「場」をめぐるメモ

イメージの水底へ降りる、と今福さんは言った。

(きのう「原写真論」の刊行記念トークを聞きに京都まで行ってきたのだ)

(そうか、やはり、水なんだな)

 

言語的な限界をイメージで突破できないか、とも今福さんは言った。

(言語は言語であること自体に、既に限界があるのだな)

 

言語的な限界を言語で突破しようと、

言葉に言葉を重ねるほどに、

論理に論理を積み重ねていくほどに、

言語はみずからどんどん限界の中へと押し込まれていくものなのだ。

 

言語的な限界を突破するには、水のように、風のように、脈々とながれゆくものとしての言語を感じること。

 

言語をわがものとして所有しないこと。

(イメージもまた、わがものとして所有しないこと)

(所有、とは近代文明の狭量で傲慢で強欲な仕組みであることを忘れぬこと)

(なにかを所有する存在としての「私」という主語を捨てること)

思うに、言語は自他の境を超えたところを流れる水であり、風であるべきなのだ。

 

たとえば、私はここで「言語」と言いつつ、誰のものでもない(それゆえに誰のものでもある)「物語」のことを思っている、

「物語」が語られる「場」のことを思っている。

「場」とは、「泉」なのだなとも思っている。

「泉」、イメージの水底から湧きいずるものとしての「場」

 

イメージの水底には、「原写真」があり、「原物語」がある。

「原写真」「原物語」は主語を持たない。

 

「私」のものではないものを、私の声で語る。物語。そのことをずっと考えている。

 

そう考える私は、「私」という主語が問題だと繰り返し語った森崎和江の声を身に沁み込ませている。

 

「中動態はアナキズム」と言った栗原康の言葉も思い起こしている。

文明以前には、動物や自然を所有するという発想はありえなかった。

能動態を土台とした認識の枠組み。それがものがたっているのはなにか。支配だ。ものごとを主人と奴隷の関係でとらえるということだ。主人の欲望を生きるということだ。主体(subject)であるあなたが、わたしを対象(object)として把握する。

(『サボる哲学』より)

 

「場」を開くこと、

強欲な世界の岩盤に「穴」を穿ち 湧きいずる泉のまわりに集うこと、

誰のものでもないけれど、同時に私の体から湧きいずる水の声で語ること

誰のものでもないけれど、同時に私の体から生まれいずる風の声で歌うこと、

 

そういうことを、ずっと考えている

言葉は ぽつり ぽつり

泉から湧き出る 水のしずくのように

ぽつり ぽつりと 石を穿ち、岩を砕き、

忘れられた地下水脈をめざして降りてゆく 水のしずくのように