スピーチ @ 7.26施設障碍者虐殺 8年目の追悼アクション

 

  みなさん こんにちは。

今日は百年芸能祭実行委員会を代表して、この場に来ました。

まず、少しだけ、百年芸能祭について説明します。

百年芸能祭とは、関東大震災から百年となる昨年、2023年に立ちあげられたもので、目指しているのは、これまでの百年間、近代化の陰で理不尽にも消されていったすべての命を鎮魂すること、

これまでとは違う新しい百年をこの世に呼び出すこと、

そのための祀り/祭りの「場」を開くことです。

そして、今日のこの場もまた、そのような祀り/祭りの場なのだと思っています。

 

私は横浜出身の在日コリアン三世です。百年前、横浜でも、関東大震災直後から朝鮮人狩りが始まっています。そのとき、横浜では、「物言って返事をしない者は朝鮮人とみなして殺してよい」という警察からのお達しがありました。

つまり、「物言って返事をしない者は殺してもよい」と権力が言ったのだと。大衆はその言葉どおりに、返事をしない者を殺したのだと。

そうなれば、このとき殺されたのは、当然に朝鮮人だけではありません。中国人、琉球人、標準語を話さない人、どこか普通ではないと判断された人、声を発することができない人、国家権力に疎まれた人、

ひと言で言えば、近代国家の規格に合わない人々が殺されました。

それから百年、誰かの利益のために命が効率性で計られ、数量化され、分断され、使い捨てられる時代が延々と続いてきました。

 

ナショナリズム植民地主義新自由主義のはびこる世界というのは、ほとんどすべての命にとって、なんと過酷な世界であることか。

言うまでもなく、津久井やまゆり園で起きたことは、この無惨な世界の縮図です。

この世界にあっては、殺されない側で生きるということは、殺す側で生きるということでもあります。

 

私たちは、こんな世界に安住していて、いいのか? 

生きとし生けるすべての命が尊ばれて、つながりあって、生きてゆく世界を、どうやって呼び出そうか。

 

国家の歴史のように組織化された記憶ではなく、

名もなき人々の“非公式の記憶”を継承せよと語ったのは、

パレスチナ出身の闘う知識人、エドワード・サイードでした。

取るに足らないとされた人々の、命の記憶をこそ語り伝えること、

取るに足らないとされた人々ひとりひとりの名前を呼びつづけること、

与えられた記憶、与えられた物語の中で、与えられた歌をうたい、与えられたリズムで踊るのを拒むこと。

はじまりは、そこからでしょう。

 

人々よ、忘れるな、自分の声で歌え!

人々よ、殺すな、自分のリズムで躍れ!

 

 

【追悼アクション 風景】

 

 

 

 

 

クション風景】

 

 

梅田でDie-in(ダイ‐イン) 見あげた空

 

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2024.09.17  百年芸能祭 「オギヨディオラ その歌で百年の祈りを海を漕ぎ渡る」 イ・サンウン ライブ

幕開けを告げる百年ちんどん隊

法螺貝の響きとと共に、吹田メイシアター小ホールにアコーディオンに鉦太鼓を鳴らして「オギヨディオラ」の調べを奏でて入場、

そして練り歩き!

 

 

 

開祭の辞を読み上げる!

 

<イ・サンウン ライブ 前口上>

 

お集まりのみなさま 百年芸能祭にようこそ! 

本日は、私たちの親愛なる友、イ・サンウンを迎えての、音楽の祝祭。

題して、「オギヨディオラ その歌で百年の祈りの舟を漕いでゆく」!

ところで、そもそも「百年芸能祭」とは何か?

百年芸能祭は、2023年、関東大震災百周年を契機に立ち上げられました。

この百年、お金になるかどうか、役に立つかどうかで、命の価値が決められて、見えない鎖につながれて、血も涙もない数字に縛られて、今や世界中の人々が見ていようとも、臆することなくジェノサイドが行なわれる時代です。

しかし、これからの百年は、そうはいかない! 

