折口信夫『死者の書』 メモ

たったひと目の執心がこの世とあの世の道が開かれる

 

其お方がお死にに際に、深く深く思ひこまれた一人のお人がおざりまする。耳面刀自と申す、大織冠のお娘御でおざります。前から深くお思ひになつて居た、と云ふでもおざりません。唯、此郎女も、大津の宮離れの時に、都へ呼び返されて、寂しい暮しを続けて居られました。等しく大津の宮に愛着をお持ち遊ばした右の御方が、愈々、磐余の池の草の上で、お命召されると言ふことを聞いて、一目見てなごり惜しみがしたくて、こらへられなくなりました。藤原から池上まで、おひろひでお出になりました。小高い柴の一むらある中から、ご様子窺うて帰らうとなさました。其時ちらりと、かのお人の、最期に近いお目に止まりました。其ひと目が、此世に残る執心となったのでおざりまする。

 

 

舞台設定は奈良時代だというのに、物語りはもう廃れつつあると、作者は書く。

死者の書』を書いた当時の現実の投影であろうか。

 

もう、世の人の心は賢しくなり過ぎて居た。独り語りの物語りなどに、信をうちこんで聴く者のある筈はなかつた。聞く人のない森の中などで、よく、つぶつぶと物言ふ者がある、と思うて近づくと、其が、語部の家の者だつたなど言ふ話が、どの村でも、笑ひ咄のやうに言はれるやうな世の中になつて居た。(『死者の書』二十)

 

 

奈良・富雄 杵築神社 大とんど 2020年1月15日  (まだ途中)

 

 

 

 

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神社よりも、こちらが大事 ⇓
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これは方角的に皇居のほうと思われる。  お寺の跡をこのような形で活用。

 

 

 

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不動明王   観音菩薩  神仏分離で廃寺となった東福寺の仏像。

 

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青面金剛童子

 

 

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役行者像  2つ

 

 

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 宝暦14年の建立。 

 

 ⇓のは石の風化具合から見て、もっと古そうだ。

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<以下、参考資料>

産経新聞奈良版・三重版ほかに好評連載中の「なら再発見」、98回目の今回(11/8)は「三宅町の杵築(きつき)神社 牛頭天王(ごずてんのう)とスサノオノミコト」、執筆されたのはNPO法人「奈良まほろばソムリエの会」の石田一雄さんである。石田さんは「なら再発見」の最多寄稿者である。いつも興味深い話を紹介してくださる有り難い存在だ。今回は三宅町にある3つの杵築神社を取り上げ、地元に根強い「牛頭天王信仰」を紹介された。

本文を紹介する前に、整理しておく。牛頭天王とはインドの神さまで、仏教における天(天部)の1つにもなった。日本においてはスサノオの本地とされる。つまり牛頭天王スサノオ、ということだ。しかし明治の廃仏毀釈神仏分離)により、牛頭天王を祀る神社は全てスサノオを祀るように変えさせられた。それで日本の「牛頭天王社」は、「八坂神社」や「素戔嗚(すさのお)神社」に改称させられた。

一方「杵築神社」の呼称は出雲大社(杵築大社)に由来し、出雲大社の祭神はスサノオだった時代がある(平安中期~江戸初期)ので、「杵築神社」の名前でも「スサノオを祀っている」と主張できる。だから、三宅町はじめいくつかの「牛頭天王社」は、「八坂神社」や「素戔嗚神社」とせず、「杵築神社」に改称した、ということのようだ。乱暴にまとめると、牛頭天王社=八坂神社=素戔嗚神社=杵築神社ということになる。ああ、ややこしい。では、本文を紹介する。


