重要なのは両者(寓話・象徴)ともに世界の多様性が安易に一義化されてはいないということです。


●これ(↑↑)はアフリカのセヌフォ族のフィールドワークに入った中島智の言葉。
この言葉は、さらにこう続く。

「そういうわけでセヌフォの人びとも文字を学んだ者に対しては基本的に秘儀を伝授しません。これは意味の一義化、固定化の指向を招くものだからです。そこでは自然と対峙したり精神階梯の高い人びとと対話を交わす中で働く官能的な直感力が鈍くなってしまうのです」


●セヌフォ族の酋長の意味深い言葉。
「そこにいないものの名を呼ぶと、見えない世界の中に重大な運動を生じさせ、その事情、その存在が喚起され、呼び出されることになる。気をつけなさい。」


安易な呼びかけは危険なのである。
意識によっては交感不能な位相の世界に対して音楽の形式や象徴の形式、あるいは肉体(語りやダンス等)を通してその呼びかけを実践していく者たちにとって、呼びかけは存在レベルの交感であり、実際にそれは何らかの喚起をもたらす。それゆえに呼びかけは危険なのである。


●「セヌフォの人びとにとっての美とは、共に生きながら意識レベルでは交感不可能な絶対的他者を、内なる他者の諸形式に仲介させる技術において立ち現れるものなのです。すなわちそれは一種の力であると同時に、存在そのものなのです」

民俗的な世界においては土器を制作するのもまた女性たちの仕事です。

「土器を造る火、「外」から得られたものを人間世界に有効にもたらす火、これらは女性に統べられることで生産の火と見なされうるものです。」


この「生産の火」と対極の「破壊の火」を扱うものとしての男性性を中島智は語る。
そして、生産の火と破壊の火を両方を扱うマージナル存在、シャーマンと相似の存在としての「鍛冶師」を語る。


「鍛冶師というのもこの女性原理としての生産の火を扱うことの許された特異な存在なのです。彼らは屑鉄や銅の原石を人工物に変える力をもっています。この点では彼らは女性の力を纏っているのです。ところが彼らが造り出すものは樹木を伐採し、動物を仕留め、大地を耕し、戦争に用いるための道具なのです。また男たちが用いる火は主に焼き畑です。その目的が何であれ、それらに共通しているのはそれが破壊力であるということです。すなわち鍛冶師というのはその生産力によって破壊力を生み出す両義的な存在なのです。あるいは女性原理と男性原理をあわせもった両性具有的な存在なのです」