一声(本調子)



一声を 花の東の町々に 
残してゆくか山時鳥
空も青葉の簾越し
萌黄の蚊帳や 蚊帳や 幌蚊帳
涼しい風が来るわいな


あな恐ろしやの「仲良し会」、田毎、一条、堀の小唄の各流派が集まっての小唄の会が、無事、終わりました。
脱力しました。


私は堀の三番手で舞台にあがり、二曲、「惚れて通ふ」と「夏の雨」を唄ったのですが、今回は六本(C♯)という自分としては前代未聞の高さで唄うことになって、声が震えました。それでなくとも、もう充分に身が震えているというのに……。お師匠さんは舞台にあがりゃ、普段出ない声が軽〜く出るものよと明るくおっしゃってはおりましたが。


きいきい叫ぶように張り上げず、腹の底に力を入れて、しっかりと芯がありながらも柔らかくたおやかな声で唄うこと。体でしなを作らずに、声で品良く「しな」をつくること。


何しろ、小唄は四畳半でしっとり差し向かいで唄うような気分でいかなくっちゃあ、いけませんから。その練習をしなくちゃ、しなのある声を出すために喉をひらかなくっちゃと、いっぱしのことを言って、小唄会の前日に課題曲に向き合わずに、カラオケに行って唄い叫んでいた愚か者は、このわたくしめであります。


喉は開いた、腹は据わったと自分に言い聞かせていた出番前、舞台裏で二番手の方の唄にふと耳を傾けたらなら、それは私が昨年の浴衣会で唄った「一声」。ああ、この唄と思わず小声で口ずさんだ瞬間、四番手で出演の方が私の着物の袖をつかんで、大変だ、大変だぁと、舞台上の唄い手の声が聴こえぬところまで三番手の私を引っ張っていく。何事かと思いましたら、あの唄を聴いていたら、今までの努力が全部水の泡になってしまうー、と四番手は恐れおののいている。


ええ、確かに二番手は小唄をはじめたばかりの方で、小学校唱歌のような清く美しい唄い方をされます。はじめはみんなそうです。譜面どおりに唄えるだけでも、譜面を無視した作曲能力(?)に長けている私に比べたら、なかなかのものです。(なんて私が言うのもおこがましいことですが)。


ただ、問題は、当然のことながら、根本的に唱歌と小唄とは、声の出し方作り方が違うということにあるわけで、でも、学校でそういう音楽教育を受けてきたわれら(?)には、その唄い方は抵抗なく実にすんなり入ってきてしまう。必死の思いで「料亭の小座敷でしっぽり、しなのある声」と付け焼刃でたたっこんだものが、すがすがしいほどにきれいさっぱり洗い流されてしまう。


気がつけば、「しっぽり」の「し」も、「しな」の「し」も、「しょうか」の「し」にのまれておりました。人間に施された「声の近代化」の成果とは、なかなか手ごわいものであると身をもって知りました。はい、なまじ、知っている「一声」を、四番手に廊下に引っ張り出されるまでのほんの数秒聴いて、一緒に口ずさんだがために、私の小唄も、まことにすがすがしく、健全で、近代的なものとなりました。すまぬのぅ、四番手、三番手への温かい気遣いを無にしてしまって。そもそも三番手自体に「しっぽり」も「しな」も欠けておるからのぅ……。


仲良し会が終わってボーっとしている間に、梅雨がやってきました。熊本の梅雨は日々サウナの中で暮らすような蒸し暑さ。クーラーがきらいな私には自然の涼、暮らしの中の涼の演出が命。蚊帳をつるし、風鈴を鳴らし、てなことでもできればいいのですが、物に埋め尽くされて殺伐とした風景の我が家では土台無理なお話のようです。


『一声』。私は勝手に「花の東=お江戸」の夏の風情を歌ったものと思っていましたら、毎度お世話の木村菊太郎先生の御本によれば、これはご一新後の東京、まだ江戸っ子の気風が残っていた頃の、蚊帳売りが往来をゆく夏の風景を唄ったものなのだそうです。それを知ったら、急に樋口一葉の「たけくらべ」の情景がまざまざ浮かんできてしまいました。


嗚呼、明治は遠くなりにけり、
嗚呼、わが「しな」も「しっぽり」もはるか彼方に去りにけり。


『一声』の元唄は歌沢(寅派)の鶯亭金升の作曲。それを昭和に入って小唄幸兵衛が金升の了解を得て改作したとのこと。実のところ、小唄を知れば知るほど、明治も江戸もそんなに遠くはない。駆け足で遠ざかっていったのは、昭和、それも戦後、高度経済成長が始まった頃のことではないかと、ふと思ったりもいたします。それは、ちょうど私が生まれた頃でもあります。