「光のノスタルジア」「真珠のボタン」「オーバーストーリー」

 

パトリシオ・グスマン監督の「光のノスタルジア」「真珠のボタン」と二日連続で観る。
チリのピノチェト独裁時代に砂漠に埋められた者たち、海に沈められた者たち、無数の死者の記憶。
死者たちの記憶を手放すまいとする者たちの声。

巨大な天体望遠鏡が立ち並ぶ広大なるアタカマ砂漠で、まるで星を探すように愛する者の遺骨を探しつづける女たち。
自分の生れた国にいながらにして追放の生を生き、殺されていった者たちの記憶を、海の音、水の声に聴く者たち。

 

「真珠のボタン」

チリのアタカマ砂漠で見つかった水晶の原石、そのなかに閉じ込められた3000年前の一滴の水、そこから記憶の物語が立ちあげられていく。

ひとつの真珠のボタンが、先住民の悲劇と、チリの悲劇を結び目となって。

 

 

水には記憶があると言われている。水には声もあると私は信じている。水に近づいてみれば、インディオや行方不明者の声を聴くことができるだろう。

 

「光のノスタルジア」が星の眼差しでチリの悲劇を語るならば、「真珠のボタン」は水の声でそれを語ってゆく。

水を生きる者としての先住民の悲劇と通底するものとしての、チリの悲劇。人はすべからく水を生きる者であるから、水の声を聴けば、人の記憶もまたそこにあるはず。

 

ピノチェトによるチリの虐殺の前には、南米へとやってきた西洋人による先住民の虐殺があった。

ビクトル・ハラ「平和に生きる権利」を聴きなおす。ジンタらムータ版。

 

youtu.be

 

チリも済州島も同じことなんだなと、映画を観つつ、あらためて痛切に思う。

朝鮮半島で、南米で、中東で、憎悪をかきたてて、分断して、利益を得る者たちの存在。

直接の虐殺者の背後に隠れて、虐殺へと人間たちを誘導してゆく、もっと大きな力を握る者たちへの怒りがふつふつと。

 

年末年始と読みつづけたリチャード・パワーズ『オーバーストーリー』もまた、木の声に導かれて、忘れてはならぬこと、失われてはならぬものを記憶する物語。でも、記憶するだけ、とりかえしはつかないんだ、もう人間は。

 

考えるほどに、あまりのとりかえしのつかなさに、奥歯を噛みしめる夜。