文学

黄晳暎 発言  メモ  

2008年「第一回東アジア文学フォーラム」発表原稿より。 民主主義、人権、自由、平等などは今やあまりにもよく口にのぼる。色あせた旗のように見えるが、今日的意義を失ったわけではない。お互いの状況はそれぞれ異なるが、作家である私たちは、まず国家主義…

黄晳暎『パリデギ 脱北少女の物語』(岩波書店) メモ  

この作品は、ムーダンたちの語る「パリ公主」神話を下敷きにしている。 北朝鮮に生まれ、生き難い状況に追い込まれ、家族と生き別れ、豆満江を越え、中国へと脱出し、運命のいたずらのようにして英国へと密航する。 北朝鮮脱出後、ついにはすべての家族を亡…

『ショウコの微笑』(チェ・ウニョン CUON)  メモ

神保町でこの作家を見かけたことがある。 柔らかで穏やかで物静かな気配をまとった若い女性だった。 そんな気配の奥底に、 すべての生きづらい人々に寄り添うのだという、 すべての哀しみを分かち合うのだという、 希望の宿る場所は誰も知らないこの世の片隅…

石牟礼道子の夢の光景  『苦海浄土』第二部 第四章「花ぐるま」より

河出書房版『苦海浄土』P343下段~ 思えば潮の満ち干きしている時間というものは、太古のままにかわらなくて、生命たちのゆり籠だった。それゆえ魚たちにしろ貝たちにしろ、棲みなれた海底にその躰をすり寄せてねむり、ここら一帯の岩礁や砂底から離れ去ろ…

文学の秘密を語る声。/『越境広場』第7号 中村和恵「ほおろびに身を投じる――エドゥアール・グリッサン『第四世紀』に見出すモルヌの風とカリブ海のもうひとつの歴史/物語」

『越境広場』第7号。女の声が強く響く『サルガッソーの広い海』(ジーン・リース)と『第四世紀』(エドゥアール・グリッサン)を対比させつつ、カリブ海の作家たちの「もうひとつの物語」を見渡しつつ、正史のなかには存在しない口承的記憶と文学について語…

『列島祝祭論』やっと読了。」

安藤礼二『列島祝祭論』読了。 実に面白かった。 著者あとがきから。 いびつな近代を真に乗り越えていくためには一体何をなせば良いのか。 (中略) 現在を知り、現在を根本から変革していくためには政治の革命、現実の革命のみならず、宗教の革命、解釈の革…

今日読んだ詩 

ぼくが水を聴いているとき ぼくは 水であった ぼくが樹を聴いているとき ぼくは 樹であった ぼくがその人と話しているとき ぼくは その人であった それで 最上のものは いつでも 沈黙 であった ぼくが水を聴いているとき ぼくは 水であった (山尾三省「水」…

これは ⇑ 坂口恭平『建設現場』のなかの言葉だ。年末の予言のような言葉。

抜き書きしながら、自分の声も書きとめながら、これだけ読んでは意味をとりがたいであろう言葉の群れ。 もう崩壊しそうになっていて、崩壊が進んでいる。体が叫んでいる。体は一人で勝手に叫んでいて、こちらを向いても知らん顔した。 日誌にはなにか記録さ…

シャマン・ラポガンは、文学におけるタオのことばと中国語の文字の関係を語る。これはとても大事なこと。

親愛なる日本の読者のみなさん、私は小説や散文を書きますが、私が文を書く“母体”はタオ語で、文字は漢字です。漢人(漢民族)の読者は、最初、私の作品を読むと、みんな私が書く漢字は“可笑しい”と感じるようです。その後、友人が私の作品の漢字や文法を直…

タオの勇士の条件は極めてシンプルだ、しかし、きわめて難しい。近代によって牙を抜かれ、本能を殺された者たちにとっては。

ヤミ族の勇士の基準は、舟を造り、家を建て、トビウオを捕り、シイラを釣り、物語を上手に話し、詩を吟じる、これらのことがすべてできる、ということだ。

みずからの人間再生のための文学、消費者ではなく生産者であり、みずから生きると同時に生かされえている命としての人間であるための文学。

シャマン・ラポガンの描くタオ族の美しいシイラ漁の情景を読む。 それはシャマンがシイラを釣り上げたあとのこの描写。わたしはシイラの、閉じたり開いたりするえらをずっと見ていた。櫂を漕ぐ手は止めていた。はるか遠くからの歌声が鼓膜を打った。歌声はこ…