そのために、

忘れられた命の歌をうたいましょう、封じられた命の鼓動で踊りましょう、

無数の命を躍って供養、歌って躍って世界を変える、それが芸能、それが命の本能、それが百年芸能祭です!

というわけで、今日は、旅する歌うたい、イ・サンウンと共に、

オギヨディオラ! いま、ここから、百年の祈りの舟を漕ぎだします。

 

 

さあ、このあとは、イ・サンウン登場!!

 

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エマヌエーレ・コッチャ『メタモルフォーゼの哲学』 「おわりに」より

未来とはメタモルフォーゼの純然たる力である。(中略)将来というのは、生とその力がいたるところにあり、個体としても個体群としても種としても、わたしたちのうちのいずれにも属しえないということである。将来とは、変態することを個体や生物群に強いる病である。つまり、わたしたちが自分たちの同一性を何か安定したもの、決定的なもの、リアルなものとして考えることを妨げる病なのだ。
 
(中略)

わたしたちがこの病から身を守る必要はない。(中略)病まねばならない、よく病まねばならないのだ。それも死の恐怖を抱くことなく。わたしたちとは将来である。わたしたちは短い生を果たす。わたしたちは次々と死んでいかなければならない。
 
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メタモルフォーゼ。
自分は無数の他者で構成され、やがて、自分は他者の構成物になる。
それは物質的なことだけではなく、精神的なこともまた。
 
たとえば、この世界で現在進行中の、「メタモルフォーゼの哲学」とは対極の、
境界線を引き、他者を排除し、殺すことも厭わない思考の産物であるジェノサイド、
その無惨を生きて死んでいった人々の恐怖、絶望、憤怒、諦念といった感情も未来を構成するのだろうか、
と、ふと思う。(きっとそうなのだろう)
 
同時に、
私の中にある、どこから来たのかわからぬ悲しみや虚無を想いもする。
 
今を生きる私の心、私の精神が歓びとと共にあるとき、未来に歓びが運ばれていくのだろうか。
(これもまた、きっとそうなのだろう)
 
メタモルフォーゼを生きること。
今こそ、コッチャの言うところの将来をよく病むこと。
 
<よく病む>とは、実は、<よく闘う>ことなのだということ。
何との闘い? 
思うに、それは、排除と分断と無数の理不尽な死の上に富が築かれる、いまのクソみたいなこの世界を作り上げている精神との闘いでしょう。
きっとね。
 
 
 
 
 
 

エマヌエーレ・コッチャ『メタモルフォーゼの哲学』  みんな家の中……

わたしたち人間は、「明確な境界線や、内側と外側の空間の対置から解放されることができない」とコッチャは語る。

 

なぜなら、人間も人間でない存在も、果てしないメタモルフォーゼのなかの存在であり、どの存在も他者の、他の存在の乗り物であることを、人間は忘れているから、

 

しかも、人間は、忘れているだけでなく、「万人の万人に対する戦い」といった人間中心の啓蒙思想を背景に、「競争や戦争状態」とその中での有用性、機能性、目的を前提に命を語る。たとえば、進化論のような。それは、優生思想とも、植民地主義とも、資本主義とも結びついていく。命の価値づけと分断と排除へとつながっていく。

 

そして、人間は、壁に囲まれ、境界線を引き、「みんな家にいる」。

 

いまいちど、

すべての存在はメタモルフォーゼの賜物である、

「わたしたちの生は他者の生のメタモルフォーゼという行為によってはじまった」

「メタモルフォーゼはけっして停止することがない」

「あらゆるメタモルフォーゼ的な存在――あらゆる生まれた存在――はこの他性によって構成され、取り憑かれており、けっして消し去ることはできない。」

 

なのに、

「わたしは忘れてしまった。生まれることは、以前わたしたちであったものを忘れること、他者がわたしのなかに生き続けているのを忘れることを意味する。わたしたちはかつて存在していたが、別様であった。誕生とは絶対的な始まりではない。私たちの前にはすでに何かが存在し、わたしたちは生まれる前にすでに何かであり、わたしの前にわたしが存在したのだ。誕生とはそうしたものでしかない。つまり、わたしたちの自己と他者の自己のあいだ、人間の生とノンヒューマンの生のあいだ、生と世界の物質のあいだにある連続性の関係から外れることは不可能であるということだ。」

