キム・ヨンス『夜は歌う』  メモ

 

1930年代 満洲東部 北間島(現在の中国延辺朝鮮族自治州)において「民生団」事件という、朝鮮人の抗日遊撃隊の根拠地における朝鮮人同士の虐殺事件が起きた。

それがこの物語の背景。

 

民生団(1932年2月~10月)という見慣れない団体については、水野直樹先生の以下の論文でその成り立ちと、性格が詳細に論じられている。

民生団とは、「植民地期朝鮮の親日団体の典型」と結論づけられている。

 

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その結論部分を以下に引用。

民生団は結成準備を含めても、満洲事変勃発直後から満洲国樹立をはさんで一年足らずの短い期間、活動を行なったに過ぎない。その活動も実際的効果をもたらすようなものではなかった。では民生団は満洲在住朝鮮人の歴史の中でそれほど大きな意味を持たない組織だったのだろうか。
  そもそも民生団が何を目標として結成されたものだったかについて、これまで定まった見解がない。当時、抗日パルチザンの側が民生団を「日本の特務」と見なしたのと対応して、日本当局側も民生団の主要目的を「共産主義運動の鎮圧」にあると見ていた。
  確かに抗日パルチザンに対する討伐・破壊工作もその活動の一つだったかもしれないが、その点ではほとんど成果をあげることなく解散してしまった。むしろその後に激化したパルチザン中国共産党組織内部の反民生団闘争こそ抗日パルチザンを危機に追いやるものだったのである。
  民生団自身が掲げた目標は、間島在住朝鮮人の生活の安定、そのための経済活動であり、間島の「自治区域化」であった。特に後者の運動を起こしたことがそれまでの朝鮮人民会との大きな違いだったといえる。そして、「自治」を掲げることによって、それまで日本に抵抗する姿勢を示していた勢力をも取り込むことに成功したのである。それは間島の朝鮮人自治」を日本当局が認めるかのような態度を取ったことに由来する幻想に過ぎなかったとはいえ、間島在住朝鮮人の動向を大きく左右することになった。その点にこそ民生団の意味がある。
  中国延辺で出た文献は、民生団の性格をつぎのように規定している。

 「民生団の成立、趣旨および綱領、組織活動から自発的解散までの全過程を分析するなら、民生団は基本的にいかなる“特務スパイ組織”でもなく、朝鮮人政客が公開で組織した親日反共の反動的社会団体である。」

  このような性格規定、評価の根拠は示されておらず、それを支えるような研究も延辺では発表されていないが、本稿で検討した民生団の結成過程などから、この評価はほぼ妥当なものといえよう。ただ、自治」のスローガンが「民族派」の朝鮮人勢力をも「親日反共の反動的社会団体」に加わらせる役割を果たしたことをこの記述に付け加えねばならない。
  ところで、民生団を親日団体と規定するなら、それはどのような「親日の論理」を持っていたのだろうか。この点を最後に考えておこう。筆者は、植民地期朝鮮を含むアジア諸地域に現れた「親日派」が掲げていた論理を、文明化・近代化論、差別解消論、反共論、アジア解放論の四つに整理できると考えている。民生団の「親日の論理」は、文明化・近代化論(朴錫胤ら)と反共論(全盛鎬ら)との複合であり、これに間島の特殊な事情から日本帝国主義支配下の「自治」論が付け加えられていると考えることができる。その点で民生団は、間島の特殊性が強く表われているが、植民地期朝鮮の親日団体の典型であったとみなすことができよう。
 

 

植民地のいわゆる「親日派」と呼ばれる者たちは、植民地権力によって与えられた「夢/枠組み」の中での、最大限の果実 を目指した。

(そこには、単純な自己利益(資本の論理)のための親日から、植民地支配から逃れようもなく苦しむ「民族」のために、支配者から最大限の恩恵を引き出すために「親日」をしたという、李光洙のような民族改良論的「親日」もある)

 

「民生団」に孕まれていた「満州に「朝鮮人自治区」が作られる」という夢は、その夢自体が満州国の成り立ちを揺るがしかねないものだったがゆえに、一瞬にして消える。

(「満洲国の樹立に多くの中国人を引き入れる工作を行なっていた関東軍や日本の外務省としては、間島の切り離しは中国人の反発を呼び起こすものであり、民生団の動きを牽制せねばならなかった」 上記水野論文より

 

そのつかのまの夢が、民生団(=親日派スパイ)という汚名を着せられた朝鮮人抗日革命家の大量処刑という無惨な現実を引き寄せることになる。

 

以下、『夜は歌う』の解説に沿って状況を整理する。

 

当時、コミンテルンによる一国一党原則のもと、中国共産党朝鮮人共産主義者が合流することになった結果、満州における中国共産党の党員の90パーセントが朝鮮人だったという。そして、中国共産党は、満州事変以降、朝鮮人党員が「朝鮮革命」「朝鮮独立」を叫ぶことを禁じる。まずは「中国革命」、それが達成されてこその「朝鮮革命」なのだと。