但馬杵築神社=三宅町

 三宅町は、奈良盆地のほぼ中央部に位置し、飛鳥川聖徳太子ゆかりの太子道(たいしみち)が南北に縦断している人口約7200人の町だ。面積は4.07平方キロメートルで,県内では最も小さい。この町に「杵築(きつき)神社」が3社もある。最も北に位置するのが屏風(びょうぶ)社、そこから太子道を南へたどると町役場の近くに伴堂(ともんど)社、南西部に但馬(たじま)社がそれぞれ鎮座する。
 屏風社と伴堂社はおかげ踊りの絵馬(県有形民俗文化財)が有名で、但馬社は室町時代十三重石塔で知られる。おかげ踊りとは、文政13(1830)年のおかげ参りとよばれる伊勢神宮への集団参詣の後、近畿各地で流行した豊年祈願と感謝の踊りをいう。
 屏風社拝殿の絵馬には伊勢太神宮(いせだいじんぐう)の旗を立て、40人ほどの人たちが三味線などにあわせて踊る姿が描かれている。伴堂社拝殿の絵馬3面には神社の境内で多数の踊り子が輪になって踊る様子が描かれ、いずれも当時の風俗を知る上で興味深い。
 3社の祭神はいずれも須佐男命(すさのおのみこと)だ。県内各地にある八坂神社も同じ祭神で、総本社は京都祇園の八坂神社だ。いずれも江戸時代までの神仏習合時代には牛頭天王(ごずてんのう)を祀り、スサノオノミコトと同体とされていた。屏風社には牛頭天王社と刻まれた燈籠が残っている。
      ※   ※   ※
 京都の祇園祭は、平安時代から始まった御霊会(ごりょうえ)が起源といわれる。当時の人々は世の中に怒りや恨みを持ったまま亡くなった人の御霊が災厄をもたらし、疫病の流行はそれを司(つかさど)る神のたたりと考えた。牛頭天王はインドの祇園精舎(ぎおんしょうじゃ)の守護神で、疫病をはやらせる神様と考えられたので、この神様を慰める祭りを行った。この御霊会が祇園祭となった。



牛頭天王社と刻まれた屏風杵築神社の燈籠

 また一方、牛頭天王はやはりインドの神様である武塔天神(むとうてんじん)(武塔神(むとうのかみ))とも同体と考えられた。旅の途中で一夜の宿を頼んだ神を裕福な弟の巨旦将来(こたんしょうらい)は断り、貧しい兄の蘇民将来(そみんしょうらい)は粗末ながらもてなした。
 後に再訪した武塔神は弟の妻となっていた兄の娘に茅の輪(ちのわ)を付けさせ、それを目印として娘を除く弟の一族を滅ぼした。武塔神はみずからスサノオノミコトと正体を名乗り、以後茅の輪を腰に付けていれば疫病を避けることができると教えたという。
 夏越(なごし)の祓いとして神社で茅の輪くぐりを行ったり、祇園祭でいただく護符「蘇民将来之子孫也」付の粽(ちまき)を厄除けにしたりするのは、この話に基づいた信仰だ。
      ※   ※   ※ 
 慶応4(1868)年、明治新政府は、神道と仏教を明確に区別するいわゆる神仏分離令を出した。通達の中には、牛頭天王神仏習合の悪例と名指ししたものもあった。さらに政府は、それまでの「天子」や「帝(みかど)」という呼び方を「天皇」と改めたため、牛頭天王天皇の名をかたる不敬の輩(やから)となった。
 牛頭天王を本尊とする社は、全て「スサノオノミコト」を祭神とする神社に変えさせられた。京都の祇園感神院(ぎおんかんしんいん)は寺院部分を全て取り壊されて円山(まるやま)公園となり、祇園社部分だけを八坂神社と改称した。
      ※   ※   ※ 
 三宅町の杵築神社3社が、八坂神社や素戔嗚(すさのお)神社と改称しなかったのはなぜだろうか。杵築とは、道路の往来の安全祈願の意をこめて名づけられたとの説もあるが、その名の由来は出雲大社島根県出雲市大社町杵築(きづき)東)にあるようだ。
 現在の出雲大社は、平安時代の中ごろから江戸時代の初めまで土地の名にちなみ杵築大社と呼ばれ、祭神はスサノオノミコトであった。
 その後祭神を大国主命(おおくにぬしのみこと)に変え、明治4年に出雲大社と改称した。杵築大社はスサノオノミコトを祀る総本社とされていたので、牛頭天王社から改称の際にその名を採用したのではないかと思われる。
 古来神も仏も分け隔てなく敬うのが、長い歴史の中で培われてきた自然な風習であった。それは今も私たちの生活の中に生きているように思う。(NPO法人奈良まほろばソムリエの会 石田一雄)

 

 

 

『オーバーストーリー』リチャード・パワーズ

これは、もうひとつの『未知との遭遇』なんだな。

ただし、最初の『未知との遭遇』は宇宙からやって来たけど、

 