 

「わたしは生まれた。わたしは自分とは異なるものにつねに乗っている。自己とは、他所から来てわたしよりも遠くに行くように定められた異質な乗り物にほかならない。それが言葉、香り、視覚、分子のどれにかかわるかはさほど重要ではない」

 

「わたしは生まれた。わたしを作っている物質は純粋に現在的なところがまったくない。わたしは先祖以前の過去から乗って、想像できない未来を目的地としている。わたしとは、ばらばらで両立することのない時間、ある時代や瞬間にわりあてることのでこきない時間である。わたしとは、ガイアの表面で起こる複数の時間どうしの反応なのだ」

 

「「わたし」は生まれながら他の存在に対してのみ存在しているのであり、翻って、わたしとは乗り物にすぎない――「わたし」はつねに自分とは異なるものを運ぶ何かなのだ」

 

そのことを思い出すこと、二度と忘れぬこと、分断と排除と共に在る人間中心の世界観・生命観を手放したときに、開かれる世界に想いを馳せること。

ビューヒュナー『ヴォイツェク』  メモ

「ヴォイツェク、貴様は善人だよ、善人――だがな、ヴォイツェク、貴様にはモラルってものがないぞ!」 (大尉)

 

「我々は貧乏人であります。よろしいですか、大尉殿、金、金なんであります。」

「よろしいですか、自分らのような低級な人間には徳は持てないのであります」(ヴォイツェク)

 

「この世の片隅にしか住む所がなくても、鏡のかけらしか持ってないあたしみたいな女でも、唇はこんなに赤いんだわ」

「ああ、なんて世の中なの? 何もかも破滅してしまえばいい、男も女も」

(マリー)

 

実験動物ヴォイツェク (医者)

 

「ノーがあるのはイエスのせいなのか、イエスがあるのはノーのせいなのか、こいつをひとつ自分でじっくり考えてみたいのであります」

「人間は誰でも深い淵だ、覗き込むとめまいがする」(ヴォイツェク)

 

「俺は眠れないんだ、目を閉じると、踊りがぐるぐる回り続けて」(ヴォイツェク)

 

ヴォイツェクという狂気の存在に、

私がいままで出会った狂気の中でも、「三大狂気」は何かな、

と記憶を探る。

 

おもかさま  石牟礼道子の祖母

堂守モシェ  エリ・ヴィ―ゼル『夜』

一遍     言わずと知れた狂乱の踊り念仏

 

この三大狂気は、三大正気でもあるね、きっと。

 

 

 

エマヌエーレ・コッチャ『メタモルフォーゼの哲学』  抜き書き

「乗り物の理論」より  p134

 

身体とは、空間や場からの脱出、あるいはもっとうまく言えば、それらが絶えず変異するための原理の可能性の条件である。わたしたちが身体を持っているのは、<いまここ>によりいっそう付着するためにはではなく、場を変え、時間を変え、空間を変え、形態を変え、物質を変えることができるためである。乗り物としての身体はメタモルフォーゼの可能性の条件である。この身体は他所へ行き、他者になることを可能にする。

 

あらゆる身体は旅の途中だ。

 

重要なのは、実体と場所性の論理を反転させることである。実体は存在せず、したがって他者に支えられていることは旅をしていることを意味する。他の生に変えるということが意味するのは他所へ運ばれているということだ。あらゆるものは、何かになるために他のものの惑星にならなければならない。あらゆるものは他者に対する乗り物となるという関係を受けいれる。一方で、世界との関係はつねに他の身体によって媒介されている。単純で直接的な実存は存在せず、それゆえリアリティとの直接的な関係はけっして存在しない。他方で、身体の一部をなすということはただ一つの身体に融合していることのみならず、その身体によって他の身体と他の場所の無限性に運び込まれていることをも意味している。あらゆる身体は秘密の通路である。あらゆる身体は他の世界の無限性の入口なのだ。

