わたしたち人間は、「明確な境界線や、内側と外側の空間の対置から解放されることができない」とコッチャは語る。
なぜなら、人間も人間でない存在も、果てしないメタモルフォーゼのなかの存在であり、どの存在も他者の、他の存在の乗り物であることを、人間は忘れているから、
しかも、人間は、忘れているだけでなく、「万人の万人に対する戦い」といった人間中心の啓蒙思想を背景に、「競争や戦争状態」とその中での有用性、機能性、目的を前提に命を語る。たとえば、進化論のような。それは、優生思想とも、植民地主義とも、資本主義とも結びついていく。命の価値づけと分断と排除へとつながっていく。
そして、人間は、壁に囲まれ、境界線を引き、「みんな家にいる」。
いまいちど、
すべての存在はメタモルフォーゼの賜物である、
「わたしたちの生は他者の生のメタモルフォーゼという行為によってはじまった」
「メタモルフォーゼはけっして停止することがない」
「あらゆるメタモルフォーゼ的な存在――あらゆる生まれた存在――はこの他性によって構成され、取り憑かれており、けっして消し去ることはできない。」
なのに、
「わたしは忘れてしまった。生まれることは、以前わたしたちであったものを忘れること、他者がわたしのなかに生き続けているのを忘れることを意味する。わたしたちはかつて存在していたが、別様であった。誕生とは絶対的な始まりではない。私たちの前にはすでに何かが存在し、わたしたちは生まれる前にすでに何かであり、わたしの前にわたしが存在したのだ。誕生とはそうしたものでしかない。つまり、わたしたちの自己と他者の自己のあいだ、人間の生とノンヒューマンの生のあいだ、生と世界の物質のあいだにある連続性の関係から外れることは不可能であるということだ。」
「わたしは生まれた。わたしは自分とは異なるものにつねに乗っている。自己とは、他所から来てわたしよりも遠くに行くように定められた異質な乗り物にほかならない。それが言葉、香り、視覚、分子のどれにかかわるかはさほど重要ではない」
「わたしは生まれた。わたしを作っている物質は純粋に現在的なところがまったくない。わたしは先祖以前の過去から乗って、想像できない未来を目的地としている。わたしとは、ばらばらで両立することのない時間、ある時代や瞬間にわりあてることのでこきない時間である。わたしとは、ガイアの表面で起こる複数の時間どうしの反応なのだ」
「「わたし」は生まれながら他の存在に対してのみ存在しているのであり、翻って、わたしとは乗り物にすぎない――「わたし」はつねに自分とは異なるものを運ぶ何かなのだ」
そのことを思い出すこと、二度と忘れぬこと、分断と排除と共に在る人間中心の世界観・生命観を手放したときに、開かれる世界に想いを馳せること。