羞恥よりも、屈辱

昨日、11月5日、東京・北の丸の科学技術館で、「いまハンセン病療養所のいのちと向き合う! 〜実態を告発する市民集会〜」に参加してきた。年上の友人、草津の栗生楽泉園の谺雄二さんが世の人びとに向けて放った痛切なる言葉に突き動かされて。

以下、その全文。

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ハンセン病療養所入所者の『病み棄て』を許さない決起集会を開催します。 あなたの参加を心からお願いします。

法をもってハンセン病患者を強制隔離し入所者の絶滅を目的としたハンセン病政策の過ちを糾す裁判は、多くの市民の皆さんのご支援を得たたたかいの中で、2001年5月11日熊本地裁判決が国を断罪、私たち原告団は全面勝訴しました。そして私たちは市民の皆さんのさらなるご支援により、国を控訴断念に追い込み、この判決は確定、私たちは直ちに、判決が認めた私たちの被害の回復に「法的責任を負う」とした厚生労働大臣との間で『基本合意書』を交わし、被害の回復実現へ向けての厚労省交渉を開始したのです。
 しかしそれからもう11年余になりますが、この間、厚労省サボタージュというべき姿勢ゆえに交渉課題の進展は容易ではなく、これを打開するため、2007年にまたしても市民の皆さんに訴えて、問題解決への「ハンセン病問題基本法」制定をめざしました。この運動では、市民の皆さんに署名をいただき、翌08年、実にその数93万筆に達し、これをハンセン病問題に関する2つの超党派国会議員懇談会に提出。同年ついに衆参両院全会一致で、私たちの「被害の回復」を基本理念とする「基本法」が制定され、09年4月施行されました。ついでこの年、衆院で「ハンセン病療養所の医療体制の充実に関する決議」がこれも全会一致で可決され、翌10年参院でも同じ決議の可決をみています。
 それにもかかわらず、政府・厚労省は国権の最高機関である衆参両院による「基本法」および「決議」を無視、私たち入所者が高齢化とともに後遺障害度も増大してきていることすら眼中にないまま閣議決定による「国家公務員削減」ならびに「公務員新規採用削減」をハンセン病療養所にも強要しました。その結果、私たち入所者は医師不足・看護師欠員・介護員の削減と賃金職員制による不安定感にさらされ、この期に及んでなお『病み棄て』ハンセン病行政に苦しんでいるのが実態です。私たち入所者は、すでに平均年齢82歳を超え、不備な医療体制の下で死亡率も高まる一方です。
 その私たち入所者が、ついに来たる11月5日午後6時、東京・北の丸公園内「科学技術館」において、市民の皆さんの絶大な協力をいただき、ハンストや坐り込みの実力行使を覚悟で、告発する市民集会を開催します。まさに命の終わりが迫っている私たち入所者の最後の叫びともなる集会です。
 あなたにおかれましては大変ご多忙と存じますが、ぜひこの集会にご参加くださいまして、死んでも死にきれない思いの私たちの訴えをお聞きくださり、いっそうのご支援をたまわりますよう、ここに伏してお願い申し上げる次第です。

2012年10月14日
ハンセン病意見国賠訴訟全国原告団協議会会長
谺雄二

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集会で、ハンストを決行するという入所者の方々の決意表明があった。80代、90代の、高齢も高齢、もちろん障害を抱えた入所の方々。この状況に、国賠訴訟弁護団の団長であった徳田弁護士が、「恥ずかしい」と言った。この方々をハンストのような決死の抗議をせざるをえない状況に追い込む日本政府、その政府のもとで日本国民であることの恥。そして、怒り。

私は「恥ずかしい」というこの感覚とは異なる感情が動く。なんと言えばいいのだろう。想像力のない人々に、こうして、私も棄てられ、殺されていくのだろうという、屈辱の感情とでも言うのだろうか……。
そう、羞恥ではない。私のいのちもまた、いのちに対する感受性も想像力も持たない輩に、谺さんと同様、ハンストを決行するという入所者の方々と同様、じわじわとなぶられ、殺され、捨てられていくのだという屈辱と怒り。この百年以上もの間、沖縄で、北海道で、朝鮮で、ハンセン病療養所で、水俣で、筑豊で、福島で、東北で、繰り返し繰り返し、形を変え行われてきたこと。今もなお現在進行形で行われていること。

ハンストを決行するとしたら、それはあの人たちだけにさせてはいけない。いのちを守るために、いのちをなぶられているすべての者たちが、ともにハンストを、と私は思う。何万人も、何百万人も、何千万人も、一億人も、なぶられている者すべてがハンストを、と想う。

なぶっている者たちの想像力の鈍麻は、なぶられ続けている者たちの感覚の鈍麻を時に呼びもする。私たちの多くは既になぶられていることすらわからぬほど、感覚は麻痺しているのだろう。
ハンセン病の後遺症で知覚障害を抱えている谺さんたちのほうが、なぶられているということに慣れない。痛みと苦しみと怒りを体いっぱいにたぎらせているということのアイロニーを思う。
私達はむしろ、慣れない彼らに救われるのだ。「恥」を言うなら、救われる私達が支援者という場所に立っていることの「羞恥」を想った方がいい。

感覚を呼び覚ませ、息を吹き返せ、いのちを取り戻せ、愚直に自分にも自分の外にもそう囁き続けようと思う。大切なことを忘れてしまわぬよう。大切な感覚を失くしてしまわぬよう。