春風



春風がそよそよと 
福は内へとこの宿へ 
鬼は外へと 梅が香添ゆる 
雨か 雪か 
ままよままよ 今夜も明日の晩もいつづけに 
玉子酒


5月28日、新橋演舞場で、新橋の芸者衆の華の舞台、「東をどり」を観てきました。
今年はなんでも新橋百五十周年。(安政4年に「酌取御免」の許しを得て金春街道(今の銀座八丁目)に新橋花街が誕生して以来百五十周年。かつては幕末の志士や維新の高官たちや明治財界のお歴々が足をお運びになったとか)。ということで、例年とは違って、演舞場を料亭と芸者の文化を楽しむお祭りの場としたんだそうな。


そんな趣向の舞台とは露知らず、料亭文化には縁遠いわたしですから、ただただ、新橋芸者の粋と艶と色をちらりとでも垣間見ることができるんじゃないかしらと、もう2ヶ月も前からチケットを取って、この日を待ち構えていたわけです。最近活躍の俗曲師うめ吉の人生を大きく変えたのも「東をどり」という噂を小耳に挟んでもおりましたしね。とはいっても、彼女の人生の転機の「東をどり」はきっと20年近く前のものじゃないかしら。


新橋の姐さんたちは、それはもう舞台の上で大奮闘でありました。
まずは、「清元」の名曲「四君子」を踊る。四君子というのは、蘭・竹・梅・菊のこと。それぞれの花の彩り、あでやかさが華やかに踊りに込められたもの。なんて知ったかぶりで書いていますが、パンフレット横目の付け焼刃。


四君子」に続いて演じられた「芸者の四季」は、安政の世から現在に至るまでの新橋花街の歴史の総ざらい。スライド上映でその歴史を見せてくれたあとに、姐さんたちのご登場。明治から平成までのそれぞれの時代の風情や東をどりの人気演目をちらりちらりと舞台上で覗き見させてくださるわけです。


昭和の「東をどり」ブーム(というのがあったらしい!)で上演された「清姫安珍」や「決闘巌流島」を再演、なんて、ちょっとびっくり、かなり新鮮。だって、清姫はまあなんとか納得できるものの、芸者姿のままの安珍なんだから。小次郎、武蔵も芸者姿のままで丁々発止の巌流島。こういうのを料亭では座興でやっていたのかしらとふと思ったりしつつも、実際のところは皆目わかりません。でも、しっかりと受け取ったのは、姐さんたちの「遊び心」、そうやって趣向を凝らしてお客様を楽しませるんだという心意気。


若い色や艶は今の「東をどり」にはなかったけれど、料亭の座敷を本舞台に年輪を重ね、さまざまな人生の水を飲んで、お歳を召してきた姐さんたちの粋な風格からにじみ出るえも知れぬ味わいをしっかと感じました。同時に、風格と味わいの中にどうしようもなく染み入っている儚さも……。


俗曲師うめ吉は、「東をどり」で日本の文化に出会って、日本の文化を知らない日本人であったことに衝撃を受けたというけれど、それから、たぶん十数年遅れて「東をどり」を観たわたしは、色・艶・粋に彩られた遊び心という芯を持つ「芸」で人と人とを結び、さまざまな色合いの心模様人間模様の舞台となった「場」の行く末、この闇の浮世を照らし出す月のゾクリとするような蒼い光のような、そんな光をまとった「芸」と「遊び」の「場」の行く末を垣間見たような気がしました。華やかな舞台上にパッと現れて消えた、ひとときの儚い夢を観たような一抹のさびしさを覚えたんです。別に今もある高級料亭のような「形」の盛衰を言っているのではなく、高低貴賤おかまいなく、そもそもそういう「場」を人が持つようになって、そしてそれが消えゆこうとしている時に、わたしたちは何を失おうとしているんだろう。とまあ、そんなことをふと思ったりするわけなんです。


日本、日本、伝統文化、伝統文化、と連呼するような声が巷にはありはするけれど、何をさして日本、何をさして伝統文化というのかな。粋で、人としての品をなくさず、遊び心ををまといつつ、人と人とがしっぽりと結ばれる「場」、そういうところから生まれてきた大事なものを、わたしたちはどんどん忘れていっているんじゃないのかな。なんて、小理屈めいたことを言うのはわたしの悪い癖だけど、要は切なかった……。


「芸者の四季」の部で清元の『春風』が歌われました。小唄のお稽古でわたしもなじみの唄。
この唄、明治中期の作だそうです。これもまた料亭の一情景。春風がそよそよと吹く(福)一夜、男は居残り左平次よろしく、馴染みの芸妓もこれ幸いと、雨か雪かと、口実にもならない口実でふたりしっぽり。玉子酒で精でもつけましょうかなんてね。これも早間の面白い唄です。


でも、なんやかんや言っても、フィナーレの「花の賑わい」は壮観でした。姐さんたちが揃いの粋な黒の着物で花道に勢ぞろい! 新橋芸者の心意気!


どんな形であれ、わたしも、心意気を内に秘めた、さまになる生き方をしたいものであります。