大神神社の神宮寺だった平等寺と、明治以前は妙楽寺だった談山神社を訪ねる。 その1  (備忘)

4月15日。

本日はまずは、明治の神仏分離の折に三輪神社から追われ、別の場所に現在はある元神宮寺「平等寺」を訪ねる。

 

ここの御本尊も十一面観音だという。不動明王もいるという。神仏習合の山だった三輪山から払われた仏の部分、つまりは三輪山の<実>の部分の名残を訪ねようというわけだ。

 

左手に見える山は、三輪山

 

 

 

この山門が、旧平等寺の唯一の建造物という。

 

 

山門をくぐって、すぐ右手に「鐘桜堂」。梵鐘には十一面観音が彫りこまれている。

これは昭和62年再建。三輪山を追われてから110年目のことだ。

100円で、この鐘を一回を突けば、厄落とし。ゴーン。

 

平等寺HPには、寺の由緒はこうある。

伝承によれば、聖徳太子の開基、慶円の中興とされている。『大三輪町史』は、平等寺以前の大三輪寺遍照院の存在から空海開基説の存在も述べている。

 平等寺が前述資料に明確に現れてくるのは鎌倉時代以降であり、初見は「弥勒如来感応抄草」の1236(嘉禎2)年である。同書によれば慶円によって、三輪神社の傍らに真言灌頂の道場が建立され、その道場が「三輪別所」であった。この当時、平等寺が存在して「三輪別所」と呼称されており、その後比較的早い時期に「平等寺」という寺号で呼ばれることとなったことは確実であり、これが、現在史料で明確に確認できる最古の例である。

 

平等寺は、興福寺の末寺であったと同時に、修験道場でもあった。

以下、そのことが「由緒」に記されている。

 

 鎌倉末期から明治の廃仏毀釈までは、三輪明神別当寺の地位にたっていた。一方で、「大乗院寺社雑事記」には、興福寺平等寺に御用銭を課していることが見られ、大和国の他の寺院同様、興福寺の末寺でもあった。また、同時に修験道を伝えていたことから、醍醐寺との関係も保持していた。そのため、内部に「学衆(興福寺大乗院)」と「禅衆(醍醐寺三宝院)」という、二つの僧侶集団が作られ、両者が共存する関係にあった。室町中期には、禅衆と学衆が激しく争ったことも、「大乗院寺社雑事記」には描かれている。

 

 そして、江戸時代には、興福寺支配を離れ、真言宗の寺院となり、修験道も伝えた。

 

平等寺は内供といって皇室の祈願をするお寺でもあり、朱印地の石高は80石。また、伽藍配置は、室町時代の絵図により知られる。それによると、三輪明神の南方に慶円上人開山堂のほか、行者堂・御影堂・本堂・一切経堂など、東西500m南北330mの境内地に本堂をはじめとする七堂伽藍のほか12坊舎が存在したことがうかがわれる。旧本堂跡地は現在地の300m東にあり、三輪の1番地である。 

 

(中略)

 

当時の平等寺は南都大乗院の末寺であるが、大峰勤行の寺院でもあって、高野山金剛峰寺と同格であった。醍醐の三宝院などの大峰入りに関して、たびたび大先達役を勤仕した。それで、後年江戸幕府の大峰参詣の代参を奉仕して、その御礼を献上するために1814(文化11)年江戸に下っている。その道中記事「御礼献上記」は現存している。薩摩の島津家の大峰入りに関しても例外ではなく、恒例の行事として奉仕していた。

 
現在の平等寺曹洞宗。それは神仏分離廃仏毀釈の嵐を生き延びるための、宗旨替えだったという。神仏分離当時、平等寺は大阪の曹洞宗の寺院翠松寺の寺号をここに移した。

ふたたび、「平等寺」の寺号に復したのは、昭和52年のことという。

その詳しい経緯は、下記のようになる。

1868(明治元)年、神仏分離太政官布告が出される。これにより、1870(明治3)年には、平等寺は大御輪寺、浄願寺と共に三輪神社の神官が管理するにいたり、堂舎は破壊され、廃止となる。1959(昭和34)年の『大三輪町史』には、「三輪小学校北側の道を三輪山の方へ登って行く道を平等寺坂といい、この道を進んで翠松庵の横、大行事神社の前の坂道を登りつめると、平等寺跡がある。もと高野山の所管であったが、のちには奈良の大乗院の末流となった。いまから750年ほど前、僧慶円がこの寺に来て平等寺といい、大神神社の神宮寺のようになり、社僧は大神神社の式事を勤めた。境内の広さは南北328メートル、東西490メートルもあって、本堂は六間四面の瓦葺、本尊は聖徳太子御自作と伝える十一面観音秘仏であった。その他維摩堂・御影堂・上人堂・鐘楼などいろいろな建物があり、大智院・中之坊・常楽院・多楽院・吉祥院など九ヵ坊の僧房があった。明治元年神仏分離のとき、僧侶たちは還俗し、お寺はつぎつぎになくなって、現在はただその石垣ばかりが残っている。」「現在はその伽藍は存在せず、わずかに塔中の石垣のみが遺跡として存在する」と記されたが、実際には廃仏毀釈の直後、小西家より現境内地の寄進を受け、廃仏毀釈前の平等寺住職・覚信和尚と町内有志18名が塔頭の一部を境内に移し、本尊十一面観世音菩薩、三輪不動尊、慶円上人像、仏足石等を守り、曹洞宗慶田寺住職・梁天和尚が翠松庵の寺号を移し曹洞宗に改宗し法灯を護持した。