この『未知との遭遇』は、地球のなかの、それもすごく身近な、でもすっかり忘却のなかの存在となっていたものとの遭遇。

 

「未知」に呼ばれる者たちは、なぜ自分が呼ばれたのかを知らぬままに、呼ばれて出会って運命を共にして散ってゆく。

 

その「未知」の存在とは「木」であり「森」であり、土も水も微生物も獣も虫も鳥もあらゆる生き物をひっくるめて樹木が形作る生命共同体(そのなかには人も入っている筈。人はそのことを忘れているけれど)。なのだと、一見、書かれているようで、

 

実のところ、もっとも忘却の彼方の存在になっているのは「人間」なのだと、もっとも出来が悪くて、もっとも救われなくていけないのに、そのことをもっとも知らずに忘れて生きているのが人間なのだと、

パワーズは、そう言っているような気がしたね。

 

人間という救いがたい「未知」との遭遇。

 

 

正月2日、思い立って西大寺へ。廃仏毀釈の見えない跡を聴く。

近鉄奈良線 大和西大寺 南口を出れば、すぐに西大寺

うっかりしていましたが、東のでかい寺が東大寺で、西のでかい寺が西大寺なんですねぇ。かつての西大寺はすさまじく広い。今はそのほんの欠片くらいしか残っていない。

かつての栄華の片鱗、出土調査でイスラム陶片が出てきた、なんていう記事も西大寺本堂に飾られていました。

 

天平宝字8年(764)9月11日、藤原仲麻呂恵美押勝)の反乱の発覚に際して、孝謙上皇はその当日に反乱鎮圧を祈願して、『金光明経』などに鎮護国家の守護神として登場する四天王像を造立することを誓願されました。翌年の天平神護元年(765)に孝謙上皇重祚して称徳天皇となり、誓いを果たして金銅製の四天王像を鋳造されました。これが西大寺のそもそものおこりです。それを皮切りに、父君の聖武天皇平城京の東郊に東大寺を創建されたのに対し、その娘に当る称徳女帝の勅願によって宮西の地に本格的に当寺の伽藍が開創されたのです。(西大寺HPより)

 

平安中期にはさびれていたこの寺を鎌倉中期に再興したのが、叡尊

 

このように荒廃した西大寺鎌倉時代半ばに再興したのが、興正菩薩叡尊上人(1201~1290)です。叡尊上人は文暦2年(1235)に当寺に入住して、「興法利生」をスローガンに戒律振興や救貧施療などの独自な宗教活動を推進し、当寺はその拠点として繁栄しました。西大寺叡尊上人の復興によって密・律研修の根本道場という全く面目新たな中世寺院として再生することになったのです。(西大寺HP)

 

ああ、叡尊なのか、と思ったのでした。この人は救癩事業にも力を入れていた。般若寺と北山十八間戸でその名を私は聞き知っていました。

 

般若寺の位置する奈良市街北方地域は、中世には当時「非人」と呼ばれて差別された病者・貧者などの住む地域であり、般若寺の近くには北山十八間戸(国の史跡)というハンセン病などの不治の病の人を収容する施設もあった。叡尊建長7年(1255年)から般若寺本尊文殊菩薩像の造立を始め、文永4年(1267年)に開眼供養が行われた。この文殊像は獅子の上に乗った巨像で、完成までに実に12年を要した。

 

しかも真言律宗密教系です。

 

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写真の説明はありません。

 

 

この四王金堂が大事なんやと、金堂にいた、たぶんお寺の関係者のおじさんが言ったのでした。

真言律宗は、明治の初めに、いわゆる「神々の明治維新」(神仏分離廃仏毀釈)のために、強制的に真言宗に統合されたものの、明治二十八年にようやく「真言律宗」に戻ったのだという話も、そのおじさんがしてくれました。

 

奈良に越して、実に興味深いのが、あちこちの寺社に行くたびに、神仏分離廃仏毀釈による被害損害を率直に表現していること。えらくやられたけど、黙っちゃいない、という感がありあり。

 

四王金堂には、実に立派な十一面観音(長谷寺の十一面観音と同じ形式)と、四天王がいた。

生駒山宝山寺からのかなりの額の寄進があるのを堂内で見て、おじさんに尋ねてみれば、かつては修験の寺だった宝山寺は、西大寺の末寺という。(と聞いたが、事実関係はまだ未確認)。

