文学

2021年師走  西成・ココルームでもう一個 詩を書く

お題は「箱」です。 まず、そのお題をいただいてから、絵を描きます。2分で。 二人一組になって、相手の描いた絵を見ながら、インタビューします。6分で。 私もインタビューされます。6分。 そして、互いに、相手から聞き取った物語を、詩にします。タイトル…

「女」であること  恨百五十年  ~2021年師走に~

今日、2021年12月11日は、大阪・西成 ココルームで、煤払い 詩の朗読会 ライターの社納葉子さん、ココルームの上田 假奈代さんと三人で、釜ヶ崎芸術大学の皆さんに囲まれて、年末に人生の煤払いをしようということで、あれこれ語り合いました。 そのなかで読…

今日、釜ヶ崎、ひと花センターで。

ココルームを主宰する詩人 上田假奈代さんの詩のワークショップに参加。 cocoroom.org 二人一組、 お題は「みかん」で、 最初に「みかん」という言葉に思い浮んだ絵を2分くらいで下手くそに描いて(これ大事)、 その絵を手掛かりに互いに5分くらい、みかん…

國分功一郎『中動態の世界』  メモ

なぜ「中動態」の本を読むのかと言えば、 「私」という「一人称」を森崎和江の問いがずっと、私の胸の奥深いところに刺さっているから。 妊娠出産をとおして思想的辺境を生きました。何よりもまず、一人称の不完全さと独善に苦しみました。(中略) ことばと…

8月6日 原民喜の詩を読む    黙祷

碑銘遠き日の石に刻み 砂に影おち崩れ墜つ 天地のまなか一輪の花の幻 風景水のなかに火が燃え夕靄のしめりのなかに火が燃え枯木のなかに火が燃え歩いてゆく星が一つ 悲歌濠端の柳にはや緑さしぐみ雨靄につつまれて頬笑む空の下水ははつきりと たたずまひ私の…

「生の悲しみ」 (『声 千年先に届くほどに』ぷねうま舎 より) 韓国語版

「생(命)의 슬픔(生の悲しみ)」 (原文日本語 韓国語訳:金利真) 사람은, 외로움도 슬픔도 아픔도, 결코 메워낼 수 없어서, 다만 한 가지 가능한 것은, 존재의 외로움, 존재의 슬픔을 함께 바라보고, 함께 있는 것 일테지. 존재의 심(芯)에 머무는 외로움…

北米黒人女性作家選③『死ぬことを考えた黒い女たちのために』 藤本和子による解説  メモ

「記憶できないほど愚かになったから書くのよね」 と、トニ・モリスンは言ったという。 同時に、また、トニ・モリスンは国でも州でもない、共同体や町についての細かいこと、雰囲気、手ざわりについて語ったという。それは黒人女性がそこで生きて、根を生や…

ファン・ジョンウン『続けてみます』  メモ

読み終わって、すぐに、こうやって書きながら何が語られていたのかを想い起こしてゆく、眠りにつく前、半分夢の中で読んでいた世界だから、彼らの世界もまた私の夢のような心持ちにもなる、目覚めても忘れることのない夢。 夢のなかで、私は思わず呟いている…

森崎和江  詩をめぐって

詩とは、自然や人びととのダイアローグだと、幼い頃から思ってきました。人っていうのは、自然界の中で、鳥や、みみずや、蟻なんかと一緒に生きているわけでしょ。小さい時、私はいつも、詩や絵を描いて遊んでいたけれど、それは、天然、自然とのダイアロー…

キム・ヨンス『夜は歌う』  メモ

1930年代 満洲東部 北間島(現在の中国延辺朝鮮族自治州)において「民生団」事件という、朝鮮人の抗日遊撃隊の根拠地における朝鮮人同士の虐殺事件が起きた。 それがこの物語の背景。 民生団(1932年2月~10月)という見慣れない団体については、水野直樹先…