 

この状況下での、「民生団」というつかの間の夢、これほど厄介な疑惑製造装置はなかったというわけだ。

 

朝鮮人自治区」という、満州国内のまがい物の「独立もどき」に、それぞれの思惑を携えて短期間であれ集結した朝鮮人の動きは、一国一党原則のもとで中国人と共闘して朝鮮人の間に楔を打ち込む役割を図らずも十分に果たした。

 

日本側の討伐軍の攻撃が激しく凄惨をきわめるほどに、日本側と内通しているスパイ(民生団員=親日派)がいるのではないかと、疑念がふくらむ。

そしてスパイ(民生団)狩りがはじまる。

 

解説に列挙されているスパイ処刑の理由は実にばかばかしい。人間の愚かしさがあぶり出されたような理由ばかり。それだけに無惨極まりない。

 

① 「朝鮮革命」「朝鮮独立」を主張した。共産党への反逆。

② 日帝に捕まったのに逃げのびてきた。だから怪しい。

③ 日帝による処刑を生きのびた。だから怪しい。

④ 正体を隠すために一生懸命任務を果たしている。

⑤ 民生団の指令で仕事をサボタージュしている。

⑥ 飯粒をこぼして貴重な食料を無駄にした。

⑦ 故郷が恋しがって民族主義的な郷愁を助長している。

以下、省略

 

 

この無惨な風景は、国家と国家の境界の領域で闘う者たちにとっては、妙な言い方になるが、実に見慣れた、ありふれたものであったのではなかろうか。

(もちろん、誰も信じることのできない独裁者たちが引き起こす粛清、

  あるいは、不信を口実に都合の悪い者たちを消していくのも権力の常であるが)

 

敵か味方か、アカか否か、スパイか否か、

どっちつかずを罪とされて殺されていく者たち、

殺されまいとして、奴が敵だ、奴がアカだ、奴がスパイだと、根拠も何も関係なく密告する者たち

 

民生団事件に巻き込まれた『夜は歌う』の主人公はこんな言葉を吐く。

国を奪われ、よその土地で暮らすかぎり、僕たちにできるのは僕たちではない他の存在を夢見ることだ。いまここではないどこかを夢見ないのは、自分の生の主だけだ。

(中略)

動かなくなった死体だけが自分が何者なのかを声に出して叫ぶ権利があった。死体になる瞬間、自分の運命を最終的に納得するのだから。

(中略)

そんな叫びを聞くたびに僕は、間島の地で生きていく朝鮮人は、死ぬまで自分が何者なのかわからない存在だということに気づいた。彼らは境界に立っていた。見方によって民生団にもなるし、革命家にもなった。そういう意味で彼らはつねに生きていた。生きていれば絶えず変化するのだから。運命も変わるということだから。

 

他者の夢にのまれたらおしまいだ、というドゥルーズの呟きを思い出す。

 

これは、確かに、いったんは、間島の朝鮮人の物語なのだろう、

しかし<間‐島>という名は象徴的だ。

それは、他者の夢のはざまで、他者の夢に身を寄せることで生きてゆく者たちの場所の名でもあるようだ。

 

他者の夢に翻弄されて、死ぬまで自分の確かな名を叫ぶことのできない者たちの場所の名前でもあるようだ。

 

もし、「国」というものが、自らの夢を生きる者たちの共同体でありうるとすれば、(そんな儚い夢がまだどこかに生きていると信じることなど、私には到底できないのだけど)、その意味において、国を奪われずに生きている者など、今この世にどれほどいるのだろうか、とも思う。

 

『夜は歌う』の主人公のこの言葉、

「国を奪われ、よその土地で暮らすかぎり、僕たちにできるのは僕たちではない他の存在を夢見ることだ。いまここではないどこかを夢見ないのは、自分の生の主だけだ。」

これは、他者の夢に身を寄せて生きるほかない私たちすべての言葉でもあるのではないか。

 

私たちのことなどお構いなしの他者の夢のはざまで、他者の夢が醸し出す不信にまでわが身をそっくり預けて、他者の夢のために生きたり疑ったり憎んだり憎まれたり殺されたりする私たちすべての物語がここにあるのではないか。

 

自分以外の誰かを裏切者として憎むこと、密告すること、殺すこと、そうやって他者の夢に忠誠を誓うことで生きようとする者たちが跋扈する世界に、いま私たちは生きている。

 

殺されないためには、生きのびるためには、先に憎んで、罵って、殺すしかないのか。

 

いや違う、

歌え! 踊るんだ!

(そうだ、韓国のロウソク革命はそうやって成し遂げられたのだった)

 

それが、この物語の語り手のメッセージ。

老いぼれどもはもう踊れない。私は踊る人たちが好きだ。私もまた踊れたらいいのに。 (著者あとがき より)