語り手の男はおしゃべりな男だ、自分でも扱いきれない自我の声がダダ洩れている男だ。でも、これは40歳の近代青年漱石の声なんだな。


三角関係に苦しむおぼっちゃま君が、死ぬ気で家を飛び出して、死からの助け船のように声をかけてきた周旋人に連れられて足尾銅山にゆく。坑夫になりに。なれるものか、おぼっちゃま君の書生風情に。と嘲弄されれば、傷ついた自我は逆に意地でも坑夫になってやろうと思う。


地の底の底まで連れていかれた銅山では、どうせ死ぬならこんなみじめな死に方ではなく、華厳の滝に飛び込むのだと、生きる意欲をかきたてる。


出奔(本文では駈落)は一生の大事件と思っていたが、大したことではないのだと初めて渡る世間で気づかされる。

「煩悶も坊ちゃんとしての煩悶であったのは勿論だが、煩悶の極試みたこの駆落も、やっぱり坊ちゃんとしての駆落であった」


世間を知れば、人間の本性にも目覚めるようで、(とはいえ、これは40歳の青年漱石の述懐で、一応語り手であるおぼっちゃま君はその代弁をしているにすぎない)

「一体人間は、自分を四角張った不変体の様に思い込み過ぎて困る様に思う。周囲の状況なんて事を眼中に置かないで平押に他人を圧し附けたがる事が大分ある。他人なら理窟も立つが、自分で自分をきゆきゆ云う目に逢わせて嬉しがってるのは聞えない様だ。そう一本調子にしようとすると、立体世界を逃げて、平面国へでも行かなければならない始末が出来てくる。無暗に他人の不信とか不義とか変心とかを咎めて、万事万端向うがわるい様に噪ぎ立てるのは、みんな平面国に席を置いて、活版に印刷した心を睨んで、旗を揚げる人達である。お嬢さん、坊っちゃん、学者、世間見ず、御大名、にはこんなのが多くて、話が分り悪くって、困るもんだ。」

と、長文紹介。

一応死出の旅に出たおぼっちゃま君はいろいろ気づく、いろいろ学ぶ。