シャマン・ラポガン『空の目』を読みつつ想い起こした石牟礼道子の文章を書き写してみる。

 朝はたとえば、なまことりの話から始まるのです。
 ひとりの漁師が、まださめやらぬ夢の中からいうように語りはじめます。
「いや、よんべは、えらいしこ、なまこのとれた。ああいうことは、近年になかったばい」
 チッソ社長室に近い応接室の床にごろ寝をつづけ、髪もひげも珍妙にほこりをかむって、もこもこと動いている若いひとたちは、もうそれだけ聞いたとたん、おきぬけのまなこにちろちろと、あの、不知火を明滅させる。
「へえっ、どこらあたりに、そげんたくさん、なまこの居りましたか」
「いや、たしか、ありゃ、どうも明神の鼻の崎の方の海じゃったな。
 箱眼鏡でな、のぞくでっしょ。いやもう、のぞく先々に、ぼろぼろ、居るもんなあ。うれしさまかせにかたっぱしからとりよったですけれども、全部とってしもうては、罰の当るけん、半分は戻しとこ、とおもうて、戻して来ました。
 黒なまこのなあ、しこしこして、うまかったろうて。いや、あれだけのなまこじゃれば、つるつるすすりんこんで、腹の冷ゆるまで食うてよかったぞ。いや惜しいことをした、夢じゃった……」
 どんなにみんなが、とれたなまこと、海に戻してきたなあこのことをなつかしがっていることか。夢も、漁師たちにとっては、なりわいの一部です。
 もと漁師であるゆえに、未来永劫漁師であるひとたち。
 
(以下、略)