ファン・ジョンウン『野蛮なアリスさん』 メモ

2020年暮れから読み始めて、2021年元旦に読み終えた、今年最初の読了本。 いきなり、こう始まる。 私の名前はアリシア。女装ホームレスとして、四つ角に立っている。 君はどこまで来たかな。君を探して首をかしげているよ。 アリシアがいかにしてア…

黄晳暎 発言  メモ  

2008年「第一回東アジア文学フォーラム」発表原稿より。 民主主義、人権、自由、平等などは今やあまりにもよく口にのぼる。色あせた旗のように見えるが、今日的意義を失ったわけではない。お互いの状況はそれぞれ異なるが、作家である私たちは、まず国家主義…

黄晳暎『パリデギ 脱北少女の物語』(岩波書店) メモ  

この作品は、ムーダンたちの語る「パリ公主」神話を下敷きにしている。 北朝鮮に生まれ、生き難い状況に追い込まれ、家族と生き別れ、豆満江を越え、中国へと脱出し、運命のいたずらのようにして英国へと密航する。 北朝鮮脱出後、ついにはすべての家族を亡…

『ショウコの微笑』(チェ・ウニョン CUON)  メモ

神保町でこの作家を見かけたことがある。 柔らかで穏やかで物静かな気配をまとった若い女性だった。 そんな気配の奥底に、 すべての生きづらい人々に寄り添うのだという、 すべての哀しみを分かち合うのだという、 希望の宿る場所は誰も知らないこの世の片隅…

石牟礼道子の夢の光景  『苦海浄土』第二部 第四章「花ぐるま」より

河出書房版『苦海浄土』P343下段~ 思えば潮の満ち干きしている時間というものは、太古のままにかわらなくて、生命たちのゆり籠だった。それゆえ魚たちにしろ貝たちにしろ、棲みなれた海底にその躰をすり寄せてねむり、ここら一帯の岩礁や砂底から離れ去ろ…

文学の秘密を語る声。/『越境広場』第7号 中村和恵「ほおろびに身を投じる――エドゥアール・グリッサン『第四世紀』に見出すモルヌの風とカリブ海のもうひとつの歴史/物語」

『越境広場』第7号。女の声が強く響く『サルガッソーの広い海』(ジーン・リース)と『第四世紀』(エドゥアール・グリッサン)を対比させつつ、カリブ海の作家たちの「もうひとつの物語」を見渡しつつ、正史のなかには存在しない口承的記憶と文学について語…

『列島祝祭論』やっと読了。」

安藤礼二『列島祝祭論』読了。 実に面白かった。 著者あとがきから。 いびつな近代を真に乗り越えていくためには一体何をなせば良いのか。 (中略) 現在を知り、現在を根本から変革していくためには政治の革命、現実の革命のみならず、宗教の革命、解釈の革…

今日読んだ詩 

ぼくが水を聴いているとき ぼくは 水であった ぼくが樹を聴いているとき ぼくは 樹であった ぼくがその人と話しているとき ぼくは その人であった それで 最上のものは いつでも 沈黙 であった ぼくが水を聴いているとき ぼくは 水であった (山尾三省「水」…

これは ⇑ 坂口恭平『建設現場』のなかの言葉だ。年末の予言のような言葉。

抜き書きしながら、自分の声も書きとめながら、これだけ読んでは意味をとりがたいであろう言葉の群れ。 もう崩壊しそうになっていて、崩壊が進んでいる。体が叫んでいる。体は一人で勝手に叫んでいて、こちらを向いても知らん顔した。 日誌にはなにか記録さ…

シャマン・ラポガンは、文学におけるタオのことばと中国語の文字の関係を語る。これはとても大事なこと。

親愛なる日本の読者のみなさん、私は小説や散文を書きますが、私が文を書く“母体”はタオ語で、文字は漢字です。漢人(漢民族)の読者は、最初、私の作品を読むと、みんな私が書く漢字は“可笑しい”と感じるようです。その後、友人が私の作品の漢字や文法を直…

