エマヌエーレ・コッチャ『メタモルフォーゼの哲学』 「おわりに」より

未来とはメタモルフォーゼの純然たる力である。(中略)将来というのは、生とその力がいたるところにあり、個体としても個体群としても種としても、わたしたちのうちのいずれにも属しえないということである。将来とは、変態することを個体や生物群に強いる病である。つまり、わたしたちが自分たちの同一性を何か安定したもの、決定的なもの、リアルなものとして考えることを妨げる病なのだ。
 
(中略)

わたしたちがこの病から身を守る必要はない。(中略)病まねばならない、よく病まねばならないのだ。それも死の恐怖を抱くことなく。わたしたちとは将来である。わたしたちは短い生を果たす。わたしたちは次々と死んでいかなければならない。
 
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メタモルフォーゼ。
自分は無数の他者で構成され、やがて、自分は他者の構成物になる。
それは物質的なことだけではなく、精神的なこともまた。
 
たとえば、この世界で現在進行中の、「メタモルフォーゼの哲学」とは対極の、
境界線を引き、他者を排除し、殺すことも厭わない思考の産物であるジェノサイド、
その無惨を生きて死んでいった人々の恐怖、絶望、憤怒、諦念といった感情も未来を構成するのだろうか、
と、ふと思う。(きっとそうなのだろう)
 
同時に、
私の中にある、どこから来たのかわからぬ悲しみや虚無を想いもする。
 
今を生きる私の心、私の精神が歓びとと共にあるとき、未来に歓びが運ばれていくのだろうか。
(これもまた、きっとそうなのだろう)
 
メタモルフォーゼを生きること。
今こそ、コッチャの言うところの将来をよく病むこと。
 
<よく病む>とは、実は、<よく闘う>ことなのだということ。
何との闘い? 
思うに、それは、排除と分断と無数の理不尽な死の上に富が築かれる、いまのクソみたいなこの世界を作り上げている精神との闘いでしょう。
きっとね。