ゼロ地点

書評を書く。
「いい子は家で」(青木淳悟 新潮社)を読む。脱臼小説。こういう関節のはずされ方はあまり好きではないかもと思いつつ、もう少し読んでみようか、棚上げしようか、考える。
「世界を打ち鳴らせ サムルノリ半世記」(キム・ドクス 岩波書店)を三分の二ほどまで読む。
小唄のお稽古に二週間ぶりに行く。声が出ていない、お腹で呼吸をしなさい、とお師匠さんに注意を受ける。砂糖菓子をいただいた。おいしい。
青木淳悟の新刊「このあいだ東京でね」の書評を読む。(本自体はまだ読んでいない)。書評氏曰く「(青木淳悟は)文芸誌的「実験」の相場で競技点を稼ぐような「安全に壊れた」小説の窮屈さからこそ解放されている」「今もっとも『小説の自由』という言葉の最良の意味に接近している作家」「青木の自由とは何かを解体していくという行為それ自体からの自由だ」とある。なるほど。文芸誌的「実験」というのは、よくわからないが、とにかく、ある意味、ゼロ地点からの前例のない新しい表現ということを書評氏は言おうとしているんだろう。

大学の授業で学生たちが書く作品も、ある意味ゼロ地点モノなのだが、(解体する対象をそもそも持たない。「実験」という意識もない。微妙に壊れている)、そのゼロ地点の想像力が生み出す作品のリアリティのなさに茫然とすることが時折ある。
リアリティとは言っても、別に、「事実を写実的に正直に書く」というようなツマラナイことを学生に求めているのではなく、たとえば、家の中でお父さんが突然竜巻になる的なお話(青木淳悟「いい子は家で」の中にそんな情景が書かれている。他にも普通では有り得ないことが、淡々と普通に描かれている)に、「いくら小説だからって、なんでもありのわけがないだろうッ!」と読み手に言わせず、ふんふんふんとスムーズに読み進んでもらう、そういう意味でのリアリティを言っているのだが、学生ゼロ地点と青木淳悟的ゼロ地点のリアリティをめぐるその違いは、学生ゼロ地点からは見えない分からない、そういうたちのものでもある。

世界観を持つゼロ地点(青木)と、世界観すらない絶対ゼロ地点(学生)というふうに、その違いを言うことができるような気もする。
もっとベタな言い方をすれば、どんな理不尽な、奇想天外な、ありえない状況に置かれても、人間は人間なんだよ、人間の心まで奇想天外ナンデモアリというわけにはいかないんだよ、ということが分かっているかどうかの違いのようにも思う。

これについて書き出すとキリがないので、今日はここまで……。

と言いつつ、人間にも世界にも関心がなく、自分自身にも疑問を持っていないように見える者(絶対ゼロ地点に立つ者)が文章で自己表現しようとすることの謎について、ついつい考え込む。いや、待てよ、あれは自己表現ではなく、表現でもなく……、