禅問答

石垣島の水牛老師の家の本棚から埴谷雄高の本を借りてきた。
『薄明のなかの思想 宇宙論的人間論』(ちくまぶっくす)。
この広大無辺な宇宙のなかで、人間として生まれ死んでゆくとはどういうことか?
そんな問いのもとに、生誕、意識、存在、愛、性、政治、革命、芸術、死、宇宙について埴谷雄高が語る。
たとえば、存在―。
「そこに何かが存在することは、怖ろしいことに、もはや決定的に何かを存在させないことにほかならない」「人間存在も小鳥存在も星雲存在も、そこに存在してしまったために、頭をもたげかかってついにもたげられない未出現の何かを永劫の未出現としてしまった」
「この大宇宙は、出現した存在よりもむしろ未出現な何かにより多く充ちみちている巨大見通しがたい容器なのです」

埴谷雄高は、あらゆる存在を、根源と窮極のあいだに生成消滅する部分的存在、無限と永劫のあいだの中間者、個々ばらばらな部分存在と考える。そう考えるうちに、永劫に出現してこない無限な「非在」こそが、全的な「存在」なのではないかと考え始める。そして、この「非在」=「存在」こそが文学の窮極の主題なのだと、「非在」のビジョンをいかにまざまざと無限に創造してみせるかが文学的認識のかたちにほかならないのだと確信する。この展開、論理ではわかりづらいのだけど、感覚では実によくわかる。

存在しているものは存在していない、存在していないものは存在している。

じっと耳を澄まして「永劫の無からのまぎれもない内発」の呻き(=非在の響き)を聞きとろうとしている独りの人間の声に、私もじっと耳を澄ませる。聴こえるような、聴こえないような……。