 

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西国三十三箇所めぐりが、西大寺境内でできます。

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画像に含まれている可能性があるもの:立ってる(複数の人)、靴、植物、屋外

 

 境内には清瀧権現もいます。密教寺院としては、権現さん、大事です。

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西大寺で引いたおみくじは、ちょっと怖いくらいの大吉。

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「光のノスタルジア」「真珠のボタン」「オーバーストーリー」

 

パトリシオ・グスマン監督の「光のノスタルジア」「真珠のボタン」と二日連続で観る。
チリのピノチェト独裁時代に砂漠に埋められた者たち、海に沈められた者たち、無数の死者の記憶。
死者たちの記憶を手放すまいとする者たちの声。

巨大な天体望遠鏡が立ち並ぶ広大なるアタカマ砂漠で、まるで星を探すように愛する者の遺骨を探しつづける女たち。
自分の生れた国にいながらにして追放の生を生き、殺されていった者たちの記憶を、海の音、水の声に聴く者たち。

 

「真珠のボタン」

チリのアタカマ砂漠で見つかった水晶の原石、そのなかに閉じ込められた3000年前の一滴の水、そこから記憶の物語が立ちあげられていく。

ひとつの真珠のボタンが、先住民の悲劇と、チリの悲劇を結び目となって。

 

 

水には記憶があると言われている。水には声もあると私は信じている。水に近づいてみれば、インディオや行方不明者の声を聴くことができるだろう。

 

「光のノスタルジア」が星の眼差しでチリの悲劇を語るならば、「真珠のボタン」は水の声でそれを語ってゆく。

水を生きる者としての先住民の悲劇と通底するものとしての、チリの悲劇。人はすべからく水を生きる者であるから、水の声を聴けば、人の記憶もまたそこにあるはず。

 

ピノチェトによるチリの虐殺の前には、南米へとやってきた西洋人による先住民の虐殺があった。

ビクトル・ハラ「平和に生きる権利」を聴きなおす。ジンタらムータ版。

 

youtu.be

 

チリも済州島も同じことなんだなと、映画を観つつ、あらためて痛切に思う。

朝鮮半島で、南米で、中東で、憎悪をかきたてて、分断して、利益を得る者たちの存在。

直接の虐殺者の背後に隠れて、虐殺へと人間たちを誘導してゆく、もっと大きな力を握る者たちへの怒りがふつふつと。

 

年末年始と読みつづけたリチャード・パワーズ『オーバーストーリー』もまた、木の声に導かれて、忘れてはならぬこと、失われてはならぬものを記憶する物語。でも、記憶するだけ、とりかえしはつかないんだ、もう人間は。

 

考えるほどに、あまりのとりかえしのつかなさに、奥歯を噛みしめる夜。

 

 

 

 

 

元旦から運命的と人は言う。

奈良県大宇陀の山中の日張山青蓮寺は、中将姫ゆかりの尼寺です。

津村順天堂の「中将湯」の、あの中将姫です。

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折口信夫の「死者の書」の、あの中将姫です。

中将姫と言えば、当麻寺当麻曼荼羅で有名な、あの中将姫です。

(しつこいな……)

今日はまだ正月2日なので、すーだらしていたいので、かなりの手抜きで、中将姫のプロフィールをwikiから引用します。

藤原鎌足曾孫右大臣藤原豊成とその妻の紫の前(品沢親王の娘、又は、藤原百能)の間には長い間子どもが出来ず、桜井長谷寺の観音に祈願し、中将姫を授かる。しかし、母親は、その娘が5歳の時に世を去り、6歳の時に豊成は、照夜の前(藤原百能、又は、橘諸房の娘)を後妻とする。

中将姫は、美貌と才能に恵まれ、9歳の時には孝謙天皇に召し出され、百官の前で琴を演奏し、賞賛を受ける。しかし、継母である照夜の前に憎まれるようになり、盗みの疑いをかけられての折檻などの虐待を受けるようになる。

