今年もよく旅をした。

年の初めから、詩人谺雄二の声を千年先まで飛ばそうと、谺さんに会いに、本を作りに草津の栗生楽泉園に通った。5月11日に谺さんが逝ってしまう前に、本は滑り込みで間に合った。谺さんの「いのちの証」。

『死ぬふりだけでやめとけや 谺雄二詩文集』(みすず書房)。この一冊が世に出ただけでも、今年は意味ある、実りある年だったのだと思う。この実りがやせ衰えぬよう、「いのちの証」が「いのち」から「いのち」へ受け継がれていくよう、声なき「いのち」の声に耳を澄ませて、言葉を探す、それが「いのちの証」を手渡された者の努めと思いながらも、これは大変なこと、覚悟がいること。

3月11日、丹後由良に説経節『山椒太夫』ゆかりの地を訪ね、「身代わり地蔵」を拝観したのを皮切りに、4月上越高田・世界館での人形浄瑠璃『山椒太夫』(佐渡猿八座)、8月長岡で長岡瞽女の節による『山椒太夫 舟別れの段』、9月『お岩木様一代記』を手に津軽を訪ね、猿賀神社でイタコに会い、さらに恐山へ。手探りで、瞽女のように、イタコのように、闇の中を声を頼りに、体の感覚を頼りに、進む道のり。同じく9月上越高田で高田瞽女の節による『山椒太夫 舟別れの段』、11月佐渡を訪れ文弥節版の『山椒太夫』ゆかりの地を訪ね、島内のあちこちにある安寿塚も見て回り、猿八座人形遣い西橋健さんを訪ねた。12月には森鴎外版『山椒大夫』を手に鴎外の生地・津和野へ。しかし、津和野は遠かった。そして、ついに、猿八座太夫渡部八太夫師匠に古浄瑠璃の語りの入門。
「山椒太夫」、そして各地の安寿伝説を追いかけることを入口に、自分なりの「語りの道」を切り拓いていこうという試行錯誤の一年。
滋賀・大津で廣岡兼純師の節談説教を聞いたことも、大きな刺激。私は、今年、明確に、「語り」へと大きな一歩を踏み出した。

そういえば、4月には北千住の芸大のホールで水族館劇場の桃山さんのお誘いを受けて、旅するカタリ『さまよい安寿』というカタリの舞台の試みをさせていただき、これは来春より新潟日報にて連載予定の「平成さんせうたゆう さまよい安寿」(仮題)の出発点ともなったのだった。さらに、5月には、水族館劇場の特設舞台が組まれていた世田谷・太子堂 八幡神社で、水族館の休演日に「千年放浪かもめ組 この世の果てからこんばんは」をさせていただき、浪曲、琵琶、パンソリと「語り芸」の旅人たちが集った。私はその道に迷いがちな道案内人。11月は亀戸で「浪曲からパンソリへ、パンソリから浪曲へ」の公演。この「浪曲⇔パンソリ」の旅は、来春3月20(久留米)、21日(博多)へと、のびてゆく。

そうだ、海外にも行ったんだ。
5月末から6月初めにかけて、パリ・プラハ須賀敦子とデュラスとカフカ。辺境ばかりを訪ねてきた今までの海外の旅と打って変わり、ヨーロッパの真ん中へ。そこでユダヤホロコーストディアスポラ植民地主義とかに触れる街歩きとか書いてしまうとなにやら陳腐なのだけれど、迷い人・はぐれ者・破壊者たちのヨーロッパを垣間見たような。これは文学への旅。「語り」、さらに「文芸」へと、さらにはっきりと足を踏み出してゆく。

語るとき(あるいは書くとき)、そこには抑えがたく声がこぼれ出る、とどまるとなく声が駆け出してゆく瞬間というものがある。頭で考えるよりも早い、心で感じるよりももっと早い、声。そこにはきれいごとではすまない、黒く濁った感情も、説明のつかない衝動も、毒も、歪みも、傷もあるようで、実のところ、ずいぶんと年を重ねて、ようやくそういう深みにようやく自分がはまったことを私は悲しみつつ喜んでもいる。

11月、初めて文芸誌に出す原稿を書いた。「小説」を意識しつつも、やはりいわゆる「小説」にはならない、「語り」もしくは悪声でうたう「歌」のような・・・・。

今年の心残りは石垣島に行けなかったこと。

来年は、さらに語る。さらに歌う。さらに旅をする。
そうだ、来年は、3月、4月、5月と、立て続けに本も出る予定。歩き続ければ、きっと道はどんどん前にのびてゆく。