一方で、国家に抗する黒い「怨」の旗を掲げた石牟礼道子を私は思い起こす。それはそれとして、)

 

旗を立てる文学を強要された時代の書き手、とりわけ植民地の書き手の、

旗を立てたふりをしつつ、実は旗を降ろした文学、という困難な試みがあるわけで……

 

それは「転向」の問題にもつながる。

 

例えば、李石薫。

黒川創いわく、

「日本支配に同調したが、彼のなかでは、絶えずもう一つの霊がささやく。李は、その小さな声に耳をふさがず、記録しようとする作家だった」

 

あからさまに旗が立つ「短歌」のようなジャンルは?

その問いの背景には、小野十三郎、そして金時鐘が徹底的に批判した短歌的抒情がある。

 

現在ではハイク(俳句)は国境を越えて、アメリカ大陸やヨーロッパのさまざまな言語や生活史をもつ人々に受けとりなおされ、抒情や詩型のありよう自体も変えてきた。同じように、短歌にも転生を遂げる道筋はないのか。(黒川創

 

大道寺将司の俳句を、ふと思う。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

サハリンの日本語文学 李恢成 /「日本語」の文学が生まれた場所

 

 

植民地支配という近代日本の負債を通して、サハリン(樺太)の日本語文学は、非日本人の作家・李恢成へと引きつがれた。

 

黒川創は書く。なるほど、確かにそうかもしれない。

 

1981年にサハリンを訪れた李恢成は、現地で会った師範大学で経済学を教える朝鮮族の教授が、東北弁をベースにした日本語を話したと書いている。

 

それを受けて、黒川創はさらにこう書く。

いまはもうない場所の言葉、いまではほかに誰も使っていない言葉を、サハリンで日本国籍からソ連籍になった朝鮮民族の一人が、使っている、李恢成の文学の日本語は、こうした言葉と歴史の堆積を、背景に持つ。

 

この逸話に、南ロシアのロストフで2004年に出会ったサハリン韓人夫婦の日本語を私は思い出した。彼らの話す日本語は、たとえて言うなら、夫は笠智衆、妻は原節子。小津映画に登場するような日本語の使い手だった。

それを聞いて、ああ、昭和の日本語……という感慨を抱いたのだった。

彼らは子どもの頃、サハリンの国民学校に通っていた少国民だった。

両親は彼らのようには日本語を話せなかったという。

この夫婦は、文部省唱歌「ふるさと」を歌い、彼らにとっての故郷サハリン、故郷日本を懐かしんだ。

 

この夫婦と出会ったことがきっかけとなって、私もサハリンを旅した。

残留韓人を訪ねた、残留日本人も訪ねた、炭鉱も訪ねた、ウィルタも訪ねた。

基本的に国民学校で日本語を学んだ世代の日本語は、南ロシアで出会った夫婦と変わらないものだった。もちろん、李恢成が出会ったような東北弁ベースの人々もいた。それはやはり東北ルーツの人々の暮らしの言葉として伝承されてきたもの。

思い返せば、サハリンの日本語世界も、極私的なものから、公的なものまで、さまざまな階層があったのだということに、気づかされる。

そして、教育によって日本語を身につけた植民地の民の日本語は、ほぼその時代の標準語なのだということ、根なしの日本語なのだということも、忘れずにおきたい。

 

 

 

 

 

 

 

 

「日本語」の文学が生まれた場所 をめぐって

植民地空間に生まれた「日本語文学」は、

やがて、それが、「皇民」か否か、国家に益あるものか否かが問われ始める。

政治権力と文学の関わりのなかで、収まりどころのない宙ぶらりんの意識が、

生みだす文学がある。

 

言いかえるならば、国家と結びついた確固たるアイデンティティが求められる状況の中で、揺らぐアイデンティティによって紡ぎだされた境界上の文学があった。

 

戦時中の台湾の「皇民文学」をめぐって、黒川創はこう語る。

戦争の下でこれら(皇民文学)を書いているのは、周金波がそのとき満21歳、王昶雄が27歳と、時代に早熟を強いられた作家たちである。周金波が、自分たちの世代の文学のありようとして読んだ”皇民文学”とは、このように極端なまでに加圧された空間のなかで営まれる創作の行為全般を、その当否を問わずに指すものである。

 

文学に国境が生まれ、どの国境にも収まりがつかない文学が生まれる。

饒舌の下に沈黙を隠す二枚舌の文学が生まれる。

完全なる沈黙によって、生き方そのものを文学とする者も現れる。

 

そして、そのような揺らぐ存在や、彼らが生みだした文学は、国家の枠の中では容易に忘れられもする、ということも黒川創は語る。

日本の植民地統治下で活動していた台湾、朝鮮、満洲など、それぞれの現地人の作家らのことどもを、私たちは、ときに自発的に忘れる。そのことが、かつてそこにあった事実を私たちの目から隠してしまう。それも、また、「恥ずかしい」ことではないか。べつの見方をすれば、忘却の自発性のなかにも、政治権力の働きはあるということだろう。

 

そして、その中にあって、「忘れない」という抗い方もある。

たとえば中野重治。彼を忘れたがらない作家、と黒川創は評する。

中野は朝鮮における収奪の当事者であった父親のことを自伝的小説『梨の花』に書く。

(このことを黒川創の記述によって教えられた私は、かつてわが父の書棚にあったけれども、私が読むことのなかった『梨の花』の、あの白い花が描かれた表紙を想い起こした。朝鮮を知らぬ在日二世の父は、この本をどのような思いで読んだのか……)

 

 

自発的に忘れる世界、政治権力の圧がある世界で、特に何も気にすることなく文学に携わった日本近代の多くの文学者の中で、

漱石こそが、むろん、この世間では、狂気なのである」

黒川創

 

明治国家が下賜した文学博士号を拒否し、大逆事件後の文教政策として考えつかれた文芸委員(文芸院)という国家制度に辛辣に噛みついたという、漱石の狂気に注目。

(鴎外は国家百年の計の啓蒙の人ですからね)

 

 

ただ、いずれにせよ、文学が近代国家の枠の中で鍛え上げていった言葉は、風土とは切り離された標準語的な言葉であることは忘れずにいたい。

国家と言語が結びついていなかった世界があり、風土と結びついた声があり、言葉があり、無数の語りがあったことを忘れまい。

中央集権の圧倒的な政治権力との葛藤を抱えこんだ「文学」とは異なる、苦悩・葛藤・心情から紡ぎだされる小さな声の「語り」を想い起こしたい。

国家という枠はあまりに狭量だ。

 

 

日本語が生まれた場所、日本人が生まれた場所について、

文学が生まれた場所と合わせて、考えること。