13歳の時に、三位中将の位を持つ内侍となる。

14歳の時、豊成が諸国巡視の旅に出かけると、照夜の前は、今度は家臣に中将姫の殺害を命じる。しかし、命乞いをせず、亡き実母への供養を怠らない、極楽浄土へ召されることをのみ祈り読経を続ける中将姫を家臣は殺める事が出来ず、雲雀山の青蓮寺へと隠す。翌年、豊成が見つけて連れ戻す。中将姫は『称讃浄土佛摂受経』1000巻の写経を成す。

天平宝字7年(763年)、16歳の時、淳仁天皇より、後宮へ入るように望まれるが、これを辞す。その後、二上山山麓にある当麻寺へ入り尼となり、法如という戒名を授かる。

仏行に励んで、徳によって仏の助力を得て、一夜で糸で『当麻曼荼羅』(『観無量寿経』の曼荼羅)を織ったとされている。

宝亀6年(775年)春、29歳で入滅阿弥陀如来を始めとする二十五菩薩が来迎され、生きたまま西方極楽浄土へ向かったとされる。

 

 しかし、これは何をもとにしてwiki筆者は書いたのかな。まるで実在のお姫様のようだけど、話としては大筋、こんな感じです。

そして、青蓮寺では、こんな風に言い伝えられています。

写真の説明はありません。

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つまり、

中将姫は、継母の讒言で14歳でひばり山に配流の身となり、命を狙われるも、家臣の松井嘉藤太に助けられ、この地に草庵を結んだ。そして2年6か月の間、念仏三昧で過ごしたのちに屋敷にようやく戻るを得たものの、やがて当麻寺に入り出家。当麻曼荼羅を感得した後に19歳で再びこの地を訪れて一堂宇を建立。これが青蓮寺なのである! 

ということであります。

 

で、その青蓮寺で、元旦の午後2時過ぎ、私と連れの祭文語り八太夫に「これは中将姫のお導きでしょう」、といかにも宗教者らしい言葉を、女性らしい柔らかで朗々とした声で語るご住職、堀切康洋師は、とうとう笑いをこらえきれずに、その語尾はそのまま、「でしょおおおおお、ほほほほ」となったのでした。

 

一体どういうわけで、そういうことになったのか。

話は二日前のさかのぼります。

12月30日、私は奈良・大宇陀の山中にある日張山青蓮寺に、修正会に一般参加もできますかと、わざわざ電話をかけて確認したんです。

青蓮寺には、これまで2回、中将姫のお参りに訪ねたことがあります。2回目のときに、2,019年の年間行事カレンダーをいただいている。そこには、「元旦 1時 修正会」とあるのだけど、2020年も変わらず昼過ぎ1時に修正会はあるのか、ということの確認です。奈良市内から宇陀は遠いので、行ってがっかりしないよう、念のためということもあるし、修正会がいかなるものか、それは元旦に行われる法会だろう、くらいの認識しかなかったので、それだけに一度体験したみたく、体験するなら、ここ数年興味を持ってそれとなく追っている中将姫ゆかりの寺がいい、ということでのわざわざの電話でもありました。

 

すると、電話に出た康洋師は、

「修正会? 一般参加、大歓迎ですよ、でしたら修正会だけでなく、除夜の鐘も突きませんか?」

私は、康洋師の親切なお誘いに、困ったなぁと思いつつ返答します。

奈良市内から行くので、宇多はちょっと遠いから、除夜の鐘と修正会の二つは厳しいと思います」

「除夜の鐘は12時過ぎまで打つから、その頃に来れば大丈夫ですよ」と、康洋師。

うーーーん、夜中に奈良市内から大宇陀まで行き、鐘を突いて、また奈良市内に戻り、元旦の昼過ぎにまた大宇陀か、それはつらいな、ちっとも大丈夫じゃないな、困ったなとますます思いつつ、

「修正会は1時くらいからですか?」と、とにかく今まで参加したことのない未知の法会の修正会のことをひたすら聴きます。

「はい、そうねぇ、遅くとも1時半までには来てくださいね」と康洋師。

さらに、

「雪が降るかもしれません。それで来れなくなったら、そのときはわざわざ電話するのは及びません」とも。

おお、山間の地、宇陀は雪が降るのか!と驚きつつも、その言葉に甘えました。

みそか、元旦と、奈良市内⇔大宇陀二往復はどう考えてもつらいから、除夜の鐘は連絡なしでパス、元旦の昼過ぎの修正会だけ参加させていただくことにして、元旦の午前11時に奈良市内を出て、青蓮寺に向かったのでした。

 

午後1時前に着きました。ところが、山の麓の青蓮寺駐車場には車が一台もない。狭い山道を車で登っていって、境内手前の駐車場に着く。ここにも車は一台しかありません。この一台はご住職の車に相違ない。

まさか、修正会って、参加者がわれわれしかいないの? まさかね……。

境内へと入っていきます。すると、作務衣姿の(これから法会というのに、法衣じゃない、作務衣だよ!)康洋師がポツンとひとり、寺の窓際のところに座って、どうやら本を読んでいる。(これから法会でしょう? なぜに読書!!!)

