星と※

少し太宰づいて「斜陽」を再読。やっぱりうまいな、太宰、やんなっちゃうな。その昔、もう三十年以上前、NHKで「斜陽」をドラマ化して、かずこ役を八千草薫が、作家の上原役を木村功が演じたのを見た記憶がある。以来、かずこと八千草薫が重なっていたのだが、いまじっくりと読んでみれば、どう考えても、かずこは八千草薫ではない。八千草薫には静かな狂気がない。じゃ、誰だ? 大竹しのぶ

キャッチャー・イン・ザ・ライ」を村上春樹版で読み直そうと図書館で借りてくる。
ついでに保坂和志の「書きあぐねている人のための小説入門」も。保坂は言う、「二〇世紀前半の小説は、地理的な「辺境」を書くことで活力を得ていた。E・M・フォスターのインド、イーヴリン・ウォーのアフリカ、マルグリット・デュラスインドシナなどがその例で…(中略)…、現在、そういう意味での辺境はなくなってしまった。では、今どこに「辺境」があるのかといえば、それは「人間の内面」だと思う」。同感。

姫野カオルコ「もう私のことはわからないのだけれど」。来週月曜からの大学での文芸創作講義に使おうかと思案中。たとえば、本多彩子掛川市・44)とあって、そのあとに本多彩子さんの呟きが置かれている。そして、この本多さんがどんな人なのか、詳細なプロフィールが添えられている。これ、すべて、作り事、フィクション。しかし、そのリアリティに打たれる。

空を見上げた。星が見えた。星のはずなのだけど、乱視がすすんだ私の眼には※に見える。空に無数の※。黒い大きな本のページの無数の※(=注釈)のように見えて、この世界を知るためには、あれだけ無数の注釈を夜空から読み取らねばいけないのだろうかと、ふと思い、途方に暮れる。