連歌的想像力、つまり批評精神が大事ということ

連歌は瞬間的な世界変換、あるいは脱構築の連鎖によって成立する多声的で未完結の開かれた体系である。

和歌が一つの世界に没入するものとするならば、連歌は常に相手の言っていることを理解したうえで、別の世界をどのように自分にぶつけていくかが問われる。
つまり、他者理解をしたうで、それに対して批評性をもって、新たな世界を批評として構築していく。
連歌とは、つまり、そのような批評の連続なのである。
連歌が流行するとは、非常に醒めた批評の精神が横溢しているということでもある。

花の下連歌とは、花鎮めなのであるということ

13世紀中頃、1240年代に一般大衆が参加する言語ゲームの場が、法勝寺や毘沙門堂といったお寺の枝垂れ桜の下に開かれた。

熱狂すればするほど神さまが喜ぶ、熱狂すればするほど意に満たずして死んでいった怨霊たちの心が慰められる。

花見は静かにやるものではない!

「花見の下連歌の場合は言語の熱狂によって、花の下連歌会という、言葉が言葉を紡ぎ出していく一種の演劇的な世界で言語の熱気によって悪い魂を鎮めたりする」

春に花が咲いて散るとき、疫神もまたまき散らされるという古代よりの感覚、だから鎮花祭が執り行われる。
「花が散るのは御霊の吹き荒れ」(折口信夫

枝垂れ桜の下には、冥界がある。

花の下連歌の無縁性と脱構築性

そこは社会から断ち切られた特別な場。無縁の自由空間。そこは冥界に通じる超越的な場でもある。
つまりは、境界的な場。無縁平等な人間集団の場。

それは「一揆」というきわめて中世的な人間結合の現象につながってゆく。

一揆とは、一味神水という神前の儀式によって一切の社会的な関係を断ち、なんらかのシンボルのもとに平等の支配する自律的な無縁の共同体を構築すること。

連歌の精神と一揆の精神はひとつらなり。

(思うに、それは、旧秩序の終わりの混乱・混沌の中から新しいはじまりをめざして結ばれた開かれた共同性、ということもできるだろう、今のこの時代にもっとも必要なものでもあるだあろう、連歌の精神、一揆の精神を今ここにどのような形で呼び出すか、それをじりじりと考える)