タオの勇士の条件は極めてシンプルだ、しかし、きわめて難しい。近代によって牙を抜かれ、本能を殺された者たちにとっては。

ヤミ族の勇士の基準は、舟を造り、家を建て、トビウオを捕り、シイラを釣り、物語を上手に話し、詩を吟じる、これらのことがすべてできる、ということだ。

みずからの人間再生のための文学、消費者ではなく生産者であり、みずから生きると同時に生かされえている命としての人間であるための文学。

シャマン・ラポガンの描くタオ族の美しいシイラ漁の情景を読む。 それはシャマンがシイラを釣り上げたあとのこの描写。わたしはシイラの、閉じたり開いたりするえらをずっと見ていた。櫂を漕ぐ手は止めていた。はるか遠くからの歌声が鼓膜を打った。歌声はこ…

『冷海深情』。新たな世界のための神話としての海洋文学はここからはじまる。

●「冷海深情」より「海は、歌い終わらない詩だ」と、シャマン・ラポガンの父は言う。 父と伯父は、詩で語りかけ、詩でこたえる。 ●「海の神霊を畏敬する」より。 「伯父が言うように、潜水漁の名手になるほど、漁獲は少なくなる。なぜなら、ほしい魚だけを選…

海の民タオの祈り。タオの作家シャマン・ラポガンの文学それ自体が祈りなのだ。歌なのだ。

●亡くなった子のための祈り「子どもよ、気を付けておまえの道を歩いて行くのだよ」「願わくば我らの膝から生まれた長女をお受け取りください この娘のお蔭で我らは祖父母となりました 娘を導いて白い島へお連れください 願わくば我らをシロカモメのような善…

石牟礼道子にとってアニミズム神は呪術神でもあるということ。

鳥獣虫魚草木石水風 アニミズムの神々を単に素朴な善良な神々なのだとは、石牟礼道子は思っていない。 『神々の村』P279 日々の暮らしとともにどこにでもいたあの在野の神々は、もとをただせば、人びとの災いを身に負うていた身替り仏であったり、災厄の神な…

シャマン・ラポガン『空の目』を読みつつ想い起こした石牟礼道子の文章を書き写してみる。

朝はたとえば、なまことりの話から始まるのです。 ひとりの漁師が、まださめやらぬ夢の中からいうように語りはじめます。 「いや、よんべは、えらいしこ、なまこのとれた。ああいうことは、近年になかったばい」 チッソ社長室に近い応接室の床にごろ寝をつづ…

『苦海浄土』を読み直している。第三章「ゆき女きき書」を読み終えたところで、正気を保つのがやや難しくなる。

ゆき女の声は、石牟礼道子の声でもある、じょろり(浄瑠璃)を語って旅する六道御前の声でもある、数限りない死者たちの声でもある、石牟礼道子が言う「じょろり(浄瑠璃)」とは、「説経」をさすものと思ってもらっていい。文学が死者たちの声の賜物である…

最終日  李仲變美術館は工事中で入れず。正房瀑布を訪れたが、4・3の時にそこで虐殺されて、死体も海に散って見つからない者たちの墓(空っぽの墓:虚墓)がある東廣里の交差点はただ通り過ぎるだけだった。

オルレが流行って、市場も毎日オルレ市場と改名した西帰浦の町、そこで私は団体から一人離れて、交差点の角のスタバで山尾三省の『火を焚きなさい』を読んでいる。近代化に抗する道/オルレと言い切るのは、やや無邪気だろう、それでもなお自身のオルレを思…

堂めぐりの後、午後は済州オルレの第7コースを少しだけ歩いた。オルレを発想し、つくりあげた徐明淑(ソ・ミョンスク)氏の案内で。

歩いて生きること、風景はその外側から観るものではなく、その中で生きるものなのだということを、思い出させる済州の道、 徐明淑氏自身がその道にたどりつくまでの人生の長い時間を聴いた。 とりわけ成り行きで我知らず民主化運動の真ん中で活動し、拘束さ…