もう30年も前のことになるのか。
石牟礼道子さんの天草探訪の旅に1度だけお供したことがある。
当時はこの度が『春の城(アニマの鳥)』に結実するとはまったく知らなかった。
私にとっては初めての天草の旅だった。
『草の道』のうち「遠き声」と題された章が印象深い。
「生命の気品」と見出しを打たれた項がある。
後世に云わせれば、文明以前の部族社会だったかもしれないが、人は山野や海の光が諧調をもって広がる中に置かれると、自ずから生命の気品ともいうべきものをかもし出すものではなかろうか。(『完本 春の城』P62)
戦国~安土桃山時代、日本に布教に訪れた伴天連(宣教師)たちは「日本の仏教を、インディオの宗教に対したごとく悪魔視した」。
その伴天連たちのひとり、イエズス会日本布教長(1570~80)を務めたフランシスコ・カブラルは、中国征服をフェリペ二世にすすめ、その尖兵に日本人を使うことを進言している。戦国の世の戦争慣れした戦国武士を。
一方、日本の天草・島原では、「信心組(コンフラリヤ)」があり、ポロシモ(隣人)を愛すことの実践の「慈悲組」があり、「殉教(マルチリヨ)組」があった。
島原の乱の際、島原側では領内百姓の62パーセントが抵抗を貫いて死んだという。
それをうけての石牟礼道子の問題意識。
こういう国柄において土俗の心性が、異教の神にしの信仰を仮託して結びついたときどうなるか。私の課題はそこからはじまる。(完本『春の城』「草の道」P61 )
石牟礼の意識は、とりわけ命の糧である「食」に向かう。
籠城者数三万七千、うち天草勢二千七百といわれる。最近の研究では天草勢を含めて二万数千というのが実数に近いとのことだが、それにしても落城までの日々、どのような食事内容であったのか。
『春の城』で石牟礼さんは籠城中の民が夢見る節句浜の情景を描く。
年に一回くる三月三日の大潮を、この辺りの者たちは、どれほど心はずませて待つことだろう。常になく沖まで潮が引き、海の豊かさにひきこまれるようにみんなで沖までゆく。その潮が崖の下で起き始めているのである。
(中略)
(原城二の丸下の磯の情景) あたりには三、四千とはいわぬ人数が出て、乏しくなった食べ代の足しに貝や海藻をあさっている。まるで田打ち蟹が穴から総出したようだ
このときが、まさに、『春の城』では幕府軍が磯に押し寄せる総攻撃の瞬間ともなる。
この磯辺の情景については、『春の城』構想段階では、さらに具体的に石牟礼さんの思いも込めて記されている。
節句浜はと呼ぶ陰暦三月三日の大潮が近づいていた。一年のうちで、この頃ほど海藻類が繁茂し、貝類の肉質が肥って味がよくなる時期はない。磯辺には緑や茶や鮮紅色の海藻がぎっしり隙き間もなく成長して、そのために潮が干けば砂地や潟が厚く盛り上がり、磯の香りでむせかえるほどである。硝煙や屍臭が漂うあい間に、磯の匂いが裏手の崖を伝って、草小屋の中に流れこんだりしなかっただろうか。
ふだんなら全村あげていそいそと籠を提げてゆく、祝祭めいた浜辺の時季ではなかったか。この世の名残に貝や海藻を拾いに磯に降りる。明日も知れぬ幼な子が、一粒の巻き貝を掌に乗せて大人たちを仰ぎみる。のどやかな磯遊びをしたよき日があったことを、年寄りも交えて微笑みあう情景が思い浮ぶ。(『完本 春の城』「草の道」p63)
さて、城から幕府軍へと飛ばされた矢文にはこうある。
「求広大無辺之宝土候之上ハ火宅之住所不令望候」
(広大無辺の宝土を求め候上は、火宅の住所を望まず)
さらにこのような歌も、
「しろやまの梢は春の嵐かな/はらいそさしてはしる村雲」
これはまさしく、うめの「観音様とマリア様が仲良うしている」情景そのものを映し出す言葉ではないか。なんとも仏教的なイメージに満ちた言葉。
石牟礼さん曰く、
ここには、キリスト教とか仏教とかの教団宗教を超えた、日本の民衆の土俗的な信仰の核が表現されているように思える。(『完本 春の城』「草の道」p99)
みなみな死に果て、硝煙の薄れこのあたりの、宗教的存在の玄義がたち現われてくる。(『完本 春の城』「草の道」p67)