金石範作品集?より「糞と自由と」。そのなかに流れる朝鮮民謡「トラジ」

戦争末期、徴用されてきた北海道のクローム鉱山から逃亡を企てた李命植は、山すその茂みに身を潜ませていたそのとき、声を聴く。

 そのとき、なにか人の声がしたと思った。それは彼にどきんとさせなかったほど、ふしぎな声だった。風にのってそれは歌のようにかすかに流れてくる。そしてその歌は彼の記憶の中をさまよいそのどこかでやさしく結びつきかけようとしていた。李命植はがばっと立上った。夢ではなかった。それはたしかに歌だった。徐々に大きくなってくるそれは朝鮮の歌だったのである。やがて人かげらしきものが向うに現われて、それは煙草の火なのか、赤くとぼったものがうごいた。彼らは鼻唄まじりに「トラジ」を大きな声で歌いながら歩いてきた。李命植はなつかしさの余り思わず駆けだしそうになった。ああ、こんなところにも同胞が住んでいたのである。祭祀かなにかの寄合いがあっての帰りだろう。いわば砂漠で人にであった思いだったのである。
 李命植は彼らがまぎれもなく朝鮮人であること、しかもその話しの調子から同じ慶尚道の人間であることがわかると、彼らに近づいた。二人はさも驚いたように立止った。
(作品集Ⅰ「糞と自由と」 P111より)


こうして逃亡朝鮮人李命植は、追いかけてきた同じ朝鮮人の「朝鮮人追廻し係」(いわゆる鉱山の朝鮮人幹部)に捕まる。そして鉱山に連れ戻され、追廻し棒で滅多打ちにされ、さらに同僚の朝鮮人坑夫たちも李を追廻し棒で殴ることを強要され、こうして殴打されつづける李は無惨に殺され、李を殴打した朝鮮人たちも精神的に殺されていく。


北海道の山すその地に流れた「トラジ」のなんと酷いことか、御国訛りの慶尚道の言葉のなんと悲惨なことか。
歌で、声で、人をなぶる、人間たちの営みの、なんと無惨なことか。

도라지 도라지 백도라지 심심산천(深深山川)의 백도라지
한두 뿌리만 캐어도 대바구니로 반실만 되누나

(후렴) 에헤요 에헤요 에헤애야 어여라난다 지화자가 좋다
    저기 저 산 밑에 도라지가 한들한들


도라지 도라지 도라지 강원도(江原道) 금강산(金剛山) 백도라지
도라지 캐는 아가씨들 손맵시도 멋들어졌네…


도라지 도라지 도라지 은율(殷栗) 금산포(金山浦) 백(白)도라지
한 뿌리 두 뿌리 받으니 산골(山-)에 도라지 풍년(豊年)일세 


★以下の日本語歌詞は、韓国語歌詞を翻訳したものではなく、別物。

1.トラジ トラジ トラジ  可愛いトラジの花咲いている 
  峠を越えてゆく道 幼なじみの道だよ
  ヘイヘイヤ ヘイヘイヤ ヘイヘイヤ!

2.トラジ トラジ トラジ 白いトラジの花みつめて
  母を偲ぶたそがれ 星はやさしく揺れるよ
  ヘイヘイヤ ヘイヘイヤ ヘイヘイヤ!

3.トラジ トラジ トラジ 髪にトラジの花飾れば
  過ぎた昔なつかし 夢もほのかに浮かぶよ
  ヘイヘイヤ ヘイヘイヤ ヘイヘイヤ!


浪曲師南篠文若(後の三波春夫)は、浪曲のあとの余興に「トラジ」を唄ったという。それが日本人の観客たちに大いに受けたという。脈絡なく、そのことを不意に思い出した。