ちがうよ、ちがうよ。

6月13日は神楽坂の日本出版クラブ会館にて、「野間宏の会」に参加。評論家の富岡幸一郎さんをコーディネーターに、、『文学よ、どこへゆく <世界文学と日本文学>』という空恐ろしいテーマのもと、奥泉光さん、佐伯一麦さん、塚原史さんとパネルディスカッション。どなたも初対面。だけど、作品は読んでいるから、一方的に顔見知りのような気分ではある。

さて、この壮大なテーマのもとで、何を語ればいいのか。
以下は、どんなことを話すつもりなのか、事前に簡単に主催者に書き送っていたレジュメ。

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●「越境」、あるいは言葉を繰り返し揺るがし開いていくということ。

それは、あえて言うなら、つかまえきれない「世界=闇」を繰り返しつかまえようとする「文学=声=ハジマリ」と、自明な「日本=光」に繰り返し囲い込まれていく「文学=言葉=イキドマリ」の、その光と闇のあわいをゆくことであり、おそらくそうすることによって明るすぎる光のなかへと闇を繰り返し呼び戻して、囲い込む光の言葉を繰り返し闇で照らして揺るがせて開いてゆくことのようにも思われるのですが……。
越境していくその行く先がわからぬことはさして問題ではなく、「繰り返し」を「不毛」と取り違えることなく歩き続けていけるか、それが問題。

と書きつつも、大仰な語りは根も葉もない上滑りな語りにすり替わりがちなので、自分自身のささやかな話をします。たとえば、こんな呟きから。「生きていく私には、何よりも、私を越える壊す開くつなぐ言葉が必要なので……、(読む、書く、語る、歌う、黙る、旅をする、……)」
傍らには、こんな囁き。
「ちがうよ、ちがうよ。」野間宏 『わが塔はそこに立つ』
「越境者に必要なのは何も光ばかりとは限るまい」安部公房 『内なる辺境』

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しかし、実際にディスカッションの場で喋り始めれば、見事に話のうわすべること! 野間宏を意識しつつ進めなければならない会だというのに、あらあら、島ボケしている私は、いきなり、島で神司たちが東の海に向かって立って、祈りを込めて歌いながら豊穣をもたらす神の乗る船を手招きする「世乞い(ゆーくい)」のことを語りはじめる。
「生き難い島で命がけで生きている人間たちが、命がけで神に向けて歌を吐き出す、かくあれかしという祈りの言葉を吐き出す、年年歳歳繰り返し吐き出す、そうして果てしなく繰り返し生きていく人間の物語を繰り返し呼び寄せる」。
文学が、生きていく人間の姿を語るもの、人間を語り人間の可能性を押し開いていくものならば(と奥泉さんが語った、同感した)、この「ゆーくい」に文学の原風景があるじゃん、といろんなことをすっ飛ばして、いきなり結論(?)。こういうすっ飛ばしを私はよくやる……。行間あきすぎ……。

たぶん、折口信夫の語るところの「芸能の発生」がちらと私の無意識の領域をかすめたのでしょうね。
そして、自分自身が確かに意識していた領域では、「ゆーくい」に、人間の生きる力を信じて、人間の言葉の力を信じて、人間と共に在る(見えるもの聴こえるものよりもズット大切な)見えないもの聴こえないものたちの存在を信じて、(しかも信じるというのは、心底信じる、命がけで信じるということで)、そうして歌を繰り出し、生きることの物語を歌う人間たちの姿を見いだしていて、つまりは、そこに、生きることと歌うことと祈ることと信じることと語ることが見事に結び合っている、「表現すること」の原風景を見たかったのでしょうね。

ここ十数年ほど、あらゆる言葉、たとえば、他者が私に手渡していく「『世界』を語る言葉」「『人間』を語る言葉」「『私』を語る言葉」「『神』を語る言葉」等々に、「ちがうよ、ちがうよ」と呟き続けて、どこにも立ち止まることができぬまま歩き続けて、(これは比喩ではなく、砂漠やら、南の果て北の果ての島々やら、やはり「ちがうよ、ちがうよ」という呟きが渦巻いているようなところばかり、ほんとにあちこち旅をして)、どこに行っても、結局は、死に物狂いで生きている人間の姿ばかりを見てきて、この「死に物狂い」という言葉の中には、「強い」とか「たくましい」とか「したたか」とか「ずるい」とか「欲深い」とか「ごうつくばり」とか、いろんな意味合いも入っているのだけれど、なんというか、なんやかんや言っても人間ってすげぇー、というシンプルなところにだんだん自分が落ち着いていく、その先に、ふっと気がついたら、「ゆーくい」の風景が浮かび上がって見えてきた……、なんてことを一生懸命言葉を並べて書き連ねても、なんか違うな、ちがうよ、ちがうよ、大事なことを言葉にしようとすると、一番大事な何かが言葉からこぼれ落ちていく……。

ともかくも、ディスカッションの場では、はっと気がついて気を取り直して、レジュメに立ち返ろうとするけれど、なかなかね……。一度口からこぼれ出て逃げ出した言葉を追いかけ始めたら、迷路に誘い込まれるね……。

ディスカッションでは「二項対立」を超える第三の道の模索ということに関して、塚原史さんの問題提起を受けて、やりとりが行なわれた(ような気がする)。ポストモダンの話も出た(ような気がする)。