大神神社の神宮寺だった平等寺と、明治以前は妙楽寺だった談山神社を訪ねる。 その2 (備忘)

談山神社もコロナ対策で、正門は閉じ、西門だけで受付をしていた。

しかし、「別格 官幣社」って。明治の世に、神仏分離を経て、それなりに偉くなったんですね、談山神社

 

 

 

談山神社公式HPには、その歴史について、こうある。

御祭神 藤原鎌足

舒明・皇極二代の天皇の世、蘇我蝦夷と入鹿親子の勢力は極まって、国の政治をほしいままにしていました。 この時、中臣鎌子(後の藤原鎌足公)は強い志を抱いて、国家の正しいあり方を考えていました。

たまたま飛鳥の法興寺(今の飛鳥寺)で蹴鞠会(けまりえ)があったとき、 聡明な皇太子として知られていた中大兄皇子(後の天智天皇)にまみえることができ、 西暦645年の5月、二人は多武峰(とうのみね)の山中に登って、「大化改新」の談合を行いました。 後にこの山を「談い山」「談所ヶ森」と呼び、談山神社の社号の起こりとなりました。

ここに鎌足公は真の日本国を発想し、日本国が世界に誇る国家となるため、一生涯を国政に尽くしました。 天智天皇8年(669)10月、鎌足公の病が重いことを知った天智天皇は、みずから病床を見舞い、 大織冠(たいしょくかん)を授けて内大臣に任じ、藤原の姓を賜りました。 藤原の姓はここに始まります。

足公の没後、長男の定慧和尚は、留学中の唐より帰国、父の由縁深い多武峰に墓を移し、十三重塔を建立しました。 大宝元年(701)には神殿が創建され、御神像をお祭りして今日に至ります。

なんともざっくりとした、神仏習合にも、神仏分離にも全く触れない、当たり障りのない由緒書き。

 

談山神社の由緒書に抜け落ちている事柄を補足すると、

670年に現在は拝殿となっている講堂が創建され、そこが妙楽寺となったという。

ちなみに、701年に創建された神殿は、現在の本殿。

妙楽寺は、平等寺ご住職の文章にもあったように、平安時代に天台僧・増賀を迎えたり、鎌倉時代には曹洞宗永平寺の二世孤雲懐奘らが参学したりということがあり、同じく藤原氏縁の寺院である法相宗の興福寺とは争いが絶えなかったという。

天仁2年(1108年)、承安3年(1173年)と、興福寺衆徒によって焼打ちに遭っているというから、、なんとも凄まじい。

その後も永享10年(1438年)、南北朝の争いに巻き込まれた末に全山全焼、

永正3年(1506年)には、大和国人一揆に巻き込まれ、焼き討ちに遭う、

永禄2年(1559年)からの「多武峰合戦」でも戦乱に巻き込まれている。

いろいろあった末に、江戸幕府に3,000石余の朱印領を認められ、

その後、明治の神仏分離によって、妙楽寺は廃される、という流れになる。

 

この妙楽寺の別院が、同じく多武峰にある聖林寺なのだ。

聖林寺のHPには、「奈良時代和銅5年(712)に、談山妙楽寺(現 談山神社)の別院として藤原鎌足の長子・定慧(じょうえ)が建てたとされています。」とある。

当然聖林寺妙楽寺同様、何度も焼打ちにあったことだろう。そして、「江戸時代中期、大神神社の神宮寺の一つ、平等寺の僧侶・玄心上人が再興。以後、神宮寺との交流が深くなり、天台寺院である妙楽寺の山内にありながら、聖林寺真言宗の律院として明治時代まで栄えることとなりました。」ということになる。

なるほど、こうして、歴史の荒波の中で、平等寺ー大御輪寺ー聖林寺妙楽寺の関係は形作られていったのか、と遥かな昔を思いつつ、談山神社境内を歩く。

 

 

境内を見まわせば、ここはまるで寺なのである。石の階段の上に見えているのは、旧常行堂

 

 

 

常行堂と言えば、後ろ戸の神、摩多羅神。叡山の常行堂には阿弥陀仏の背後にこの荒ぶる芸能神がいるのである。妙楽寺天台宗、とうすうす思っていたら、やっぱりここにも摩多羅神はいたというわけだ。

談山神社ではちゃっかり、摩多羅神の芸能お守りを売っている。

もちろん、買う。

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常行堂の左手には、比叡神社の祠がある。もとは山王権現神仏習合

 

   

神社と言いつつ、神仏分離と言いつつ、ここは神仏習合の名残が色濃く残っている。

談山権現、勝軍地蔵、如意輪観音

 

 

  

 

そもそも妙楽寺のはじまりである、十三重塔。

 

そして、磐座、水神・龍神社 。水は大事、とても大事。

 

 

 

この磐座の脇を通って、談山神社の裏山、遥か昔に中大兄皇子中臣鎌足大化の改新の謀議を交わしたという、談山(かたらいやま)に登った。

 

   

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十分ほどのプチ登山。談山の小さな山頂には、「御相談所」と大書された石碑。

うーーむ、ご相談ですか。

いま、われわれがここで何事かをご相談するとすれば、やはりこのコロナ禍の世の改新であろうと、山伏と私。

神仏習合の世を暴力的に底からひっくり返して出現した、国家神道の近代を振り返りつつ、起源を無化してゆく「習合」という発想、山の信仰、修験という野生の宗教を想いつつ、復古などではなく、新たな世をへと今は閉ざされている水脈を拓くためのご相談をするのである。

 

コロナは人間とモノ(鳥獣虫魚草木から目に見えぬ一切すべてのモノ)の関係を根底から変えるはず、人間の命に対する向き合い方、結ばれ方を根本から変えるはず、命を金で測り、人間を生産性で測る世はもうおしまいだ。でも、具体的に、どうやって?

そこを御相談、というわけで……。

 

ああ、言い忘れていました。

そもそも談山神社に興味を持ったのは、佐藤弘夫『アマテラスの変貌 中世神仏交渉史の視座』で男神としての天照大神絵図(談山神社蔵)を見たことだった。

ものすごい髭の、衣冠束帯の男神だ。これを観たかったのだが、展示はされていなかった。

写真の説明はありません。

 

 佐藤弘夫氏いわく

天照大神はその性別や容姿について実にさまざまなバリエーションが存在したのであり、それが白衣の女神に統一されたのはたかだか百年ほど前のことにすぎないのである。

 明治期における神々のイメージの統合は、天皇制国家の形成とそのイデオロギー的基盤としての神道の浮上という現象と、密接不可分なものであった。それぞれの自社の判断にゆだねられていた神の図像に、国家的な規制の網がかぶせられるようになるのである。とりわけ皇祖神とされた天照大神像に対する干渉は厳しいものとなった。

 

この多武峰から近いところであれば、長谷寺にも童子姿の天照大神がいる。と佐藤弘夫は言う。「雨宝童子」。しかもご本尊の十一面観音の脇侍として、なのだと。

この雨宝童子と十一面観音に会いに、いずれ、長谷寺にも行くことになるだろう。

 

もう夕暮れも近くなってきた。山を下りよう。

談山神社を出て、奈良市内へといざ向かおうと走り出した車の右手に、不動の滝という案内板が見えた。お不動さんが岩に彫られていた。お不動さんと道を挟んで向こう側に、滝が滔々と落ちていた。

 

水の音を聴けば、命が潤う。

さあ、御改新! ですね。

尽きせぬ水の流れを心に宿して、帰途に就く。

 

  

 

 

 

 

 

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