豚の詩学  キム・ヘスン  メモ 自分のための粗訳 p15~

◆『地球が死んだら月は誰のまわりを回るの?』について。

 

2019年にオンマが亡くなり、その時期に集中的に書いたものをしばらく放っておいたのをまとめて出したものです。私はその年にも辞表を出してふたたびサバティカルに入りました。授業がなく余裕ができたので私がオンマの面倒を見ることにして、救急車を呼んで病院のホスピスを転々としました。ついにはオンマは臨終を迎え、オンマの家の整理までしました。その渦中に詩を書いたのです。とにかく何かしていなければ耐えがたくて書いたものです。それからのちは詩が浮かんできても書かずにいました。後輩の詩人の助言どおりに詩から離れるべきでしょうか?『死の自叙伝』から「翼の幻想痛」を経て『地球が……』に至るまで、本当に多くの死という事件にかかずらっていました。だから死の三部作となったのです。詩人という存在は本来死への先験的直観を表出する存在ですが、それゆえずっと自身の最期をあらかじめ生きぬく存在であるのですが、この時期には私自身が死としての私をより感じたのではないかとも思われます。私は死という事件により悲嘆に暮れる人びとの連帯と死への先験的直観の間で彷徨っていました。これらの詩を書きながら、私は私が死んだ後の「私」は「単数」ではなく、「複数」だという詩的経験をすることとなりました。そうして複数の話者が話す騒々しい詩が暴走しました。その複数の存在が私に話しかけるのです。今はベッドに横たわって、暴走してくるそれらを全身で受け止めています。あの死たちがますます私の身体化症状となって登場しそうで、私の森がますます騒々しくなりそうで、恐ろしいからです。

 

 

私も自分の体が本当に面倒です。具合が悪かったりするとなおさらですよね。不眠症の体は私の体を早々に棄てる方法を熱心に考えるきっかけになりました。同時に、憐れで厄介な体を勝手な基準で語ったり、抑圧したり、差別するような態度には我慢がなりません。『花開け、豚!』に私は「豚だもの、大丈夫」という詩を収めています。わが国で口蹄疫が流行して豚300万匹を殺処分したことがあります。その頃私は娘が滞在していた国立現代美術館のレジデンスの建物を時折訪ねていたのですが、その近くに豚舎がたくさんありました。そこを通ると車が大雪で覆われてしまったみたいに真っ白に消毒されたりもしたんですよ。あのときたくさんの豚が生き埋めにされました。家に帰って、穴から這いあがろうとするまだ生きている豚たちの悲鳴をYouTubeの画面からずっと聞いていました。それから豚殺処分PTSD(心的外傷後ストレス障害)とでも言いましょうか、そういう感じになって、それを治療しようと寺での修行に参加するようになりました。そこではソンバン和尚が、自我を捨てて、完全に呼吸だけに集中している状態になるよう、参加した女性たちを励ましました。私はその修行中も考え事ばかりしていました。私はしきりに体を私の外へと送り出す想像をしていました。カフェに行き本を読み、すっきりシャワーを浴び、明るい板の間で亡くなった祖母とスイカを食べ、祖母にうちわで風を送ってやり。そうしている間にも私には見えていたのです。寺の門の外へと追いだしたのに、寺の中にやたらと入ってくる、寺の部屋の中に入ろうと一心不乱の、殺処分された豚が一匹、名も衣も捨てた一個の体を、豚のようにただ体だけの存在を。その体の誕生と死と差別と分類と後ろ指と鞭打ちと拷問とを。その体をぞんざいに扱う視線と嘲笑と拷問する国家体制を。あの頃、私は詩を書きながら、私の体、私の豚を考えていました。冷たい視線を寄せ集めた、この世でいちばん冷たくて残忍な武器である鏡の前に立つ一個の裸身を。思えば、命名を脱ぎ捨てた一個の裸身が私の「今」なのでした。私が書いた、没頭した数多の「死」はすべて私の未来でした。私の父母は私の過去であり、亡くなってからは私の未来になりました。未来は不安とつながっています。私の体は現在に未来という不安を投企して私の痛みとなりました。

私はいままで詩に関する文章を集めた三つの本を(『女が詩を書くということ』『女、詩する』『オンナけものアジアする』)を刊行しました。その三冊を一言で定義するなら、「生体詩学」と呼ぶことができるだろうと考えたことがあります。体から名前と人種と皮膚と色と嗜好と、そのあらゆるものを取り除いた体。「豚」の詩学ですね。のちにはその豚を「おんなケモノ」と呼びもしました。他者には絶対にわかりようのない痒みと渇きと空腹と欠乏と悲鳴と渇望が私の体の今であり直感であるように、詩の直感もまたそういうものなのです。今の直感で、そのあらゆるものを振り払った体の内密性で私は詩を感知するのです。