ウナギ話法ぬらりくらり

8月14日、恵比寿の写真美術館に『ジョルジュ・ビゴー展 -碧眼の浮世絵師が斬る明治-』を観に行く。
洗足池から池上線で五反田に抜けて、そこからJRで恵比寿に向かおうとしたところで人身事故。小心な私はまさに事故が起きたばかりらしい五反田駅のホームになかなか降りられない。目の前にする<人身事故>は怖いほどリアルだというのに、「人身事故」という言葉自体はあまりに日常化して、人が怪我したり亡くなったりということへの現実感が言葉から抜け落ちていっているようで、ひどくチグハグな感じに捕らわれる。
で、ビゴー。本でも見たことのある明治日本の情景がいっぱい。ちびで出っ歯で、もうひとつはなんだったけな…、西洋人が日本人を戯画化するときの三大特徴。そのおおもとはビゴーにあり、らしいのだが、だってその頃の日本人は本当にちび、出っ歯、○○だったんだもん、ビゴーのせいじゃないよ、というような文言を展示で見たような気がするが、もしかしたら、間違っているかもしれない。

さてさて、明後日8月17日から再び集中講義。四日間で15コマ。テーマは文学方法論。文学に一般的な方法(=マニュアル)はないよ、と言ってしまったら、最初の数分で授業は終わってしまうので、自分なりの方法にたどり着くためのレッスン(この世界の他者になるレッスン、もしくは自分のなかに他者を見つけるレッスンとでも言おうか…)ということで授業を一日1テーマの4部構成(の予定)にしてレジュメを作ってはいる。ただ、最近の私は話し始めると、言葉が私の意図には頓着せずにやたらと徘徊して行方知れずになるので、気分は今からひどく心もとない。いや、実のところ、既にもう行方知れずになっていて、(言葉か? 私か? どっちだろう?)、明後日、私は無事に大学の教室でなにかを話しているのだろうか、きっと誰かが話していることだろうが、それが今ここでこうして明後日のことを考えている私であるのかどうか、はなはだ心もとない。


芥川龍之介「大震雑記」、エリ・ヴィーゼル「夜」小島信夫保坂和志「小説修行」を読む。何を読んでも小島信夫はすごい。あのたぐいまれなウナギ話法に翻弄されるのが実に楽しい。そのヌルヌルクネル語り口ばかりに気をとられて、小島信夫が何を語ったのかすぐに分からなくなってしまうのだけど、それでも面白くてたまらない。夜のお菓子ウナギパイならぬ、眠れぬ夜の友ウナギ本。ページをめくるたびにヌラリクラリ。