うっかりしていましたが、東のでかい寺が東大寺で、西のでかい寺が西大寺なんですねぇ。かつての西大寺はすさまじく広い。今はそのほんの欠片くらいしか残っていない。
かつての栄華の片鱗、出土調査でイスラム陶片が出てきた、なんていう記事も西大寺本堂に飾られていました。
天平宝字8年(764)9月11日、藤原仲麻呂(恵美押勝)の反乱の発覚に際して、孝謙上皇はその当日に反乱鎮圧を祈願して、『金光明経』などに鎮護国家の守護神として登場する四天王像を造立することを誓願されました。翌年の天平神護元年(765)に孝謙上皇は重祚して称徳天皇となり、誓いを果たして金銅製の四天王像を鋳造されました。これが西大寺のそもそものおこりです。それを皮切りに、父君の聖武天皇が平城京の東郊に東大寺を創建されたのに対し、その娘に当る称徳女帝の勅願によって宮西の地に本格的に当寺の伽藍が開創されたのです。(西大寺HPより)
平安中期にはさびれていたこの寺を鎌倉中期に再興したのが、叡尊。
このように荒廃した西大寺を鎌倉時代半ばに再興したのが、興正菩薩叡尊上人(1201~1290)です。叡尊上人は文暦2年(1235)に当寺に入住して、「興法利生」をスローガンに戒律振興や救貧施療などの独自な宗教活動を推進し、当寺はその拠点として繁栄しました。西大寺は叡尊上人の復興によって密・律研修の根本道場という全く面目新たな中世寺院として再生することになったのです。(西大寺HP)
ああ、叡尊なのか、と思ったのでした。この人は救癩事業にも力を入れていた。般若寺と北山十八間戸でその名を私は聞き知っていました。
般若寺の位置する奈良市街北方地域は、中世には当時「非人」と呼ばれて差別された病者・貧者などの住む地域であり、般若寺の近くには「北山十八間戸」(国の史跡)というハンセン病などの不治の病の人を収容する施設もあった。叡尊は建長7年(1255年)から般若寺本尊文殊菩薩像の造立を始め、文永4年(1267年)に開眼供養が行われた。この文殊像は獅子の上に乗った巨像で、完成までに実に12年を要した。
この四王金堂が大事なんやと、金堂にいた、たぶんお寺の関係者のおじさんが言ったのでした。
真言律宗は、明治の初めに、いわゆる「神々の明治維新」(神仏分離、廃仏毀釈)のために、強制的に真言宗に統合されたものの、明治二十八年にようやく「真言律宗」に戻ったのだという話も、そのおじさんがしてくれました。
奈良に越して、実に興味深いのが、あちこちの寺社に行くたびに、神仏分離・廃仏毀釈による被害損害を率直に表現していること。えらくやられたけど、黙っちゃいない、という感がありあり。
四王金堂には、実に立派な十一面観音(長谷寺の十一面観音と同じ形式)と、四天王がいた。
生駒山の宝山寺からのかなりの額の寄進があるのを堂内で見て、おじさんに尋ねてみれば、かつては修験の寺だった宝山寺は、西大寺の末寺という。(と聞いたが、事実関係はまだ未確認)。
境内には清瀧権現もいます。密教寺院としては、権現さん、大事です。
西大寺で引いたおみくじは、ちょっと怖いくらいの大吉。