逸脱、もしくは脱線、と言うなら、そこには「本筋」というものが前提されている。しかし、それがない。仮縫いのしつけ糸のようなものの手触りはかすかにある。あくまで仮縫い。
『挟み撃ち』後藤明生。
とつぜん記憶がよみがえる、とつぜん事態が動く、とつぜん始まってとつぜん終わったような、しかしそれも定かではない、脈絡を切断し、因果を切断し、物語が物語らしくなりそうになった途端にとつぜん物語は棚上げされる(=宙に浮く)。
「実際、昭和七年にわたしが生まれて以来、とつぜんでなかったことが何かあったでしょうか? いつも何かがとつぜんはじまり、とつぜん終り、とつぜん変わらなかったでしょうか?
「これだけは、はっきりお断りして置きます。(中略)昭和七年にわたしが生まれてから生きながらえて来たこの四十年の間というもの、とつぜんであることが最早や当然のことのようになっているわけです。とつぜんの方が、当然なのです。(中略) 実際何が起るかわからないのです。そしてすべてのことは、とつぜん起るわけです。あたかもとつぜん起ることが最早や当然ででもあるかのごとく、とつぜん起るのです! そしてわたしが知っているのは、その「とつぜん」が、誰かにはきわめて当然の結果と考えられるだろう、ということです」
物語と非・物語の隘路をゆく語り。何も始まらない、何も終わらない、でも、その始まりでも終わりでもない宙吊り時間(もしくは、円環のような、果てしない、繰り返しの時間)のなかに確かに在る「何か」、人間の(もしくは「私」の)、言葉にならない「何か」が、確かにそこで語られている。失笑を誘うほどに生真面目に、滑稽に。
とつぜん、とは一見いかにもご都合主義の言葉のようではあるけれど、実のところ、ご都合主義すら物語に持ち込めない(いわゆる「物語」を語ることに意味を見出していない、物語性を斥ける)語り手にとって、これ以上に自分と世界の関わりを表現するギリギリの言葉はないようにも思われる。物語をなしくずしに、最終的にはきっぱりと消してゆく、その成り行きのなかから図らずも物語がうっすら立ち上がってくる(いまだ仮縫いの物語)。
物書きというのは、実に、滑稽な存在であるとつくづく思わせられる。(言葉にならない「何か」にとりつかれて、時間と労力と気力を費やして…)。
言葉にならないなら、言葉にしないで放っておけばいいじゃない、言葉にならない何かなんて、さっさと通り過ぎて忘れてしまえばいいじゃない、ということにはどうしてもできない生真面目さと尊大さ(言葉にならない何かをいつか捕まえられると信じている不遜、言葉にならない何かを捨て置くことをウスッペラと感じる傲岸)と自己愛(そうでもしなくちゃ私は生きていけないのよ、私は、私は、私は…、と連呼する声)は、やはり、どう考えても滑稽。
しかも、そうやって、必死に書いたその所産は、いつまで経っても仮縫い。本筋は見えない。と、いま書きつつ、とつぜんに、ふっと思ったのは、本筋のある、始まりも終わりもきちんとある完結した物語を書かないことは、ある種の書き手にとっては良心のひとつの表現でもありうるということ。
脈絡なく、とつぜん、今日、目に飛び込んできた言葉。
草を食めよ
草に眠れ
草を纏い
鉄の心臓をもて
(パヴレ・ティヴェイスキー ソボチャニ修道院 西壁画銘文 『アトス しずかな旅人』より)