 

(中略)

 

 1977(昭和52)年、曹洞宗の寺院、「三輪山平等寺」として再興した。丸子孝法の16年間の托鉢によって現在は伽藍も復元されている。

 

さて、現在の平等寺である。

本堂には十一面観音像がある。

 

境内には、弘法大師が信仰したという「波切不動明王」を祀る「波切堂」。

素朴なお不動さんだ。

 

山門から向かって正面の不動堂には、弘法大師作と伝えられる三輪不動尊、その脇に役行者、理源大師が祀られている。

写真を撮ったら、お不動さんの目が光っている。ちょっと怖い。

写真を撮って、ごめんなさい。

    

    

 

境内脇の階段を降りてせせらぎ流れる道を行くと、不動の滝。大峯に登る行者の修行場だった滝だ。

 

 

 

 

 

どう見ても、ここは曹洞宗ではなく、真言宗っぽい。修験の匂いが漂う。

本堂の十一面観音像のことが聞きたくて、寺務所の呼び鈴をならした。

若い副住職が対応してくださった。

 

「あの十一面観音像は、廃仏毀釈の折に救いだしたものなんですか?」

「いやいや、本堂の十一面観音像は、聖林寺の十一面観音を模して造ったものなんですよ」

 

えっ、それは、いったい?

 

副住職が教えてくれたことをまとめると、ざっとこんな話になる。

――聖林寺の十一面観音は、廃仏毀釈の折に大御輪寺から運ばれていったということになっていて、その覚書もあるが、あれはおそらく平等寺にあったものなのです。

つまり、平等寺には秘仏であり小さな厨子に納められている十一面観音があるのですが、その前立の十一面観音がいま聖林寺にあるものだと。

というのも、まず、光背まで合わせると、あの十一面観音の大きさからすると、大御輪寺の本堂には入りません。かつての平等寺の本堂は、今の平等寺の本堂よりも天井が9メートル高い。その高さがあって、初めて、あの十一面観音は入るのです。

おそらく、廃仏毀釈のどさくさの中で、いったん、大事な十一面観音を光背ははずして大御輪寺に避難させて、それから聖林寺へと移したのではないか。その際に、大御輪寺と聖林寺の間で覚書が交わされたのではないか。

そもそも聖林寺平等寺の住職の隠居寺でもあったのです。

 

(なるほど、先日の聖林寺ご住職の話と合わせて考えれば、当時の大御輪寺の住職は、当時の聖林寺の住職の弟弟子で、その聖林寺住職は元平等寺住職という、三寺がすさまじく近い関係にあって、そのなかで三輪山内の仏像救出に動いていた、という状況が浮かび上がってくるようだ)

 

今、平等寺があるところは、昔の平等寺へいたる平等寺坂の入口の下馬場でした。

この下馬場に、当時の平等寺住職覚信和尚をはじめとする有志が寺の仏像等を運び込んで、長屋を立てて、保管したのです。

寺自体も、大阪の曹洞宗の翠松寺の助けを得て、翠松寺と名を変えて存続を図りました。

それでも、私が子どもの頃は、それは昭和50年頃までのことですが、仏像は長屋にまとめて置かれたままで、長屋は雨漏りするようなありさまでした。

平等寺秘仏で、聖徳太子作と伝えられる十一面観音も、長屋にまとめて置かれている仏像の中にあったのですよ。

秘仏 十一面観音 御開帳は8月1日>

 

元の平等寺の境内は、今の平等寺の45倍あった、とおっしゃったのは現住職だ。元の平等寺の跡を見ようと、平等寺坂を上っていく途中、その昔は三輪山の年間行事等の取り決めをしていたという大行社の手前でご住職にはばったり会って、いま、平等寺を訪ねてきた所だとご挨拶申し上げたら、挨拶代わりにそのようなことを言われたのである。

このご住職の平等寺再興の執念は驚嘆すべきものがある。

寺でいただいた「平等寺だよ里」には、こんな一説があるのだ。

「托鉢をしてでも廃仏毀釈で廃寺となった平等寺の再興を」という先代師匠の遺言を守り、昭和46年秋より勧進托鉢に入りました」

 

かつての平等寺の寺領を描いた古地図が、現・平等寺の入口に掲げられている。

その広大さを見よ! とばかりに。

 

