ここ数年ずっと「旅するカタリ」ということを考えていた。

そもそも、古来、語りとは、旅の賜物であるから、「旅する」「カタリ」というのは表現としてはダブり感があるのですが、私たちの時代の物語は旅を彼方に置き忘れてきてしまったがゆえに、ことさらに「旅するカタリ」なのです。
さらには、「語り」とは「騙り」であり、「場を同じくする」と言う意味での「かたる」であるゆえに、たくさんの意味を込めての「カタリ」なのです。


ここ数年、説経節「さんせう太夫」の千年の旅を追いかけて、日本各地を彷徨い歩いていました。それは人買いにかどわかされて、流浪と離散を生きる安寿(「山椒太夫」のヒロイン)のさまよいの旅のようでもありました。
「さんせう太夫」を原型とする物語がこの日本にはどれだけあることか! 
旅するカタリによって運ばれた物語は、土地土地の風土に取り込まれ、その土地に生きる人びとの物語として生まれ変わる、そんな風景が日本の各地にありました。
物語とは、風土と旅によって命を吹き込まれ、育まれるのだということを、私は自分自身も旅をすることによって知ったのでした。
それは、地べたに生きる名もなき庶民が物語に託した思い、いや、思いというだけでは足りない、命そのものというべきでしょう、そう、物語に吹き込んだ彼らの命そのもにに触れることでもありました。
同時に、それは、近代という時代がいかに、「旅するカタリ」を殺してきたということを知る旅でもあったのでした。