 

足音を立てて境内に入ってゆくわれらの姿を認めた康洋師が顔をあげて、大きな声で呼びかけてきました。

「お電話してきた方ですかー?」

「はーい、そうです。修正会に来ましたーーー」

「あーーー、そうですかーーー、修正会はもうとっくに終わりましたよー、午前1時に始まって、夜中にもう終わったんですーーー。でも、もしや来るんじゃないかと思って、寝ずに待ってましたよ――――」

「はーーーーーーーーーー!?」

 

 なるほどねぇ、無知というのは恐ろしいものです、思い込みというのは頑ななものです。修正会は除夜の鐘にひきつづいて年明けとともに仏さまにご挨拶申し上げるその年の最初の法会、だからだいたい深夜1時くらいのスタートなんだそうです。

「午後1時ならば、案内には13時と書きますよ」と康洋師は言い、手渡してくれた2020年度の月ごとの法会の案内の葉書を見れば、確かに他の昼の法会は13時と書いてある。

深夜一時スタートならば、除夜の鐘を叩いて、そのまま流れで修正会に、というお誘いはもっとも至極。ああああ、やっちまいました。

 

それから康洋師は法衣に着替え、中将姫の像が祀られているお堂にわれらを招きいれ、たった二人のための12時間遅れの二度目の修正会をやってくださったのでした。

青蓮寺は浄土宗です。南無阿弥陀仏(なむあみだぶ)と唱えつつ、法然の言葉を唱えつつ、焼香をしつつ、たぶん「称讃浄土仏摂受経」(阿弥陀経)の一部を唱えつつ、修正会初体験。

 

それからいろいろと話を伺いました。

檀家のいないこのお寺がどのような方々に支えられているのかということ、

その方々が除夜の鐘を突き、修正会に集まり、ともに経を読み、飲んだり食べたりもしてわいわいと一年のはじまりを祝ってすごすのだということ、

いきなりそこに飛び込んだら、今日みたいにはじっくり話すことはできなかっただろうから、かえってよかったということ、

毎月5の付く日は勉強会もしているということ、

青蓮寺所蔵の重要な古文書である中将姫縁起をいま専門家に読んでもらっているということ、

4月12日は中将姫会式(今年で1246回忌)なのだということ等々。

 

私たちもまた自身のことを少しばかり話しました。

われらは説経祭文をはじめとする「語りの徒」だということ、

ここ数年、中将姫の物語もいずれ語ってみようと思って、中将姫ゆかりの地を折に触れ巡っていたこと、

それで初詣をかねて、修正会は青蓮寺にと思い立ったこと等々。

 

すると、「ああ、今度の中将姫会式で、まずはなにか語ってみませんか」と、話はそこまでとんとんとんと進んだのでした。

 

そういうわけで、「これは中将姫のお導きでしょう」と相成ったわけであります。

こういう言葉はよくある言い回しではありますが、康洋師にとっては、モノの弾みで出た言葉ではありません。

 

康洋師曰く、

檀家のないこの寺に入って8年、なにかあれば誰かが現われて、寺を支えてくれる、さまざまに縁が結ばれ、広がっていく、その縁は、どう考えても中将姫が結んでいるように思えてならない、それはリアルな実感なのだと。

 

その話を聞く私は、ああ結ばれてしまったんだな、一生忘れがたい勘違いをもって、固く固く結ばれてしまったんだな、と思ったのでした。

 

今年2020年は中将姫の呼び声のままに動いていくことでしょう。なむあみだぶ、なむあみだー。

おみやげに、津村順天堂のハーブの入浴剤とお米と干しシイタケとカレンダーまでいただきました。

 

縁に感謝。

 

 

写真の説明はありません。

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