『列島祝祭論』「国栖」の章にて、安藤礼二いわく、
「芸能によって地上にもたらされる霊的な力は、現実の諸制度の基盤となった物質的な力である武力を凌ぐものであった」
「天皇のもつ力と芸能者のもつ力が等しかった」
cf)日本書紀 天武紀四年 二月の項
「大倭・河内・摂津・山背・播磨・淡路・丹波・但馬・近江・若狭・伊勢・美濃・尾張等の国に勅して曰はく、「所部の百姓の能く歌ふ男女と侏儒・伎人を選びて貢上れ」とのたまふ」 ※畿内各地の芸能を朝廷に集約させる。
十四年 十月の項
「詔して曰はく、「凡そ諸の歌男・歌女・笛吹者・即ち己が子孫に伝へて、歌笛を習はしめよ」とのたまふ」 ※芸能の「家」を創出させる
神倭天皇、經歷于秋津嶋。化熊出川、天劒獲於高倉、生尾遮徑、大烏導於吉野、列儛攘賊、聞歌伏仇
神倭(神武)天皇、秋津島(大和の国)を經歷(へ)ましき。熊と化れるもの爪を出だして、天の劒(つるぎ)高倉に獲たまひき、尾生(お)ひたるひと徑を遮えて、大き烏吉野に導きまつりき、儛を列ねて賊を攘ひたまひ、歌を聞きて仇を伏せたまひき
(『古事記 序』)
神武は、化外の地である熊野の森で巨大な熊の毒気にあてられ気を失い、熊野から吉野へと向かう途上で尾をもった人々、「国栖」の人々と出会い、八咫烏に導かれて吉野へと入る。神武は人外の地を彷徨しなければならなかった。その後、神武は、武力ではなく、舞と歌の力によって賊と仇を斃す。