サラ・ロイ『ホロコーストからガザへ』  メモ その2

 

2009年3月に東京大学で開催されたサラ・ロイと徐京植の対談に先立ち、徐京植がサラ・ロイの「ホロコーストとともに生きる」へのレスポンスが語られた。

 

そこで徐京植は、

世に流通する「ユダヤ人対アラブ人」「ユダヤ人対イスラム教」という単純で暴力的な対立構造は虚偽であり、「占領と被占領」こそが問題の本質なのだというエドワード・サイードパレスチナ人側)による根本的な批判を語り、その抵抗の思想をサラ・ロイ(ユダヤ人側)と分かち合う。

そして、われらは「場ちがい」で「よそ者」で「孤独」なのだと。

 

イードは孤独でした。米国でも多くの理解者を得ない彼は、実はパレスチナにおいても多くの理解者を得ていません。そのどちらにおいても、異なった意味でではありますが、彼は「場ちがい」であり、「よそ者」なのです。

 彼と同じように孤独な者、すなわち複数の共同体にまたがる人生を誠実に生きようと努め、そのことのためにどの共同体においても多くの理解者を得ることができない者は、この世界に少なくありませんが、今のところ、その者たちのそれぞれが、それぞれの場所で「場ちがい」であり、孤独なのです。その「場ちがい」な者たちは互いの姿をはるか遠くに認め、互いに出会おうとしていますが、しかし、互いを分断し隔て続ける壁はなお高く鞏固です。

 

サラ・ロイは占領について、そしてホロコーストについて、こう語る。

占領とは一つの民族が他の民族によって支配され、剥奪されるということだ。彼らの財産が破壊され、彼らの魂が破壊されることだ。占領がその核心において目指すのは、パレスチナ人たちが自分たちの存在を決定する権利、自分自身の家で日常生活を送る権利を否定することであり、彼らの人間性をお否定し去ることだ。占領とは辱めであり、絶望である。(中略)

私にとってホロコーストの教訓とはつねに、特殊な(ユダヤ人の)問題であると同時に、普遍的な問題だった。

 ホロコーストの記憶をナショナルな記憶として持つ国家が、もう一つのホロコーストパレスチナの民に対して行使することの暴力性。

それを見つめる複眼の眼差しがどれほど重要であることか。

「場ちがい」で「よそ者」で「孤独」な者たちが、特殊と普遍を織りあげて紡ぎだす「新たな普遍」を分かち合い、つながることが、どれだけ重要であることか。

私たちが殺さず、殺されずに、生きてゆくために。

 サイードは、パレスチナの占領を、朝鮮半島の占領(植民地支配)へと接続する。

(1967年第三次中東戦争以来のイスラエルによる西岸地区とガザ地区の占領は)20世紀と21世紀におけるもっとも長い入植・軍事占領なのですよ。それ以前に最長であったのは、1910年から1945年にかけての日本による朝鮮半島占領です。イスラエルによる占領はいよいよ最長記録に届こうとしています。(『文化と抵抗』より)

 そのことを徐京植はきわめて重要なこととして語る。そして、問う。朝鮮の側からパレスチナへの接続は試みられているのかと。朝鮮の植民地支配もまた、固有の経験として語られるだけでなく、<植民地主義><占領>という普遍の概念のもとで語りなおされ、外に向かって開いていかねばならないことであるはずなのだから。

 1948年ナクバ。

 1948年朝鮮半島に二つの国家誕生。済州4・3によるジェノサイド。

 徹底的に日本による占領の、植民地支配の理不尽を経験したはずの朝鮮半島に、米国の傘の下、占領と植民地主義を体現するような権力志向で暴力的な極右国家が誕生し、国家に抗する者たちを躊躇なく殺していったことの捻れもまた、イスラエルという国家のすさまじい捻れに通じあう。

 

いのちの場所を占領する者ども、そこから、みんな出ていけ!

(これは、アルゼンチンの人民蜂起において放たれた声)