この「長靴/故郷/彷徨/出発」の4部作は、今再読すると、ひどくリアルだ。

発表は1971年から1973年。
舞台は終戦間際から戦後。
主人公は大阪に生まれ育った朝鮮人二世。
この植民地の民の息子は、「皇国臣民」であることと「朝鮮人」であることの間で宙づりになっている。
植民地支配下の朝鮮に穢れなき民族の姿を夢見ている。
そして、徴兵検査を利用して日本脱出を企てて渡った現実の朝鮮では、かぎりなく「倭人」に近いおのれの実像を突きつけられ、同時に植民地朝鮮の宗主国服従する表皮の部分にしか触れ得ず、脱出したはずの日本へと逃げ帰る……。

居場所のない在日朝鮮人の青年たちの姿。
民族に対するコンプレックスと、日本に対する抵抗の精神と、現実を生き抜くにはナイーブすぎる潔癖な心ゆえの彷徨。
しかし、女は、母親か性の対象としての女しか出てこないのだな。
しかも、母親世代の女は、その多くが皇民化教育に取り込まれなかった分、無学が幸いして、肉体化されている「民族」そのものとして描かれるのだな。
女が同じ時代同じ状況を描いたならば、どんな目線のどんな描写になるのだろうか。


いろいろ思うところはあるのだけれども、金石範が描く日本の敗戦前後を彷徨う在日朝鮮人の青年たちの姿は、3・11後を生きるわれらのさまよえる姿にも通ずるところがあって、読むほどにひどく心が重くなったのも確か。
いま、私たちが闘おうとするならば、その出発の場所はいったいどこにあるのか? という問いをみずからに突きつける自分がいる。
かつて、金石範がおのれにその問いを突き付けたように。