人魚の肉を食べたために不老長寿という運命を生きることになった女がいる、
(これは「業」というべきかもしれない、いずれにせよ、限りある命の人の世で、ひとり不老長寿であることはけっして幸せなことではない)、
その女は「八百比丘尼」と呼ばれるようになる。
「八百」とは不老長寿の謂いであり、不老長寿という魔性が人々のなかで不審がられずに生きるためには、決してひとところに長くとどまることなく、果てしない旅を生きることになる。
そんな「八百比丘尼」伝説もまた、日本各地にあるのです。それはどうやら修験の行者とともに旅をしたり、呪いや祈祷や芸能に携わったりした「歩き巫女」「熊野比丘尼」「歌比丘尼」たちにも関わりのる伝説のようでもあるのですが、明治の神々の近代化を境に修験が徹底的に国家によって弾圧されて以降、「八百比丘尼」の旅はその背景を消されて忘れられたまま、単なる不老長寿伝説として、各地の寺や神社に伝えられている感もあります。
さて、この「八百比丘尼」伝説を追いかけて、森崎和江さんが1980年代に『海路残照』という本を書かれています。
それは「命」を育むものとしての海を思い、海辺に生きる女たちの命のありようを思いを寄せるものでありました。
近代という時代が見失っていった風土と命と人間と、人々が祈り慈しんできた土地土地の神に祈りを寄せるものでもありました。
実は『海路残照』を私は森崎さんご本人から、1990年代に直接いただいています。そのときは、私は、森崎さんが「八百比丘尼」伝説を追いかけて旅をすることの深い意味を読み取れなかった。それから20年後に自分自身が「山椒太夫」の物語を追いかけて、さまよえる安寿のように旅をして、ようやく、「ああ、これは「命」の記憶に、いや「命」そのものに触れようとする祈りの旅だったのだ」ということに気づいたのでした。