妄想する耳

古井由吉の作品集『聖耳』を読んでいる。

延喜帝が深夜、京の端で泣く女の声を聴き取り、今すぐその声の主を尋ねよと蔵人に厳命して、探し出させた逸話を表題作「聖耳」の中に古井由吉は書き込んでいる。。
それは声にまつわる空恐ろしい語り。

「一里の道を渡って、聖人の耳にとにかく届いた、とにかく留まった。打ち棄てては置かれなかった。内に心を隠して、外に泣き悲しむ。悪事を犯した者の偽りの慟哭とは、初めに聞き分けたのだろう。・・・(中略)・・・偽りの叫びながら、聞くほどに訝しい。外に泣き悲しむ声に、内に隠した心の凄惨が露れている。これも悲しみなのか、それとも悲しみをとうに超えた心なのか。内裏を探させているうちにも、大内裏を尋ねさせているうちにも、声は遥けさを帯びて、さらに人界の外にまで訴えかける。放って置けば、京中の人間たちの眠りの底から、同じ叫びを掻き起こしかねない。人は自分で気がつかず、変わらぬ眠りを貪りながら、声にならぬ叫びに感じる。街のあちこちからおのずと火の手があがるかもしれない」

そうだ、もうあちこちに火の手があがりつつあるのかもしれない。思わずそんな想いに襲われれば、背筋がぞくぞくとする。

年末からひどい腰痛に襲われ、年始に風邪で38度の熱を出し、それが治ったと思ったらインフルエンザで再度38度、同時に中耳炎になった。と思っていたら、突発性難聴まで併発。1月7日以来、左耳のなかでずっと砂嵐が吹いているような音がする。ずっと砂漠にいるような気がする。
突発性難聴の治療は発症後2週間が勝負なんだそう、だいたいそれで3割完治、3割少し良くなる、あとは聞こえぬまま治らない。ということらしい。

砂嵐のなかで、ときおり、正常な右耳には聞こえていない音がする。

医師から安静(ストレスと疲労は厳禁)を命じられているので、本を読む。
白川静の本。
私の姓の「姜」という字は、中国の羌族に由来なのだが、羌族は牧羊の民でもともと河南に、殷の属国のようなものだった斉や桓といった小国を形作っていた(太公望羌族)、羌族は殷の雨乞いの祭祀の時に、人身御供のされた人々でもあるのだそうだ。
私が燃えれば、雨が降るのかと、安静中の私は妄想する。