本日も資料読み まずは乳母嶽大明神


室町時代の末に起こった説経節は。近世初期に操人形と結びついて説経浄瑠璃になる。
が、義太夫浄瑠璃に圧倒されて、享保末には衰退したという。

それでも、「山椒太夫」をはじめとする5説経は、その後も山伏が錫杖やほら貝を伴奏にして祭文にして語った。

その祭文に三味線を合わせることを工夫して、享和の頃に説経芝居の一流を興したのが薩摩若太夫

その後地方に広がり、村々の説経祭文、瞽女唄にも影響を与えたのが、この薩摩派の説経祭文。
(ただし、佐渡だけは古説経が残っている)。


さて、薩摩若太夫の「三荘太夫」を繙けば、面白いのが「うは竹恨の段」。みだい様と佐渡にゆく船に乗せられたうは竹は、ざんぶと海に身を投げる。


「其時にはかに おきより みづけむり。さかなみ立ッて あれいだし。くろくも しきりにまいさがり。しんどうらいでん はたたがみ。雨はしやぢくをなかしける。女のいちねん おそろしや。かのうは竹がおんりやうは。はた尋あまりの大じやとたちまちあらわれて。九万九千のうろこに 水をいららけて。角をかぼくとふりたてて。大の眼をいからして。げに紅のしたをまき。逆まくなみをかきわけて。ういつ。しづんつ。しづんづ。ういつ。直江へもどる山おかが跡をしとうて。かの大じや くもにまぎれて とんで行く。」

という具合に、うは竹は大蛇に変化して、みだい様と安寿と厨子王の一行をかどわかして、佐渡と丹後由良の船に売り分けて直江の浦へと戻ってゆく山岡太夫の船を追い、命乞いする山岡太夫をずんだずんだに引き裂いて殺す。

しかし、それでもうは竹の怒りはおさまらない。そもそもは直江の浦にて、安寿・厨子王一行に誰も宿を貸さなかったから山岡なんぞにかどわかされたのだと、怒りは直江の浦一帯の千間に及んで、大嵐になる。

あな、おそろしや、うは竹の祟り。

「せめてたたりをしづめんと 早々はまべに祠をたて。うは竹大明神と一社のかみにくはんてうす。むかしが今にいたる迄。ほくろくどうは きたのはて。ゑちごの国。直江千げんのちんじゅ。うは竹大明神これなりし 人は一代。末世に残るは うは竹社なり。それはさておき ここに又。もののあはれは御兄弟。かのみや崎が買取て。はるばるたんごへいそがるる。程なくたんごに成ぬれば」

という次第で、直江津の乳母嶽神社の謂れが、説経祭文「三荘太夫」では語られる。

実際、直江津の居田に乳母嶽明神。茶屋ヶ原に乳母嶽神社。

でもね、当然にこれは虚実入り混じる話であるわけで……。


ちなみに高田瞽女の「山椒太夫 舟別れの段」では、説教祭文と同様、うは竹は大蛇になって山岡太夫を締め殺すけれど、乳母嶽大明神の謂れまでは語られない。