蓮葉の上の宇宙的妄想

一千一秒物語稲垣足穂
前世の記憶のようにかすかで曖昧で、でも忘れかねる、確かにこんなことがあったよ……、というような感覚にさせられるショートショートの連なり。いや、これは来世の記憶なのかな。前世の自分が見た夢のなかの来世の自分が見ている夢、なのかな。いやいや、これは、どこでもない場所の、誰でもない自分の話、かな。芝居の書き割りの中の、無限で、ぐるぐる、はじめもおわりも、夢もうつつも、自分もあなたも、過去も未来も定かではないような、永遠回帰の、「天体」と「わたし」の世界。
↓これはちょっとしびれた。

「ある夕方 お月様がポケットの中へ自分を入れて歩いていた 坂道で靴のひもがとけた 結ぼうとしてうつむくとポケットからお月様がころがり出て 俄雨に濡れたアスファルトの上を ころころころころ どこまでもころがっていった お月様は追っかけたが お月様は加速度でころんでゆくので お月様とお月様との間隔が次第に遠くなった こうしてお月様はズーと下方の青い靄の中へ自分を見失ってしまった」


一方、同じく足穂の『弥勒』は、読むのにひどく苦労。本に書かれている文字も、文字が形作っているイメージも、目に入る前に、光速で何万光年のかなたに逃げていく感じ。文字とイメージのほうが、読む人間を選んでいる。こいつら、確信犯で、選別をやっている。でも、書かれている気分は、実によくわかる(つもり)。たぶん、それは、私のほうがその気分に捕まりに行っているのだろう。

「ここにおいて江美留は悟った。婆羅門の子、その名は阿逸多、今から五十六億七千万年の後、竜華樹下において成道して、先の釈迦牟尼仏の説法に漏れた衆生を済度すべき使命を託された者は、まさにこの自分でなければならないと。
 そんな夢を確かに明方に見た。真っ暗闇の中に揺らいでいる蓮葉の上に、それでも辛うじて落ちないで坐っている、裸体に古カーテンを巻き付けた自分であった」

一千一秒物語』以降のすべての作品は、『一千一秒物語』の註であるとは、足穂の小癪な言い様。

今日いちにち、本を眺めるほか為すこともなく、既に眠い。原稿はあした書こう。