目で音を聴いてはならない。

私は眼鏡をはずすと、耳も遠くなる。電話をするときには眼鏡は必需品。などということをいきなり言うのは、『琵琶法師』(兵頭裕己 岩波新書)を読んでいて、こんな記述にぶつかったから。

「芳一(耳なし芳一)がそうであるように、琵琶法師はふつう盲人である。目が不自由なかれらにとって、耳とはなんなのか」
「目による選別がなければ、私たちの周囲は、見えない存在のざわめきに満ちている」
「耳からの刺激は、からだの内部の聴覚器官を振動させる空気の波動である。私たちの内部に直接侵入してくるノイズは、視覚の統御をはなれれば、意識主体としての『私』の輪郭さえあいまいにしかねない。そんな不可視のざわめきのなかへみずからを開放し、共振させてゆくことが、前近代の社会にあっては、<異界>とコンタクトする方法でもあった」


ここ数年、語りについて考えつづけている。
語り手とは、語り手である前に、聞き手であるということ。良き耳を持つ者だけが、良き語り手たりえるのである。
良き耳を持つということは、どういうことか?
不可視のざわめきに自らを開いていく「耳」を持つということ。意識を目から解放すること。