揺れる

地震
関東大震災後の東京を歩いた芥川の文章、折口信夫の文章、沖縄出身の比嘉春潮の文章をふと思い出す。恐怖にかられた虐殺が市民によって繰り広げられた震災後の風景、地面が揺れると、人間の心の底の闇も揺れてひび割れて魔を吐き出す。

フーコーを読んでいる。<外の思考>について思いをめぐらしている。考え込んで目をつぶると、あっという間に眠りに落ちる。背中と床の間の角度が45度以下になると、容易に眠りに滑り落ちていくことを発見。

<外の思考>。不意に考えだしたきっかけは、本の装丁のあまりの凝りように惹かれて読み始めたモーリス・ブランショの「書物の不在」(月曜社)ゆえ。「書物の不在」は、このマラルメの言葉から始まる。「書くということ、この気違いじみたゲーム」。

日曜日。「いいんだよ、そのままで」と題された絵画展を見た。

アトリエ・エレマン・プレザンで創作活動を行なうダウン症のこどもたちの作品。と、わざわざ注釈をつけると、ああ、アウトサイダーアートか、知的障害者のアートか、と見る者の目を曇らせてしまうような気がする。そんな先入観を持たずに眺めたい。いいものはいい、既成の観念に縛られていない自由な感覚が気配となって絵からどんどん漂い出している。萎縮している自分の感性が、その気配を感じると喜んでいる、それがわかる。そうか、あなたたちには世界はこう見えるのか、それもまた確かに今ここにある世界であるんだよね…、私の知っている世界がぐらぐら揺れて愉快痛快少し怖い、そんなことを絵に向かって呟く。

シアターコクーンで「牡丹灯篭」を観る。まわる因果の物語。牡丹灯篭の本当の主役は、幽霊と二百両で取引して、新三郎をあの世のお露のもとに送った夫婦者(段田安則伊藤蘭)。つまり、この世の、目には見えない因果を知らぬ人間の、浅はかな欲望、こらえきれない欲望で、知らず知らず恐ろしいほうへと回されていく運命の歯車のお話。

それでも人は、何があっても、どうあろうとも、どうしようもなく欲望する。



8月9日付読売新聞読書面に「イリオモテ」書評。作家の小野正嗣さんによるもの。
http://www.yomiuri.co.jp/book/review/20090810bk04.htm