さあ、平等寺坂を上ってゆこう。

 

 

 

大行事社を過ぎて、しばらくは、左手に畑が広がる。イノシシと、畑の周囲の竹を盗伐する者を撃退するために、電流の流れる鉄線が張られている、とあちこちに警告文がある。いのししの罠にかかると死にますよ、と、人間に向けて。

この畑の中にかつて塔頭があった標の石垣がある。

 

さらに進むと、坂の左手に小学校跡、突き当たりには祠があり、その左斜め上に大三輪教のこじんまりとした建物があり、その前庭には護摩行の場がある。右手の奥が小さな滝。滝行の場だ。

 

ここで会った大三輪教の方に、昔話を聞いた。

それはおそらく、此の土地の人の記憶として語り伝えられたことなのだろう。

廃仏毀釈の折、広大な平等寺伽藍は焼き払われ、その跡地はこのあたりの大地主が管理することとなり、土地の所有者も寺から大地主に替わったということだが、平等寺跡は捨て置かれ、草生す荒地となっていた。そこに修行場を再興しようということで大三輪教(神道)が起こされたのだと。大三輪教の教祖が現在大三輪教の建物と行場のある場所を譲り受けたのだということだった。

 

 

 

 

 

 

そして、大三輪教の建物を正面に右へと登ってゆくと、春日社がある。その辺り一帯が平等寺本堂跡になる。

 

春日社の背後の森の向うが大神神社。春日社は大神神社の管理だと聞いた。

ここで同行の山伏が言った。

「ここだよ、ここ。こちらのほうが気が満ちている。大神神社よりもここだ。大神神社の裏にこそ、神仏習合の時代の息吹が潜んでいる」

 

聖林寺にやってきた十一面観音のことが気になって、平等寺にもあるという十一面観音も見てみたくて、こうして平等寺を訪ねてきたのだが、十一面観音の導きか、水の知らせか、虚ろな大神神社が追い払ったモノたちの呼び声か、縁をつないで探訪の小さな旅はまだつづく。

 

平等寺だよ里」第20号 丸子孝法住職が、現在の多武峰談山神社の前身、妙楽寺について、このようなことも書いているのだ。

大化の改新発祥の地とされる多武峰の歴史は、藤原鎌足公の遺骸を長子の定慧和尚がここに埋葬されたことに始まります。(中略)679年に多武峰妙楽寺が開創されました。

 1167年、大本山永平寺開山道元禅師の祖父藤原元房公が妙楽寺三重塔を寄進され、永平寺二代懐奘禅師、三代義介禅師、四代義演禅師が若かりし頃に修行された寺でもありました。

 

(中略)

 

しかし、残念なことに明治維新になり国家神道成立に向けて国学者を中心に原理主義になり、かの聖徳太子の御父用明天皇のみことのり「天皇は仏法を信じ神道を尊ぶ」という日本の国造りの根本を忘却し廃仏毀釈を断行し、多武峰妙楽寺の42の塔頭寺院は悉く整理をせまられ仏像は他所に運び出され全山廃寺となりました。

「托鉢をしてでも廃仏毀釈で廃寺となった平等寺の再興を」という先代師匠の遺言を守り、昭和46年秋より勧進托鉢に入りましたが、その頃から多武峰妙楽寺の一院の再興を心に念じてきました。

 

執念のご住職は、昭和52年に平等寺を再興しただけでなく、平成28年、ついに多武峰妙楽寺本坊の跡地500坪余りを譲り受け、妙楽寺の一院を再建することになったんだという。

 

私が次にめざすは、その妙楽寺のあったところ、現在の談山神社だ。

そもそも、先日訪ねた聖林寺妙楽寺の別院で、平等寺にあとには談山神社に向かうのは当初からの計画だった。

そんな私の目論見よりもはるか以前に、

水の流れは三輪から桜井へと、

聖林寺平等寺妙楽寺談山神社)へと、

滔々と流れてゆく。

 

しかし、中臣鎌足中大兄皇子はなぜにはるばる多武峰までやってきて密談なんかしたんだろうか、

なんで多武峰なんだ?

昔から謀反のかたらいは山の中……、

などと、まだ水の流れに乗せられていることにしかとは気づいていない旅人たちはのんびり言葉を交わしつつ。

 

 

 

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★ 今日の山伏の一言★

 

また、三輪に行って来た。先週の大神神社(おおみわじんじゃ)では、なんとも物足りないのである。本来の三輪山はどこにあるか?実はもう無いのだが・・・その痕跡は、裏側に残っていた。廃仏毀釈でぶち壊されてしまった三輪山別所。神宮寺の平等寺。現在の平等寺はその後の再興であるが、かつての平等寺の遺品がわずかに残されている。山中の元の本堂跡には、元々の春日神社だけが残されて、移築されて残っていた。この谷にはまだ修験のにおいが漂っていた。さらに、多武峰に足を伸ばし、修験の痕跡を探して歩く。今は、下界より山が安全である。