『冷海深情』。新たな世界のための神話としての海洋文学はここからはじまる。

●「冷海深情」より「海は、歌い終わらない詩だ」と、シャマン・ラポガンの父は言う。 父と伯父は、詩で語りかけ、詩でこたえる。 ●「海の神霊を畏敬する」より。 「伯父が言うように、潜水漁の名手になるほど、漁獲は少なくなる。なぜなら、ほしい魚だけを選…

海の民タオの祈り。タオの作家シャマン・ラポガンの文学それ自体が祈りなのだ。歌なのだ。

●亡くなった子のための祈り「子どもよ、気を付けておまえの道を歩いて行くのだよ」「願わくば我らの膝から生まれた長女をお受け取りください この娘のお蔭で我らは祖父母となりました 娘を導いて白い島へお連れください 願わくば我らをシロカモメのような善…

石牟礼道子にとってアニミズム神は呪術神でもあるということ。

鳥獣虫魚草木石水風 アニミズムの神々を単に素朴な善良な神々なのだとは、石牟礼道子は思っていない。 『神々の村』P279 日々の暮らしとともにどこにでもいたあの在野の神々は、もとをただせば、人びとの災いを身に負うていた身替り仏であったり、災厄の神な…

シャマン・ラポガン『空の目』を読みつつ想い起こした石牟礼道子の文章を書き写してみる。

朝はたとえば、なまことりの話から始まるのです。 ひとりの漁師が、まださめやらぬ夢の中からいうように語りはじめます。 「いや、よんべは、えらいしこ、なまこのとれた。ああいうことは、近年になかったばい」 チッソ社長室に近い応接室の床にごろ寝をつづ…

『苦海浄土』を読み直している。第三章「ゆき女きき書」を読み終えたところで、正気を保つのがやや難しくなる。

ゆき女の声は、石牟礼道子の声でもある、じょろり(浄瑠璃)を語って旅する六道御前の声でもある、数限りない死者たちの声でもある、石牟礼道子が言う「じょろり(浄瑠璃)」とは、「説経」をさすものと思ってもらっていい。文学が死者たちの声の賜物である…

最終日  李仲變美術館は工事中で入れず。正房瀑布を訪れたが、4・3の時にそこで虐殺されて、死体も海に散って見つからない者たちの墓(空っぽの墓:虚墓)がある東廣里の交差点はただ通り過ぎるだけだった。

オルレが流行って、市場も毎日オルレ市場と改名した西帰浦の町、そこで私は団体から一人離れて、交差点の角のスタバで山尾三省の『火を焚きなさい』を読んでいる。近代化に抗する道/オルレと言い切るのは、やや無邪気だろう、それでもなお自身のオルレを思…

堂めぐりの後、午後は済州オルレの第7コースを少しだけ歩いた。オルレを発想し、つくりあげた徐明淑(ソ・ミョンスク)氏の案内で。

歩いて生きること、風景はその外側から観るものではなく、その中で生きるものなのだということを、思い出させる済州の道、 徐明淑氏自身がその道にたどりつくまでの人生の長い時間を聴いた。 とりわけ成り行きで我知らず民主化運動の真ん中で活動し、拘束さ…

3日目の午前、団体からひとり抜け出し、「堂」を訪ね歩く。臥屹里本郷堂から、堂めぐりをスタート。

臥屹里→松堂里→金寧里→北村里→新興里→善屹里とまわっていく。 「松堂」 ここは済州島の「堂」の神々の親とされる。 「北村里の海辺の堂」 有名な臥屹里と松堂里のほかは、堂の場所がよくわからない。 タクシーの運転手さんが地元の老人たちに聞いては探す。 …

済州大学の建築学の先生や、詩人の家の主宰の方の話を聞く。(一日目)、43平和記念公園、43の虐殺の村・北村里訪問(2日目)には参加せず、2日目午後の石文化公園からの合流です。

石文化公園に来たのは、四回目だと思う。 それは、この公園を創り出したひとりの男の狂気に引き寄せられてのこと。 男は、島の創世神ソルムンデハルマンと、その五百人の息子である五百将軍の神話を、自分自身の生の神話として、生きている。 男自身の母が「…

