これは、白洲正子『十一面観音巡礼』から取ってきた地図だ。
霊山寺、王龍寺、長弓寺と富雄川沿いの寺を訪ね歩いて、
さて、下流の飛鳥、法隆寺に向かうか、上流の高山、傍示、龍王山に向かうか、
時はコロナ自粛真っ最中、法隆寺は拝観停止、となれば、これはもう山へと向かうしかないだろう。
富雄川の源流へと、水の道をさかのぼってゆく。
源流の水の神を祀る龍王山を目指す。
まずは予備知識。
龍王山とは?
淳和天皇・天長3年(826)、旱日を積み稲苗殆ど枯なんと欲す。人民是を愁訴し国司是を天朝に奏す。天皇直に勅して弘法大師に雨を祈らしむ。大師河内の榜爾嶽(ボウジタケ=龍王山)に登り八大龍王を祭り大雲論請雨経を講ぜらる。龍神感応雨降ること四方数十里、万民斉しく愁歎の眉を開き皆蘇生す。茲に於て、天皇其効を嘉賞し忝も叡旨を賜り、八大龍王に表して八葉蓮華寺を建て、其塔中に八ケ坊を置かる。
(氷室山蓮華寺の略史(傍示・西方寺蔵))より
ここにも弘法大師伝説がある。
富雄川沿いのあちこちで、弘法大師は、龍と出会い、龍神を感得する。
龍王山とは、八大龍王の山であり、もとは榜爾嶽。河内と奈良の境の山であり、榜爾という言葉自体が境を示す言葉であるのだという。それは人の世と人ならぬ世、生と死の境界をでもあるのかもしれない。雨乞いの山である龍王山は、嬰児山とも言うのであり、姥捨てならぬ子棄ての山でもあたのではないかと言う人もいる。
曾ての寺村・傍示村では、旱天が続くと龍王山頂での雨乞いがなされたが、その時は、必ず各戸一名が参加し、峡崖道を太鼓を叩きながら龍王山へと登り、山頂で火を焚き、全員で雨乞い呪文を唱えながら雨乞い石のまわりを回った、という。
近年では、大正13年と昭和14年に雨乞いがおこなわれた。(『交野市史』より)
近鉄富雄駅あたりから、川沿いに上流へと車を走らせれば、あっという間に風景は、まずます草萌える田園風景となる、茶筅の町高山までは20分とかからない。
龍王山系(龍王山~旗振山~交野山)から落ちてくる水が貯められるくろんど池は江戸時代に作られた溜池だ。コロナ自粛で行き場のない人たちがここには来ていて、スワンボートに乗ったり、釣りをしたり。バスが釣れると若い釣り人が言っていた。
ここまで来ると、龍王山の麓の傍示(ほうじ)の里はもう目と鼻の先。
分かれ道を左に折れて傍示の里へと下りてゆく。細い農道だ。どんどん細くなる。
この細道は、今も昔も河内と奈良を結ぶ道なのだ。
そういうことも走る車の中で、あわてて手元のスマホでググって知った。
思い立ったらすぐに動く、動きながら情報を集める、その道の上に立って、おおおと驚く、そんなことの繰り返しだ。
この道は、かつては、京都から熊野・伊勢へと向かう人々がたどった古道のひとつ、<かいがけの道>へとつながる道、そもそもが巡礼の道、修験の道なのだ。
そういうわけで、この道のあちこちに、さまざまな神への「伏拝/遥拝所」がある。
たとえば、これ。⇓
かつて、ここに、熊野ゆかりの八王子神社があったのだという標識だ。
細い道を抜けたところで、風景が開ける。河内が見える。難波が見える。大阪が見える。淡路島も見える。
なるほど、こちらからあちらを見渡すこの風景を旅の頼りに、人びとは河内へ、大和へと、この道を行きかったのか。
この風景の見えるあたりの道沿いに天満宮がある。
鳥居はあるが、鳥居の先には小高い山の山肌しかない。行き止まりだ。
鳥居の柱に「天満宮窟前」とある。
鳥居の脇の丘の上にあがる小道をのぼっていくと、磐座が現われる。
祠があるが、磐座自体が神なのだろう。龍神の山の里には、磐座をご神体に雷神。
天満宮から道を下ってすぐのところに、八葉蓮華寺にあがる小道。 寺というより、小さなお堂。しかし、かつては、龍神山の「八大龍王を表して八葉蓮華寺を建て、其塔中に八ケ坊を置かる」 (氷室山蓮華寺の略史(傍示・西方寺蔵))というような寺だったのだという。
八葉蓮華寺の詳しい由来はこうなる。
天長三年(826)交野、大和の一帯が日照り続きになり植えた苗がほとんど枯れてしまった。
村人達は困り果て、国司に訴えたところ、国司はこの状況を天皇に報告した。天皇は直ちに弘法大師を呼び、交野地方に雨が降るように祈願する事を命じられた。
弘法大師は、早速傍示が嶽(竜王山)に登って八大竜王を祭り、大雲論晴雨経を読まれた。
すると龍神がこれをお聞きになったのか、四方数十里にわたって黒い雨雲が現れ、まさに竜が雨雲に乗って天に上るような暗さになり雨が降ってきた。
これを見ていた村人達は、よみがえったように喜んだ。天皇はその効をおほめになり、八大竜王を祭る寺を八葉蓮華寺と号し、その下に八つの坊を建てられた。
その一部「山の坊、栴檀(せんだん)坊、向井坊、西の坊」の地名が残っている。
