いつの世も都市生活は、歌謡を求める。


と、『歌舞伎以前』(岩波新書)の「黄金世界」の章で、林屋辰三郎は、安土桃山黄金世界の繁栄の中、堺の町衆に象徴される武家や公家の世界とは異なる、人間的欲求を自由に放縦に歌う歌謡が現れたと語る。

たとえば、町衆の愛唱歌とされる「閑吟集」(1518年)。
そこで歌われる恋の唄。


あまり見たさに そと隠れて走て来た
先ず放さいのう 放して物を云はさいのう
そぞろいとしうて 何とせうぞのう
閑吟集282)


一夜来ねばとて 科もなき枕を
縦な投げに 横な投げに
なよなよ枕よ なよ枕
閑吟集178)


これらの唄に、林屋辰三郎は、近世的な技巧や定型で整然とまとめられてしまっている隆達小歌や江戸の「吉原はやり小歌」が失ってしまった、いきいきとした感情の躍動を見る。中世から近世の封建社会の確立期への端境期にこぼれ出た、野趣あふれる恋の唄。


この時期、堺は、後世に大きな影響をもつものを二つ、われらに伝えたという。

ひとつは種子島経由で堺から本土にもたらされた鉄砲。
もう一つは琉球経由の三味線。


林屋辰三郎いわく
「江戸では一六一〇年(慶長十五年)八月琉球人をむかえた時、十七、八と十四、五の小姓が三味線をひいたという。はやくは鼓の拍子や笛に合わせてうたった小歌も、こうして三味線を伴奏とするようになったのである。その過程には堺に住んだ琵琶法師の中小路という人の名が傳えられているが、こうした低い身分とされた遊藝の徒の智慧が、しだいに三味線をつかい易いものとしてきた。その上琉球における蛇皮の代りに猫皮をつかうというような發見も、皮革をあつかう河原者の参加なしには考え及ばなかった筈であろう。このようにしてこの楽器の渡来はこれまでの日本の歌曲を一變させてしまったのである」