2018年10月13日<アナキスト宣言 in 京都>                                       思い起こせば、ここから「死者の声」とあらためてむかってゆく今回の旅ははじまったのだった。最初にこんな宣言をしてしまっているのだから、仕方ない。

『現代説経集』(姜信子 ぷねうま舎)より。 ただし、京都では、京都の声で、本文どおりには語っておりませぬ。 - 実を言えば、わたくし、ここのところ、恥ずかしながら「水のアナーキスト」を名乗っております。どうか陳腐な名乗りだと笑わないでください、…

近代社会において暴力の予感にさらされつづける者としての「異人」に出会うとき、そこに見いだすのは、「死体化」の時間を生きる説経の主人公たちの姿であったりもする。

●ある沖縄人の声「戦場化を押しつけた者がいなければ、わたしは沖縄戦にこだわらなかったはずだ。しかし、沖縄人を殺した日本人がいた。沖縄人を殺した沖縄人がいた。朝鮮人を殺した沖縄人がいた。そして、沖縄人はわたしだ。わたしが日本人に殺され、沖縄人…

訳者(廣瀬浩司)あとがきに、デリダの問いを噛み砕いてもらう。

★「歓待」を考えるための現代的な前提 「歓待」とは一般的に、国家、共同体、家庭などが、その戸口に到来した他者(外国人、異邦人、よそ者、客人など)を――無条件に、あるいは条件付きで――「迎え入れる」慣習や制度のことをいう。 国境や共同体のあいだをさ…

「歓待の行為は詩的なものでしかありえない」とデリダは言う。しかし、詩的なもののなかからこそ、不可能な歓待を可能ならしめる世界は到来するのではないだろうか。

まずニーチェの声。 「おお、人間よ、そなた、高等な人間よ、心せよ! 次の言葉はさとい耳に、そなたの耳に聞かせるためのものだ――深い真夜中は何を語るか?」 そして、ヤン・パトチカの声。 「人間は不安をかき立てるもの、和解不可能なもの、謎めいたもの…

砂けぶり 二

焼け原に 芽を出した ごふつくばりの力芝め だが きさまが憎めない たつた 一かたまりの 青々した草だもの両国の上で、水の色を見よう。 せめてものやすらひに―。 身にしむ水の色だ。 死骸よ。この間、浮き出さずに居れ水死の女の印象 黒くちゞかんだ藤の葉 …

国文学の発生  「てっとりばやく、私の考えるまれびとの原の姿を言えば、神であった。第一義においては古代の村々に、海のあなたから時あって来り臨んで、その村人どもの生活を幸福にして還る霊物を意味していた。

と、『国文学の発生』(第三稿) まれびとの意義 において折口は書く。また、その「五 遠処の精霊」において、「沖縄の八重山」にその類例を見る。 「村から遠いところにいる霊的な者が、春の初めに村人の間にある予祝と教訓を垂れるために来るのだ、と想像…

「心安らかに居られる家郷を離れて、未知の地を久しく旅する者達は、一日の終る頃や夜の時間になると、限りなく魂の不安動揺するのを感じた。それを鎮めるための効果ある方法は、旅をする一行の者が共に静かな心、静かな言葉をもって、旅中の思いや風物を歌い鎮めることであった。

これを、 「旅の夜の鎮魂歌」 と、岡野弘彦が冒頭の解説に書く。意味深い言葉。 旅の夜の鎮魂歌。 旅中の一行の共同の呪的な祈りと歌の場。 まれびとと文学発生の場の光景の鮮やかなイメージのひとつ。

石牟礼道子『苦海浄土』 第六章とんとん村 より。 足尾への眼差し。

「すこしもこなれない日本資本主義とやらをなんとなくのみくだす。わが下層細民たちの、心の底にある唄をのみくだす。それから、故郷を。 それはごつごつ咽喉にひっかかる。それから、足尾鉱毒事件について調べだす。谷中村農民のひとり、ひとりの最期につい…

この小説を書きながら、書き手は、「小説」なるものについて語っている。その小説観はなかなか興味深い。

P12(新潮文庫)「よく小説家がこんな性格を書くの、あんな性格をこしらえるのと云って得意がっている。(中略)本当の事を云うと性格なんて纏ったものはありやしない。本当の事が小説家などにかけるものじゃなし、書いたって、小説になる気づかいはあるま…