建暦年中(1211から1213)の僧戦の時、京都清水寺に協力した為延暦寺に敗れ、この時寺は廃絶した。
その後、元享元年(1321)法明上人が交野に御化道(ごけどう)の際、八葉蓮華寺の跡に一小堂を建てられ、旧名の通り八葉蓮華寺とおつけになり、融通念仏宗の道場とされた。 (氷室山蓮華寺略史より)
さあ、いよいよ龍王山にのぼる。
龍王山に入るには、「かいがけの道」を通ってゆかねばならぬ。
「かいがけの道」とは――
『かいがけの道』とは、交野市東部・寺地区に鎮座する“住吉神社”から、龍王山麓の尾根道を上り、傍示(ボウジ)の里西端で“傍示の里ハイキングコース”(大和へ続く道ということで“大和道”とも呼ぶ)に合流するまでの約1kmをいう。
そう、まずは、この道は、今はハイキングコースなのだ。
『かいがけ』は、“峡崖”と書く。
峡(カイ・キョウ、陜が本字)とは“急な崖に挟まれた谷”あるいは“山間の盆地”を意味し、当地では、龍王山系の西から南にかけての急斜面・断崖層の下にできた山道を指す。
古くは、京都から淀川または東高野道を経由して交野に入り、峡崖の急坂を上り傍示(ボウジ)の里を過ぎて大和へ入り、生駒・葛城・五条と南下して、十津川から紀州・熊野に至る重要な古道で、その一部である峡崖道には、社寺・石仏・遠方にある社寺の遙拝所(伏拝:フシオガミ)などが点在する。峡崖の道の東端にあたる『傍示』は、河内と大和の国境に当たる地で、今も大阪・奈良両府県それぞれに傍示との地名・集落がある。
傍示とは、古く“牓示”と書いた。“牓”(ボウ)は“たてふだ”・“掲示”などを意味する語で、そこから牓示は、国境や領地といった境界の目印・標示として立てられた木杭または立石・立ち木など指し、ひいては境界を意味するようになったという。
戦国の世には、この河内と大和を結ぶ道をもののふどもが馬を走らせたという。
鶯が鳴いている、シジュウカラが鳴いている、藤が咲いている、つつじも咲いている。
かいがけの古道をゆけば、道の脇を流れるせせらぎの音がする。
この道をゆく者は、はるか昔から、山から湧きいずるこの生まれたばかりの水の音を聴いて旅をしたのだろう。
水の音は命の導きの音。
けっして登山などは好きではない私が山を訪ねてあるくのは、ひとえにこの水音の誘いゆえなのだ。
しかし、今は、この道は、巡礼路ではなく、ハイキングコースだ。
あちらとこちらをつなぐこの道に、あちらとこちらの境を思って歩く者も、石にカミを感じる者も、そうは多くないだろう。
もはや、熊野に思いを馳せ、伊勢を思って歩く者もそうはいないだろう。
山伏も聖も姿を消してしまっただろう。
それでも水は流れている。
金毘羅さんの伏拝がある。石の上にてトカゲが遥拝。
かいがけの道に入って、5分も歩かぬうちに、龍王山の登り口にたどりつく。
山に入ってゆく、いたるところにつつじが咲いている。
墓だろうか、何かの碑だろうか、「南無阿弥陀仏」「一心欲見佛」とある。「不自惜身命」とある。山中の祈り。
竹が生い茂る。あちこちにタケノコがむくむくと生えている。いのししがタケノコを掘り返して食った跡がある。ケモノの匂いがするような気がする。
15分ほども歩いて登れば、ほら、大阪が見える。もうすぐ頂上だ。
八大龍王の磐座の手前の広場のような場所に、朽ち果てた祠がひとつ。
誰かの祈りの跡。ここに祀られたカミの行方、祈りの行方が気になる。
カミは人に忘れられてしまうと、消えてなくなるものなのだろうか。
今までどれだけのカミが忘れられて消し去られてきたのだろうか、
カミの記憶は、そのカミに祈り、そのカミへの祈りで結ばれていた人々の記憶もろとも消えていったのだろうか。
それは、つまり、あるカミとともにあった、ある一つの世界の消失なのでではないか。
いま、ここにある、私たちの世界とは別の。
今まで、無数の「ある一つの世界」が消えて、忘れられていったのではないか。
そうか、
気になるのは、消し去られた世界、消し去られた人々、消し去られた記憶なのだ。
消されたカミの名前が気になるように、消された人々の名前も気になるのだ。
無数のカミ、無数の人、無数の名前。
山頂に到着。八大龍王。磐座の上に小さな祠。
龍王のはずなんだけど、どなたですか、お稲荷さんの狐を祠に入れたのは。
早速、 山伏が、錫杖を振って鳴らして、「祓いたまえ、浄めたまえ」
磐座は花崗岩。この花崗岩には海の匂いがするぞーー、ここは大昔は海だったのだな、と山伏。
そうか、この山は、水の中から姿を現したのか。
かつてはお堂があったのだろうか、瓦の破片が散らばっている。
放っておかれて忘れられてしまっている間にお堂が朽ち果てたのか、
それとも、あるとき、不意に破壊されたのか、
その「あるとき」とは、「あのとき」ではないのか?
ここは神仏習合の山であったはずだから。
山伏祈る。岩に祈る。
椿も祈る。つつじも祈る。草木悉皆成仏。私も祈る。
あちらとこちらの境の山で、
人々をずたずたに断ち切ってゆくコロナの世のすべての命に、水が降り注ぎ、水が流れて、めぐって、むすんで、潤んで、脈々とつなががっていきますよう、
祈る。
山を下りて、かいがけの道に戻れば、龍王山の鳥居のすぐわきには、かつて地蔵堂があったという石仏たちの広場がある。
通称、かいがけ地蔵。
石段をのぼって正面に地蔵、右手に役行者、左手前に三界万霊碑、左手奥に不動明王。点々と小さな地蔵、碑石。
かつてあった地蔵堂の建物はなく、ここも龍王山の山頂と同様、瓦の破片が散らばっている。
三界万霊碑の横には大きな山桃の古木があって、その下にも、小さな石仏。
輪郭も風化して、かなり古いものなのだろう。
不動明王は紅蓮の炎を背負っている。素朴な立ち姿。
虚空に向かい、南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏、苔むす碑石。江戸時代のものだ。
この役行者は、台座には文化十年とある。地蔵さんのように赤い前掛け。
きっといたはずの「前鬼」「後鬼」は、ない。
祠は平成の再建。
なんの案内も説明もないのだが、ここは昔、熊野詣の人々が休憩するところで、茶屋もあったとか、尼僧がいたとか、弘法大師堂があったとか、そんな記述をどこかで見たが、今はまだ定かなところはわからない。
ただ、なにか、破壊のあとの静けさのような、粉砕された祈りのような、その祈りの破片の一つ一つを拾い集めて、いまいちどつないでいかなくてはならないような、そんな気配がしたのだった。
降りてきたばかりの龍王山を見上げる。
龍王山の「嬰児山(みどりごやま)という別名について、あらためて考えた。
かつて、かいがけの道が修験の道であり、巡礼の道であり、こちらとあちらを結ぶ道であり、その道にあるこの山が神仏習合の山だったとするならば、、「嬰児山」という名に現代の多くの人が連想する「子棄て」「間引き」といった 悲しみのイメージはそもそもが見当違いなのではないか。
龍王山にのぼることは、死と再生の道をゆくことだったのではないか、
龍王山から降りてきたときには、ひとりの嬰児となっている、新たな生がはじまる、
だからこその「嬰児山」だったのではないか。
水に浄められて生まれ変わる、山。
もう百年近く雨乞いの祭祀が行われていないという八大龍王へと、よみがえりの水、結びの水をこの世に降らしてくださいと、
祈る。
かいがけの道に静かに流れるせせらぎの音に水を澄ます。
鶯が鳴く、シジュウカラが鳴く、山伏の錫杖の音がする。
タンポポが咲いている。
ここのタンポポは、ニッポンタンポポだ、ほら西洋タンポポみたいにガクが反り返ってないでしょう。
黄色いタンポポに手をあてて、山伏が言った。
富雄川源流から、今度は一転、富雄駅あたりへと川を下ってゆこうと思う。
川沿いを歩いて気づいたこと、ひとつ、
長弓寺境内の伊弉諾神社がそうであったように、明治以前、牛頭天王社だった社が川沿いに点々とあるのだ。
十一面観音の水脈である「登美の小河/富雄川」は、どうやら牛頭天王の流れでもあるらしい。
十一面観音にしても、牛頭天王にしても、疫病を祓う強力なカミ。
コロナの世の祈りの巡礼は続く。